「元八幡と砂村新田 」関 清春 著 という本を図書館で借りて読んだ。
砂村新田は砂村新左衛門主導の下、砂村新四郎らが江戸時代初期の万治年間に開発した。
深川から先は 干潟のようなところだったらしいが
三角州のような場所を基点に干拓が行われたものと思われる。この辺りの小高い洲が宝六島と呼ばれていたことから、新左衛門はこの新田に「宝六島新畠」と名づけた。後に「砂村新田」となる。
砂村新田はどうやって 造られたかの考証がある。
江戸のゴミを埋め立てたという説もあるが まてよ・・
江戸は究極のエコ都市。食べられるものは食べ 燃やせるものは燃やす。
布もボロボロになるまで使用し最後は薪となる。
し尿も肥料となり 捨てるものはほとんどない。
それなのにはたして 埋め立てるほどのゴミが出てしかも遠い砂村まで運んだのだろうか・・・
そうなれば この本の関さんが言っている通り 干拓事業だったのではないだろうかという説のほうが真実味がある。
中川に流れてくる 土砂や大川の土砂などを使用したのだろう。
運河のごとく 縦横にある仙台堀川 大横川 横十軒川など多数の川も船の行き来に大切な交通手段だったろうし 当然川底の土砂もすくっていたのであろう・・・
そんな風に書かれていた。
しかし砂村一族というのは 優秀な土木技術者集団だったのですね。
新左衛門が勧請した八幡(現在の富賀岡八幡宮)の辺りは江戸時代に「元はちまん」と呼ばれる景勝地だったらしく 広重の名所江戸百景に描かれている。桜の名所だったそうな。
以前深川資料館で 歌川広重による有名な『名所江戸百景』の特別展を見た。
目録と118枚の図絵から成る江戸末期の名所図会の集大成の展示。
深川資料館は江戸の庶民の暮らしを知るにはとてもいいところです。
そのブログはこちらです。
http://umeno87.sblo.jp/article/42115777.html
名所江戸百景 「砂むら元八まん」をみると元八まんの社殿は描かれておらず、江戸湾を背景とした鳥居のみが描かれている。葦原があり地面が直接海面に接してる様子がうかがえる。

前記の元八幡の立て札にも書いてあるように桜と松がたくさん植えられていた。
江東区はあちらこちらが桜並木の名所だし区の木には「クロマツ」が指定されている。
「元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624-1643)の初めに今の深川へ移し、そのため、寛文5年(1665)に旧地を元八幡と称したといわれています。
この付近は松樹が生茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所であったといわれています。また「江戸名所図会」や、安藤広重の「名所江戸百景」などにも当時の様子が描かれています。(江東区掲示より)。」
富賀岡神社には
砂町新田開拓者 砂村新左衛門顕彰碑 がある。
そういえば 富岡八幡宮の本祭りは盛大で 54基ほどの神輿がでるが昨年は
震災で中止になった。今年はまた水掛けのにぎやかな神輿が繰り出すのだろうか・・・
楽しみです。
2008年度の祭りの写真です。
http://umeno87.sakura.ne.jp/fukagawa/maturi.html
三国の祭りは5月。大きな山車が数台出て狭い町中を練り歩きます。
子供の頃は 三国神社まで 何度出かけていったことやら・・
両側に たくさんの露店が並び それはそれは大賑わいなのです。
お祭りっていいなぁ・・・。