2012年02月28日

レインボーローズ2

花びらの色が違うことが不思議で 茎の色を見てみた。
茎はヘリが色分けされているくらいで そんなに色はついていない。
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しかし 葉は青系が勝っているみたい。
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それがどうして 花びらでレインボーになるのか・・・

調べると

花びらを1枚ずつ違う色に染めるため、茎のどの部分がどの葉・花びらに通じているかを調べ、茎を複数に裂いてそれぞれ違う色の植物性特殊染料につけるそうです。そのため、葉もさまざまな色に染まっています。

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って書いてありました。
染料を吸い上げさせる時間が長いほど濃く発色するとのことです。
なるほど・・と納得。

しかし 茎を裂いてってところが ちょっとかわいそうな気もしました。
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2012年02月26日

レインボーローズ

お友達からお見舞いのお花が届いて 驚きました。
とても大きな花束でした。
それも レインボーローズだけの花束!!

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この レインボーローズ(英語: Rainbow rose)は、白いバラの花びらを染料で着色して虹色(レインボー)に染め分けた花です。
花言葉は「奇跡」。人工的な発色は悪趣味と感じる人もいるかもしれませんが、パーティーなどのデコレーションや特別な日の贈り物として人気だそうです。

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その存在は何年か前から知っていましたし写真で見たことはあったのですが実物を見たのは今回が初めてです。なにせ そうそう買える値段でもないので 注文でしか仕入れないそうで店頭でみることはあまりありません。

10本の花束は豪華でした。
普通 葉も染料を吸い上げるため 色がつくので切ってあるそうですが そこそこついていてそのかわりの緑の葉が花束用に入れられていました。

なんか 辛い思いをしたあとですが 気持ちが豪華になったようです。
ありがとうね!!

眺めては癒されています。
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2012年02月13日

洲崎遊郭跡 4 最終回

汐浜運河の近くまで行くと 都営アパートの前に 石碑が立っている。
この地は遊郭のあったころ 性病検査所になった洲崎病院跡だそうです。
洲崎三業組合が建てた 「洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養」 の石碑である。
「白菊の はなにひまなく おく露の なき人しのふ なみたなりけり」
昭和6年11月9日 洲崎遊郭開業50周年記念法要に信州善光寺大本願119世大宮尼智栄上人が詠んだものです。
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三業組合とは料理屋・待合茶屋・芸者屋の3業種の組合で花街の同業者組合を指すのだと思います。

遊女のことを思い、この石碑を見てなぜか胸がジーンときた。
ちなみに洲崎遊郭の遊女の投げ込み寺は、江東区平野二丁目にある浄心寺である。
境内に洲崎遊女合葬墓がある。そのうち 行ってみようと思う。

汐浜運河の白いもくれんの並木道は おしろいの遊女の花のように思えます。

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新砂橋から南開橋までの潮風の散歩道はもうすぐ(3月上旬頃から) 白いもくれんの花が咲きます。
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何度か見に行きました。今年は思いをこめてみることになるかもしれません。


追記続きを読む
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洲崎遊郭跡 3

大門通りの東側に赤線の跡が点在していますが、西側はもうなにもありません。
その東側も解体され 瀟洒なマンションや民家になったりしていて 探しましたが よくわかりませんでした。

その代わり 当時からあると思える 巨大アパートなどは今も残っていました。
銭湯も2つ残っています。
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洲崎遊郭は、岡場所と呼ばれた遊廓だった。
木場という土地柄、木場の川並集、漁師、沖中仕、職人たちなど半纏姿の遊客が多かったようです。

洲崎遊郭は郭の三方を運河に、一方を海に囲まれた出島状態の土地で外界との境目のように 、洲崎橋のあった洲崎川 、西洲崎橋側の大横川の運河、そして東陽中学側の運河と今もその名残はある。
南開橋の汐浜運河(ここは以前は海)は綺麗に整備され 堤防は白いもくれんの咲く遊歩道となっている。 東陽中学側の運河は埋め立てられ壁のように高くなっているし 洲崎川緑道公園も埋め立てられて高くなっている。
要するに このあたりは まわりから少し低い土地となっているのである。

汐浜運河の遊歩道や東陽中学側から見れば 住宅の2F部分がちょうど歩道の位置なのである。
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木場駅が近いこともあり 都心に行くには便利な土地であるから マンションもどんどん建っていますが いまだに「昭和のかほり」のする古い建物も点在している 場所です。
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汐浜運河側は 歯抜けのような空き地が見られます。そのうち開発されるのだろうか・・・

続きます。
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2012年02月12日

洲崎遊郭跡 2

洲崎遊郭は郭の三方を運河に、一方を海に囲まれた出島状態の土地であった。

根津遊郭は東京帝国大学が本郷に出来ると、教育機関の側に遊廓はまずいという事で、明治19年洲崎に強制的に移転させられています。洲崎は当時 海面を埋立てて造成したところです。

明治の頃の 図
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明治42年には、業者160軒、従業婦1700人、大正10年には業者277軒、従業婦2112人になったといわれています。

<永井荷風 「深川の唄」より>
 「夏中洲崎の遊廓に、燈寵の催しのあった時分、夜おそく舟で通った景色をも、自分は一生忘れまい。苫のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸体の船頭を照す。川添いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身した裸体の男と酒を呑んでいるのが見える。水門の忍返しから老木の松が水の上に枝を起した庭構え、燈影しずかな料理屋の二階から芸者の歌う唄が聞える。」

昭和の空襲で洲崎は壊滅的に焼けてしまいましたが、戦後は土地の東半分だけが「洲崎パラダイス」として復興し、赤線廃止までの13年間、栄華を極めていたそうです。昭和33年4月1日の売春防止法施行によってすべての営業が廃止されました。

戦後のカフェーと呼ばれる特殊喫茶店は、GHQの指令により公娼制度の廃止が通達された後、洲崎などの全国の遊郭が生き残る為に特殊喫茶に鞍替えしました。
警察もまたそれを許可し、指定地域を赤い線で囲いました。(赤線という言葉はここから来ている。許可がないものは「青線」)

大通りをはさんで 東側は 一部アーケードの商店街になっています。
その角にある 現在 八百屋さんなどが入っている建物は 屋根、外壁を見ると赤線時代の建物である事がわかります。

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タイル張りの円柱の柱、アーチ状の屋根の特徴が見えます。

戦後から昭和33(1968)年の赤線廃止まで、洲崎パラダイスには220軒の特殊カフェーが密集していたらしい。

もう一軒 「大賀楼」の跡である「大賀荘」があったのだけれど 昨年壊されて今は更地になっていました。2階には「大賀」の屋号が掲げられていた。大賀と書いて「タイガー」と読ませたらしいです。
赤線として営業していた時のこのあたりの建物の特徴として複数の玄関を持っていたことですが 以前はいくつかその特徴を持つ民家があったのですが 建替えられてしまい今はあまり見かけなくなりました。探したのだけれど よくわかりませんでした。

写真は更地になる前のものです。

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芝木好子の小説「洲崎パラダイス」を映画化したのが 「洲崎パラダイス・赤信号」(日活)です。

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洲崎パラダイスの大アーチ
(川島雄三監督「洲崎パラダイス 赤信号」日活、1956年 より

昭和30年代の都電や洲崎川、洲崎橋の「洲崎パラダイス」のアーチなどが映像として残っています。一度見てみたいものです。

続きます。
posted by うめのはな at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

洲崎遊廓跡 1

洲崎神社の裏手にまわると 白い(お世辞にもきれいとはいえない)塀に囲まれた大きな屋敷がある。古くて 人が住んでいるのかいないのかわからないが 構えは立派で大きい。
明治20年代の洲崎は、潮干狩で海岸に茶店が出て賑わったとの記録があり そのたぐいかなと思いながら歩く。

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門のかどをまがると 西洲崎橋。西洲崎橋のたもとには「戦災殉難者供養塔」と小さなお地蔵様が置かれている。ちょうどお屋敷のすぐ裏。深川・本所地域は空襲で壊滅的だったが 洲崎遊郭も激しい空襲で壊滅した。
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西洲崎橋を渡り 現在の東陽1丁目に向かって歩く。
吉原に匹敵する程の巨大な遊郭があったのが現在の江東区東陽一丁目、昔の地名で言うと「深川洲崎弁天町」という場所。
今では 普通の民家やアパート マンションなどが立ち並ぶ町である。
最初の大門通りに出る。

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元洲崎遊郭の中心あたりに建つアパホテルは、以前は「ホテル東陽。
そしてその前は洲崎屈指の大遊廓「本金楼(本金邑楼)」だったそうです。

青空文庫 底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
   1949(昭和24)年2月20日発行

洲崎の印象 木村荘八
http://www.aozora.gr.jp/cards/001312/files/47709_34082.html

洲崎遊郭の様子が描かれています。

続きます。
posted by うめのはな at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2012年02月11日

洲崎神社 2

手水舎から 本殿へと。

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洲崎神社には海の波を象徴するものがあちこちに見られます。
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両脇に狛犬。
口の開いているのが、阿形
閉じているのが、吽形
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2つで阿吽(あうん)。

社殿の左手には 豊川稲荷 , 於六稲荷 。

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そうそう 入り口にこんな説明版がありました。
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由緒書きの真下にある石の由来というか 意味がよくわかりませんでした。誰か教えてください。

洲崎めぐりはまだこれから続きます。
posted by うめのはな at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

洲崎神社 1

洲崎神社は元禄時代に徳川綱吉の生母桂昌院の守り本尊である弁財天を江戸城から移して祀ったのが始まりという、由緒のある神社である。
当時、このあたりは風景絶佳の海岸で、舟遊びや潮干狩りで賑わい、弁財天は海中の島に祀られていたということです。
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「洲崎弁財天境内全図」広重画  東都名所「全図」シリーズ

江戸時代までは洲崎弁天神社と言われ、これが洲崎弁天町の地名の由来となっている。

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現在の弁天様は 本殿の裏にあり昔風光明媚な海岸に立地していたとは信じられないほど小さく水もにごっていました。

神社入口には「波除碑」がある。寛政3(1791)年の大雨で高潮が襲い住民が多数死んだ時に建てられた古い石碑だが 江戸時代のものとあって崩れそうな感じでした。
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洲崎神社 波除碑 

 「寛政3年(1791)9月3日に大雨が降り始め、翌日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって弁天社を始め、その付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出ました。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西の5,467余坪を買上げて空地とし、家作を禁じて後の水害に備えることとし、さらに同6年(1794)12月、空地東西の北端に波除碑2基を建て、見通しの標としました」

また洲崎が海に面した海岸町の名残とも思える「名人竿忠之碑」もあります。
1864年生まれの竿作り名人の碑で、徳富蘇峰の書です。
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posted by うめのはな at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

洲崎川緑道公園

洲崎川緑道公園を歩きます。
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桜並木や 自転車専用道もあります。川を埋め立ててつくったということでひたすら細長い公園です。ところどころにベンチがあります。

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公園が終わると 木場6丁目あたり。弁天橋を渡ってすぐが洲崎神社です。

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2012年02月10日

大門通り 

大門通り、 おおもんどおりと読む。

江東区の洲崎(現在の江東区東陽)にあった遊郭『洲崎遊郭』の洲崎大門と吉原大門を
つなぐ街道が『大門通り』 現在もバス通りとして残っている。

そこを歩いてみた。まずは 葛西橋通り交差点の標識。
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少し行くと 旧平住橋。以前急な傾斜の橋だったが 今は平らな交差点となっている。
橋の記憶というプレートがあった。
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もう少し行くと 住居の間に赤い鳥居が見えたがほんとに小さなものでなんという名の祠だか見えなかった。
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この大門通りの歩道は楽しい。
いろいろなタイルのプレートがはめ込まれている。みな図柄が違うので眺めながら歩くのもいい。
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そうこうしているうちに 永代通りとの交差点に着いた。
写真は東陽3丁目交差点から 歩いてきた方向に向かって写しています。
大門通りは商店街なので アーケードなどもありますが そんなに人は多くないです。
寂れているといったほうがいいかも。

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ここから先は旧洲崎遊郭があった場所である。
永代通りを横切ると 洲崎緑道公園がある。

その脇にある 洲崎川緑道公園の案内板。だれが着せたのかわからないが
真冬だからか 上のブロンズの少女は分厚いコートを着ていた。以前は下の写真。これも誰かが着せたものでしょう。本来 何も着ていません。

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昭和57(1982)年に埋め立てられた洲崎川は緑道公園として使われていますが旧洲崎橋の名残のプレートがありました。
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旧洲崎川だったところ。旧洲崎橋は大通りになっています。

さて 洲崎めぐりをすることにします。
続きます。
posted by うめのはな at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2012年02月07日

越前坂井うららの極味膳

福井県坂井市の食材を使った膳料理を市内50店舗(うち17店舗は越前がにを使った「かに膳」)が提供する「越前坂井 うららの極味(きわみ)膳」の販売が昨年末で2カ月がたった。販売数は2271膳、売り上げは約626万円で、事業を展開する坂井市商工会は「滑り出しとしてはまずまず」

という記事を見た。
「越前坂井うららの極味膳 」というHPもある。
これは おいしそうで食べてみたい!
何より地元産の食材というのがいい。
新鮮だし水もなじみ美味しいと思う。

参加条件は

第 一 条 地域の素材を活用した料理であること (地産地消、伝統食文化)
第 二 条 通年で提供できるものであること (ただし、季節ごとに食材の変更は可能)
第 三 条 市内で調理し、かつ提供されるもの (地産地食)
第 四 条 オリジナリティにこだわり料理から地域の食文化がイメージできること (食文化の再発見)
第 五 条 商品名には必ず「膳(ZEN)」の言葉をつけること 

だそうです。
地産地消の極みみたいで食育に良い。
ちなみに うらら という言葉の意味は 方言で「私たち」という意味。

あの原発事故後 食材選びに悩んでいます。
西日本産があれば 多少値段が高くてもそれを選びます。
しかし 悲しいかな・・・それは少ないです。関東モノが多いです。

「JA越前たけふ」が全農を離脱したせいか 時々 JAえちぜんブランドの ネギやサトイモ が置かれています。でもすぐ売れてなくなります。武生のえちぜん蕎麦もすぐ売れてなくなりました。

全農の縄張りやしばりがあるせいか なかなか福井の農産物は入ってきません。
米は 富山産は見かけますが 越前コシヒカリは見かけません。
魚も 石川や富山は見かけますが 福井というのはめったに見かけません。
どうしてなんでしょう。

関東の人は食材を選ぶ人がかなりいます。
多少高くても少しでも安全なものをと思って買います。
西日本のものはすぐ売れてなくなります。
政府や自治体や農協の基準地以下は信用しません。
抜き打ち検査で やはり出てました〜ってこと多いですしね。

もっと福井産のものが食べたい・・・

「さらなる販売数増に向けた取り組みを計画。2月に、ふくいの食アンバサダーでフランス料理シェフ三國清三さん(東京都)と県の健康長寿ふくい推進特別アドバイザー、服部幸應さん、福井市出身でふくいの食アンバサダー、友田晶子さんを招き、極味膳の食べ歩きテレビ番組を制作、放映する。」

なんて取り組みやるそうですが
それなら 東京のほうに野菜出荷してくれませんかねぇ〜

三國シェフのお店なんて予約じゃないと食べれないし 高級すぎますし。
普通のものを普通に買って食べたいというのがささやかな願いです。

春に帰省したら 極味膳 どこかで食べてみよう。。。
posted by うめのはな at 11:25| Comment(2) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年02月06日

放射性セシウムが人体に与える医学的生物学的影響

書名  =  放射性セシウムが人体に与える医学的生物学的影響
副書名  =  チェルノブイリ原発事故被曝の病理データ
著者名  =  ユーリ・I.バンダジェフスキー/著
     久保田護/訳   合同出版 2011.12 111p 21cm

出版社の紹介文:
チェルノブイリ原子力発電所事故によって汚染された地域の住民の健康状態に関して、ゴメリ医科大学が10年にわたって実施した剖検を含む医学的調査、および動物実験の結果を評価し、人体の各器官に起こる病理学的変化を考察したものである。
病変は全身の臓器に認められたが、とくに放射性セシウムの毒作用に注目し、生体中の長寿命放射性元素による一連の症候群(SLIR)を強調した。
 体内に取り込まれた放射性セシウムによる健康影響を考える一助に。

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半分は原文なので 日本語訳は50ページほど。

wikiなどを参考にすれば
「ユーリ・バンダジェフスキー博士は 
ベラルーシ政府への批判によるものと思える 不当な理由での逮捕により2001年に8年の実刑判決を受け 服役していた。
実際にバンダジェフスキーの逮捕は彼がセシウムの医学的影響に関する研究論文を発表した直後に行われた。 
冤罪だとアムネスティが抗議した。

自らの無実と共に、過去10年間ゴメリ医大で国からの援助や資金を受けずにセシウムの健康への影響を解明する研究に取り組んできたことを獄中より訴え、バンダジェフスキーの投獄に対する国際世論の高まりに押される形で、刑期途中の2005年に釈放された。

ベラルーシ政府は『(チェルノブイリ原発事故による)放射線は人体の健康にほとんど影響しない』という見解を現在でも堅持しており、現在、ベラルーシを国外追放となり、ウクライナ・キエフ州のイヴァンキブ(Ivankiv)中央病院に勤務している。

10年にわたるデーターからは心臓をはじめとして、腎臓、肝臓、甲状腺・胸腺・副腎などの内分泌臓器に高いセシウム137の集積と組織障害が起こることがわかる。
実際ベラルーシでは心筋の疾患が増えている。
解剖した結果ですから、非常に信頼性が高い。」とのことです。

作業員などの心筋梗塞による突然死も 日本政府から見れば 放射能と関係がないという発表になるでしょう。がんよりも 心臓疾患 白内障などの病気が増える心配がある。
子供に限らず 大人でも同じです。

被曝の影響は胎児や子供に大きく生じ、遺伝の影響が次世代に現れる可能性や食品汚染による内部被爆がとても懸念されます。

「直ちに健康に影響はありません」は7回しか言っていないそうですが あれだけ日本中の人が放射能に怯え心配している時期に しかも食品汚染や土壌汚染の実態がわからない時期にああいう発言はするべきではなかったと思います。

専門家も
急性障害のことを言っていると思う。だけど、(障害には)急性障害と晩発障害がある。晩発障害は数年とか数十年経ったあとに『がん』ができる障害。そのことを一切言わないで安心安全と言うのはおかしい。
と述べています。

専門的な本かもしれませんが 図やグラフなどのデーターが多く わかりやすいので セシウム137の影響の真実を知りたいかたは是非 一読を・・・。
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2012年02月05日

大江戸今昔

大江戸今昔マップ   東京を、江戸の古地図で歩く
 かみゆ歴史編集部/編 新人物往来社 

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こんな本を読んだ。読むというより眺めて楽しんだ。
古地図の上に 現在の道路や路線、施設を記載した少し透明な地図が重ねられるようになっているので 今と昔が比較できなかなか面白い。
町のつくりが江戸時代とあまり変わらないこと、神社・仏閣 史跡などは今も健在であること。
大名屋敷はそれなりの大型施設として残っていることなどがわかる。

江戸13区。本所深川あたりから向島 品川宿から 染井王子あたりまで 西は新宿 渋谷くらいまでと限定されている。
あの赤坂溜池は本当に溜池で神田上水 玉川上水が整備されるまでは上水として使用されていた。
土地が低いので今でも 大雨時は水があふれる場所である。
品川あたりは 東海道線の外は海であった。その昔 駿河台あたりの山を削って埋め立てたそうな。

しかし 面白いのは渋谷 青山あたりは ド田舎だったことである。
「川ひとつ 丘五つ 谷二十」といわれ 渋谷川(明治通りあたり)が郊外との境であった。現246号青山通りだけが 大山詣出の人が行きかう道であった。青山も渋谷と同じく畑や荒地であった。
むろん 白金台や目黒 代官山あたりも 田 百姓地と記されている。

あの高級地が 百姓地ってねぇ・・・・

続きます。
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2012年02月01日

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日 - 1964年5月7日)は、アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家。

ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。YMCA活動を通しキリスト教の普及活動をした。
讃美歌などの作詞作曲した音楽家でもある。

1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。日本名、米来留は「アメリカより来りて日本に留まる」との意味を持ち、生涯伝道の志を失わなかった。

主に近江八幡で活動したが 日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けその作品は 教会 病院 学校 個人邸と1600にものぼる。
都内では明治学院大学礼拝堂 早稲田奉仕園スコットホール 山の上ホテルなどが有名。

太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。

実は 恥ずかしながら 今まで知識がまったくありませんでした。

負けんとき ヴォーリズ満喜子の種まく日々上・下 玉岡かおる/著   新潮社 2011.11

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これを読んで とても感動したので ノンフィクションも続けて読みました。

メレル・ヴォーリズと一柳満喜子   愛が架ける橋
Grace Nies Fletcher/著 平松隆円/監訳 水曜社2010/11 
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 実にすばらしい人たちだったと改めて感慨深く思った次第です。

数々の逆境を乗り越え、近江八幡でのミッションを通し世界との「愛の架け橋」になろうとしたキリスト者夫妻の愛の生涯を描いたものですが まさに無償の愛を貫いた生き方で 感動しました。
人はこんなにも 優しくいたわり 他人のために尽くせるものなのだと・・・。

そのうち暖かくなったら メレル・ヴォーリズさんの歴史的建造物でも見て歩きたいです。
できれば いつか近江八幡の記念館を訪ねてみたいです。
posted by うめのはな at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書