2012年04月30日

深川散歩5 富岡八幡宮1

深川の八幡様、富岡八幡宮です。
110-1033_IMG.JPG
この大きな鳥居の近くには大きな石燈篭があります。
110-1036_IMG.JPG 
永代島という島及び周辺の砂地一帯を長盛上人というお坊さんが埋め立て、その土地を幕府に寄進したことにより 上人は幕府から富岡八幡宮および永代寺の建立の許可を得ました。当時は八幡宮を創建したお坊さんが 「八幡宮別当」として永代寺を創ったそうです。
上人はお坊さんですから永代寺をつくらなければ 富岡八幡宮は管理できなかったのでしょうね。当時は「神仏混交」といって、神社とお寺が一緒に祭られていたそうです。
20124monnaka88.JPG
上人は八幡菩薩の像を拝んでいましたが「武蔵野国に永代島と呼ばれるところがある。そこの白羽の矢が立っている場所に私をまつりなさい」という夢の中のお告げ
でこの地へ来たと伝えられています。
hatimango.jpg
富岡八幡宮 江戸名所図会

富岡八幡宮は 元は永代島にあったので永代島八幡宮と呼ばれたそうです。
富岡という地名は後にできたものです。
tomioka.jpg
永代島周辺の砂洲一帯を埋め立ててる際、何度も高波に襲われ作業は難行。、現在の横浜市金沢区富岡町にある富岡八幡宮(浪除八幡)の分霊をお祭りしたら、埋め立ては無事成功したそうです。
深川の「富岡八幡宮」のはじまりだと言われています。現在も「深川の八幡様」といって横浜と区別しています。建立当時は遍照院と言いましたが京都の仁和寺が永代寺という寺号を与えてくれました。 永代寺も永代島にあるから 永代寺だったのでしょう。
永代島の知名度は高かったようです。
posted by うめのはな at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2012年04月29日

深川散歩4 深川不動堂

元禄時代、江戸っ子に大人気の成田のお不動様を江戸でも拝みたいとはじまったのが「出開帳」。
綱吉の生母「桂昌院」が「成田のお不動様」の熱心な信仰者であったとのことで 成田のお不動様を江戸に持ってくるということが始まりだったそうです。
それが「永代寺」で開かれたというのは書きましたが 明治の廃仏毀釈で永代寺は廃寺となり後にその場所に深川不動堂ができました。
深川不動は「成田山」の別院です。「成田屋」市川団十郎と「成田山」の縁は深いそうですが 石塀(玉垣)には多くの歌舞伎役者の名が刻まれています。著名な歌舞伎役者など多くの人が玉垣を奉納するほどに人気があったのですね。25920780_org_v1335417580.jpg
明治44年の絵葉書の深川不動堂です。 石造玉垣はほとんどが震災で倒壊し昭和5年再建されましたが 一部明治13〜22年に建造されたものも残っているそうです。。
20124monnaka123.JPG
戦災と震災で二度本堂が焼失しながらも ご本尊は消失をまぬがれたそうです。
昭和26年(1951年)に当時千葉県印旛沼のほとりに建っていた龍腹寺{文久2年(1862年)建立}を深川に移築し復興、現在の本堂となりました。
本堂の真後ろに高速道路が走り 見栄えが悪いと思ったのかどうか・・
高速道路を消すように平成14年 4階建ての内仏殿が完成します。
109-0995_IMG.JPG
2006年撮影のもの。
20124monnaka139.JPG
今回撮影のもの。
今回行って 驚いたのが 新本殿。2011年完成。総事業費30億とか。
外壁は銀&金の梵字(不動明王御真言)だそうです。本堂というより 〇〇の館。
いやぁもう凡人にはおそれ多くて 近寄りがたくて そそと歩いて離れました。
20124monnaka138.JPG
中もそれなりに 驚きの連続だそうです。「宝蔵大日堂」の天井画は 中島千波が描いています。《大日如来蓮池図》「さくら画家」ですからその絵は繊細でみごとでしょうね。次回は中も見てみます。アート的というか、近未来的なのかもね。
でも、旧本堂の存在感がなくなった感じ。少なくとも 江戸情緒を大切にする深川的ではないなーーーと個人的感想です。

忘れてはいけないのが石造燈明台です。日清戦争(1894.95)の勝利を記念して、深川不動堂の燈明講によって奉納されたものです。平成19年度に深川不動堂から江東
区に寄贈され、翌20度年、深川不動堂西隣の深川公園に移設されました。
20124monnaka146.JPG
移転の方法は、燈明台を崩さず、そのまま少しずつ移動させる「曳家工事」の方法がとられました。
image01.JPG
本体の保護工事が施行され、約1カ月をかけて境内を横切っていきました。この燈明台や玉垣にも、魚河岸や遊郭、地元の商売人や 有力者など沢山の寄贈者の名前が刻まれています。九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次、五代目中村芝翫、中村福助やなどの名もあります。探してみるのも面白いでしょう。

下の写真は福井県三国町にある 成田山福井別院九頭龍寺です。昭和33年に千葉県の成田山本山から本尊不動明王の分霊を迎え創建。飛鳥時代の建築様式をいかした造りの外観です。私のふるさとです。
21280017.jpg
東京に来る前 成田市近くに住んでいましたので もちろん本家成田山新勝寺は何度も行きました。
posted by うめのはな at 13:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2012年04月28日

深川散歩3 永代寺

永代通りから参道に入ると途中に小さな寺があります。
現在の「永代寺」です。
20124monnaka126.JPG
明治時代に「廃仏毀釈」という神仏分離政策がとられました。
日本古来の神様を大事にするという「国粋主義政策」です。
これにより旧永代寺は取り壊され、廃寺となりました。
しかし 廃寺になった永代寺の住職はそのまま、富岡八幡宮の宮司になりました。
永代寺の敷地は、そのまま、富岡八幡宮が引き継いだのです。

現在の永代寺は、永代寺の塔頭だった吉祥院聖天堂が、明治22年廃寺となった永代寺の名を引き継いだのです。当時の吉祥院の土地のほとんどは深川不動堂となっています。
深川不動があるところに永代寺は建っていたのです。吉祥院が「永代寺」の名を継いだことで、永代寺の名は深川に残りました。
門前仲町という地名は、不動堂の門前でも富岡八幡の門前でもなく「永代寺の門前町」という意味。江戸時代には不動堂は永代寺の一部に過ぎなかったのです。新参者の私は目かか ウロコでした。(だって 永代通りにドン!と「成田山」と書いたでかい 鳥居みたいなものあるんですもの。勘違いしますよ。)
IMG_1666.JPG

古地図を見ますと、このあたり一体は、「永代寺門前町」と書かれています。
eitaikotizu.jpg
「永代寺門前町」、「永代寺門前山本町」、「永代寺門前仲町」、「永代寺門前東仲町」、「永代寺門前門前仲町」という当時の地名からみてもわかるように 門前仲町というのは 八幡様の門前町ではなく「永代寺の門前町」という意味です。
今も地名に 永代はあるし 永代通り 永代橋と残っています。

旧永代寺には、「江戸六地蔵」と呼ばれる有名な六つのお地蔵様の一つがありましたが 廃仏毀釈で壊されてしまいました。
eitairokujizo.jpg
江戸名所図会の永代寺には ちゃんと六地蔵と書かれています。
江戸六地蔵は、宝栄年間 地蔵坊正元という人が旅の無事を願い、江戸御府内6ヶ所の街道の入り口に、江戸庶民からの寄進を募って銅造の地蔵菩薩坐像が造立された。像高はいずれも270cm前後の大きなお地蔵様です。5つは現存しています。
東 海 道  海照山 品川寺 <真言宗> 品川区南品川
甲 州 道  霞関山 太宗寺 <浄土宗> 新宿区新宿
中 山 道  医王山 真性寺 <真言宗> 豊島区巣鴨
奥 州 道  洞雲山 東禅寺 <曹洞宗> 台東区東浅草
水戸街道  道本山 霊巌寺 <浄土宗> 江東区白河
千葉街道  大栄山 永代寺 <真言宗> 江東区富岡
すぐ近くの霊巌寺の地蔵様は残っています。
現在の永代寺には、沢山のお地蔵様がおられます。6体おられるそうですが みな小さなお地蔵様です。地元の人はよくお参りしているそうです。
20124monnaka128.JPG 20124monnaka129.JPG
永代寺のまわりには 以前奉納者の名前を刻んだ石が積みあげられていたのですが今回行ってみると
下の部分を残して 竹垣になっていました。耐震のためか。
20124monnaka134.JPG
2段目までは残っていました。その奉納者の名を見ると 〇〇楼というように遊郭の楼主らしき名がありました。もちろん遊女らしき女性の名もありました。信仰心からか 宣伝のためなのか。。。

何故 永代寺の六地蔵様は壊されなければならなかったのでしょうか 疑問は残ります。
現在の永代寺となった 当時の吉祥院は広い寺域を持っていたようです。
その吉祥院の中に、永代寺での出開帳で大人気を博した成田不動の別院、現在の深川不動堂が作られたからです。江戸における成田不動の出開帳(「秘仏特別公開」)は安政3年(1856年)まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となりました。大盛況だったようです。
明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められ 深川不動堂は、吉祥院の土地のほとんどを使って、独立します。
境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められました。
そうです!深川不動があるところに永代寺は建っていたんです。

小さなお寺として残った吉祥院は、明治22年、名を継承し現在の「永代寺」となるのです。
こうしてみると 私にも当時に何が起こっていたのか その筋書きなんとなく見えてきました。
しかし 何せ昔のことで本当のことは 私にはわかりません。

門仲に行ったら参道の傍らにある小さな「永代寺」のこと思い出してくださいな。
地蔵菩薩半跏像(江東区指定有形文化財)(絵画)があるそうです。
jid125.JPG

「本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(14世紀)の製作と考えられます。
後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという珍しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえます。」というような説明が書いてあります。
posted by うめのはな at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2012年04月27日

深川散歩2 深川公園の石

園女歌仙桜の碑のすぐ後ろに奇妙な石が置かれている。
この石が何のためにあるのか 何に使用されたものかは知らない。
六角形や花模様の形の石 それに獅子のような顔が彫られた石。
石灯籠の礎石や失敗作の獅子なのかなぁ・・・とか思いをめぐらす。
20124monnaka163.JPG
永代寺庭園だったころ もしかしたらここに立派な石灯籠があったのかもしれない。
公園整備の時 壊れた石灯籠の土台や 庭石などなどをここに運んで置いたのだろうか。長年雨にさらされ 子供たちの遊び場となり 石は丸くなっている。
そういえば 見渡せば児童公園にはふさわしくない 大きな石があちこちに見えます。
やはり 永代寺庭園の名残りなのだろうか・・・。
20124monnaka165.JPG
大きいほうの公園には 公園の隅には 永代寺跡の石碑もあります。
20124monnaka153.JPG 
ここ深川公園は、元の永代寺境内に設けられた。永代寺は大きな寺で、その庭は江戸で1・2を競う名庭として有名でした。永代寺は富岡八幡宮の別当として建てられました。別当とは神社に属しつつも仏教儀礼を行うお寺のことです。永代寺は富岡八幡宮とセットでした。永代島は6万坪のうち3分の1ほどが寺社の敷地でした。江東区富岡のあたりはほとんど富岡八幡宮と永代寺の敷地だったそうです。
富岡八幡宮の境内は遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘がありました。永代寺廃寺ののち、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つが深川公園です。明治12年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。
hatimanzu8.jpg
江戸名所・深川八幡宮 歌川広重

公園入り口にある説明版に彩色された漆喰絵(鏝絵)があります。伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。中央下部に深川図書館が見えます。 明治40年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。
koteef.jpg
鏝絵(こて絵)というのは日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことで左官職人がこてで仕上げていくことから名がつきました。
鏝絵は神社の壁や土蔵の壁とか扉に描かれていることが多いので 見つけるのもまた楽しいかも。
20124monnaka177.JPG
これは 平野二丁目〜深川二丁目の木更木橋の中ほどにあるレリーフです。
20124monnaka176.JPG
木更木橋の下を流れる仙台堀川は、排水、舟運用水路としての利用価値が高く、木場堀としても利用されました。桜並木のきれいなところです。
posted by うめのはな at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2012年04月26日

深川散歩1 園女歌仙桜の碑

東京最古の西洋式庭園の深川公園内に「園女歌仙桜の碑」があります。
kmonnaka115.JPG
園女(そのめ)とは斯波園女のこと。度会園女とも言う。俳聖松尾芭蕉の弟子である。
芭蕉の門人、度会園女は、夫の死後、 大阪から江戸に出て、富岡八幡宮前に住み、享保十二年(1726年)四月二十日没。 著「菊の塵」「鶴の杖」など。

寛文4年(1664年)、伊勢山田の神官の家に生まれる。医師斯波一有に嫁ぐ。夫・斯波一有は伊勢の医師で俳人。
貞亨5年(1688年)2月、芭蕉は『笈の小文』の旅の途次、園女邸を訪れている。
元禄3年(1690年)2月、芭蕉に師事。
元禄5年(1692年)8月、大坂に移る。
元禄7年(1694年)9月27日、芭蕉は園女邸に招かれている。
(同年10月12日、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で死去。)
元禄16年(1703年)、夫に死別。
宝永2年(1705年)、榎本其角を頼って江戸に出て、富岡八幡宮の門前に住む。
眼科医を業としながら江戸座の俳人とまじわった。
享保3年(1718年)剃髪し智鏡尼と号した。

門前で眼科医を営む度会園女が36本の桜を富岡八幡宮に奉納したのが始まりで、やがて数百本に及ぶ桜の名所となりました。 「名所江戸百景」にもこの永代寺(富岡八幡宮)庭園の絵があります。(庭園の跡は、「深川公園」となりました。)20124monnaka156.JPG
大正12年の震災で焼失、昭和6年有志が36種の桜を植える。三十六歌仙にちなんで36本植えたのでしょうか。この桜は「歌仙桜」と呼ばれるようになりました。
「歌仙桜」の名残を今に留めるのがこの「歌仙桜の碑」です。
20124monnaka118.JPG
題字は92歳の渋沢栄一が揮毫したものです。
そのすぐそばにあるのが 「園女歌仙桜の碑」です。石碑の裏側のもびっしりと俳句らしきものが刻まれているのですが 薄汚れていて読めませんでした。
20124monnaka118.JPG
20124monnaka114.JPG
       
posted by うめのはな at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

遊女・豐田屋歌川 

kasen.jpg
遊女・豊田屋歌川―北前船で栄えた三国湊の女流俳人 
著者:久保 悌二郎(くぼ ていじろう)無明舎出版

「近世北越の俳壇を彩り、加賀千代女と並び称された俳人・豊田屋歌川は遊女でもあった。その謎に包まれた生涯像を、三国湊の北前小問屋・湊屋と豊田屋の盛衰を軸に描く!」

三国出身の人のブログで紹介されていたので 本を探した。
幸い 都の図書館にあったので借りることができ、読んでみた。

第1章 豊田屋歌川を探して
第2章 歌川が生きた時代の俳諧の世界
第3章 三国湊について
第4章 北前船と三国湊

伝説で語られる歌川についての話からはじまり 当時の俳諧の世界。そして 三国湊について、福井藩と丸岡藩のことなどが語られ 最後に北前船で栄えた三国湊の様子か ら著者のルーツにまで踏み込んでいる。歌川の墓の謎にも・・・

俳句のことはよくわからないので 3,4章に興味がいきました。
日文研のデーターベース 近世畸人伝 加賀千代女 追記に越前歌川女として述べられているのでそちらを参照してください。
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/kijinden/
kijinden_141.html
posted by うめのはな at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書

2012年04月25日

福島原発事故独立検証委員会調査・検証報告書

書名  =  福島原発事故独立検証委員会調査・検証報告書
著者名  =  福島原発事故独立検証委員会/〔編〕
出版事項  =  ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012.3
形態事項  =  403p 26cm
著者標目  =  日本再建イニシアティブ1575円
repogenpatu.jpg
「2011年3月の東日本大震災から1年、2012年2月28日に「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)は、独自に調査・検証をすすめていた東京電力福島原発事故について「調査・検証報告書」をまとめ発表した。
当初、非売品として限定部数のみ作成されたが、各メディアで報道がなされると問い合わせが殺到。
「国民の視点からの検証」である報告書を広く世論に訴えたい、とディスカヴァーからの発売が決定いたしました。」

とのことで 時間をかけて 読みました。
 「第1部 事故・被害の経緯」、「第2部 原発事故への対応」「第3部 歴史的・構造的要因の分析」
「第4部 グローバル・コンテクスト」。

第一部第二部は 体験談や聞き取り調査などを交えている。これらは すでに報道などで明らかになっている部分もあってそんなに目新しい事は書かれていなかったように思う。
3、4部は少し専門的な感じでした。

すでに知っていることでしたが 官邸の対応のまずさや ドタバタぶり。連絡網の不備などは描かれていた。
SPEEDIに関して言えば 福島県には情報が送られていたが 破棄されていたということも最近わかってきたが この中でも データ公表が遅れた理由等も描かれていた。

東電側の対応などの検証がほとんどないのが残念。

138ページ 7行目。
ナチュラル研究所の測定データーの部分。3月15日12時21分 89cpm(0.89mSv/h)このデーターの間違いはダメでしょう。
桁が違います。正しくは(0.89μSv/h)ですから1000倍です。
これ見た時 我が目を疑いました。こんなにひどい汚染が日野市で・・・と。
ナチュラル研究所のHPデーターで確認すると やはり間違いでした。
第2刷では訂正されているのでしょうか・・・

最後に最悪のシナリオが添付されていました。
首都圏を含む 200km圏内の避難のシナリオです。

私も昨年の3月15日には危機感を抱いていて 避難用の荷物を作っていました。
しかし 避難と言っても3000万人 4000万人じゃね・・・
交通機関も麻痺しているときに どこへどうやって避難したらいいのか パニックになるだけでしょうね。

2011年03月28日の日記で 自宅にあったGM計数管(ガイガーカウンター)で測定をはじめたと書きましたが 最近は 簡易型のエアーカウンターSで計測していますが 内も外も0.05μSv/h以下です。
posted by うめのはな at 09:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書

2012年04月24日

横浜赤レンガ倉庫

赤レンガで忘れてはいけないのが横浜赤レンガ倉庫 。
歴史的建築物の愛称であり、正式名称は新港埠頭保税倉庫である。
2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工。
1992年みなとみらい地区整備のため 横浜市は赤レンガ倉庫を国から取得。5年以上かけて倉庫を修復し 2002年(平成14年)4月12日、赤レンガ倉庫を中心とした付近一帯を、展示スペース、ホール、広場、店舗からなる商業施設赤レンガパークとして整備 オープンした。

114-1475_IMG.JPG
1号館
114-1474_IMG.JPG
2号館
ついでに観覧車からの眺め。
114-1458_IMG.JPG
ベイブリッジと右に赤レンガ倉庫。
以上は 2005年に横浜に行った時の写真です。そのうち また赤レンガの建物めぐりでもしてみようか。。
posted by うめのはな at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の市区

2012年04月23日

旧中之島公会堂と東京駅丸の内駅舎

姪からメールの添付で写真が送られてきた。
三国で一緒に 旧森田銀行など見てまわったので 歴史的建造物に興味を持ったらしい。
大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)に行ったらしい。
写真では何度も見ているが私は行ったことがない。
GRL_0014.JPG
公募で岡田信一郎案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。
建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建てで 2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定されている。
GRL_0015.JPG
東京駅丸の内駅舎に似ているなぁ〜。同じ 辰野金吾氏の設計だものね。
107-0707_IMG.JPG
東京駅丸の内駅舎は辰野金吾により設計された鉄骨煉瓦造りの建物。
深谷市産の鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545m2・長さ330mの豪壮華麗な洋式建築である。1914年の開業。1945年、第二次世界大戦中に空襲を受け、屋根等を焼失。1947年(昭和22) 東京駅再建 。
再建時に3階建から2階建に修復された建物は その後国の重要文化財として指定される。
107-0711_IMG.JPG
1915年(大正4)東京ステーションホテル開業
107-0710_IMG.JPG
2006年から東京駅丸の内駅舎保存・復元工事により創建当時の壮麗な姿を取り戻そうとしています。
もうすぐ 復元工事が終わるそうです。
IMG_2217.JPG
これらの写真は2006年9月に写した復元工事前のものです。
posted by うめのはな at 20:40| Comment(2) | TrackBack(0) | その他の市区

2012年04月22日

東京国立博物館140周年 特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」

100年以上にわたる日本美術の収集で 、"東洋美術の殿堂"と称される ボストン美術館は海外にある日本美術コレクションとしては、世界随一です。
1870年に設立され、 1876年の独立記念日に開館しました。
「厳選された仏像・仏画に絵巻、中世水墨画から近世絵画まで、約90点。
日本初公開となる曽我蕭白の「 雲龍図」をはじめ、長谷川等伯、尾形光琳、伊藤若冲などの名品が一堂に里帰り。」
Image6.jpg
見に行ってきました。午前中は混雑との情報で午後2時半ころに行きましたら スムーズに入れ会場の混雑もそれほどではなかったです。
Image8.jpg
第一章 仏のかたち 神のすがた
 勒菩薩立像(みろくぼさつりゅうぞう)快慶作 鎌倉時代・文治5年(1189)
これが ハッとするほど美しく見とれてしまいました。思わず「返して!」と・・・
あとは 仏画が並んでいましたが 黒ずんでいて 見てもよくわかりませんでした。

第二章 海を渡った二大絵巻
「吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)」
「平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)」
展示ケースの前は 人・人・人で・・並んで見るのも面倒で 上のレプリカを眺めて へぇ〜程度。
私には そういうものを理解する知識も教養もないので そんな感じ。

第三章 静寂と輝き−中世水墨画と初期狩野派
中世から近世初頭にいたる水墨画の展示。
こういうものは 今まで国宝級の質のいいものを見てきたので いまさら・・という感じでさらりと見ました。

第四章 華ひらく近世絵画
屏風絵。松島図屏風(まつしまずびょうぶ)尾形光琳筆 江戸時代・18世紀前半
などが 展示されていました。

第五章 奇才 曽我蕭白(そがしょうはく)
 雲龍図(うんりゅうず)(部分)曽我蕭白筆 江戸時代・宝暦13年(1763)
ここはなんと言ってもこれでしょう。いやぁ〜奇才ですよ。あの時代にこういう発想で 大胆な筆を使える人はそういなかったでしょうね。

第六章 アメリカ人を魅了した日本のわざ −刀剣と染織
唐織 紅地流水芦菊槌車模様
小袖 白綸子地松葉梅唐草竹輪模様
の着物の 織りや刺繍に見とれました。

見終わっても満足感がない。何だろうこの感じは・・・
日本のものが流出してしまった という残念な気持ちだけではなく やはり物足りないのです。
思えば 初公開とは言え それ以上のものは日本にちゃんと存在しているし 今まで機会があるたびに見てきたのです。そういう意味で 感動はなかったように思いました。

それで 本館の企画、特集陳列を見ることにしました。
・酒宴のうつわ 14室
・小袖・振袖図―明治四十四年特別展覧会の記録―特別1室
・屏風と襖絵―安土桃山〜江戸 本館 7室
・根付 高円宮コレクション 高円宮コレクション室
・書画の展開―安土桃山〜江戸 8室
・能と歌舞伎 能装束に見る舶来の織物 9室
・浮世絵と衣装―江戸(衣装) 10室
・暮らしの調度 8室
これはすばらしかったです。なんと言っても保存状態と質がいい。
広くて全部は見れません。他の部屋は駆け足。ここを見るだけで 満足。
小袖や振袖 こちらのほうが断然いいものです。
仏画や襖絵もしかり。

やっと満足して 博物館を出ました。
posted by うめのはな at 11:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 美術館・博物館・芸術鑑賞

2012年04月21日

新宿御苑 八重桜

昨日 久しぶりに新宿御苑に八重桜を見に行きました。
yoen14.JPG
平日で そんなに混んでもいないし 八重桜は見ごろだし ソメイヨシノは散っていて花びらのじゅうたんのようだし ちょうどよかったかも。
gyoen39.JPG 20124gyoen40.JPG
大木戸門から入り ぐるっと廻って 新宿門から出ました。

ちょうどお昼時で 遠足の子供たちが芝生の上でお弁当を食べていたり 大きな桜の木の下でもシートをひいてお弁当を食べている人がたくさんいました。
20124gyoen31.JPG
中国人らしき団体さんや バスツアーで来ている 外国人の姿もありました。
のどかで美しい風景をまったりと眺めて歩きました。
20124gyoen22.JPG
広くて全部廻りきることはできませんので 八重桜を中心にあちらこちら。
ギョイコウは開花してまもないのか まだ少し小さめの花でした。
gyoen43.JPG
ハンカチノキも まだ小さかったですね。
yoen60.JPG
季節限定の さくらアイスが美味しかったです。
posted by うめのはな at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 新宿区

2012年04月20日

築地ファントムホテル

tujif_.jpg
翔田 寛 (著) 出版社: 講談社 (2012/2/17)
発売されてすぐ この本を読んだ。
明治5年に焼失した日本最初の西洋式ホテルの、焼け跡から宿泊客の刺殺死体が発見された。横浜のイギリス人写真家、フェリックス・ベアトは 英語を教えている青年・東次郎を伴い 報道写真を撮るべく築地を訪れる。そして 通訳として宿泊客 関係者から事情を聞くこととなる。
ストーリーは 目撃証言の鎧武者と刀を持った侍風の男。二重三重に張られた伏線。
そして衝撃の結末と とても面白かった。明治初期の横浜や江戸の様子がわかり興味深かった。庶民の暮らし 当時の風景 日本人の気質がよく描かれていた。
 
ストーリもさることながら 裏表紙に描かれている ホテルの平面図に興味がいった。
そして 主人公ベアトと西洋ホテルが 実在していたものだと知った。
ベアトについても 少し調べてみました。

フェリックス・ベアト フェリーチェ・ベアト(Felice Beato、1832年 - 1909年1月29日)は、イタリア生まれのイギリスの写真家。
東アジアの写真を撮影した初期の写真家の一人である。
特に日本で撮影したのは、肖像写真、風俗写真、名所、都市の風景などで、、東海道の風景が有名である。ベアトの写真は、江戸時代を撮影した希少性があり数多く残されている。
・F.ベアト写真集 1 F.ベアト/ 幕末日本の風景と人びと 明石書店 2006.7 26cm
・F.ベアト写真集 2 F.ベアト/ 外国人カメラマンが撮った幕末日本 明石書店 2006.4 26cm

築地ファントムホテルは 築地ホテル館のことですが。ファントムは 亡霊・幽霊という意味なんでしょう。しかし 内容を知る前の 私の第一印象は 塔屋が戦闘機みたいだからかなと思いました。
築地ホテル館 は当時 江戸ホテルとも呼ばれたそうですが 消失してしまったのが残念です。
posted by うめのはな at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書

擬似洋風建築

築地ホテル館について 調べてみた。
江戸開市にそなえ、イギリス公使パークスの要請により築地船板町の軍艦操練所の跡地に建設されたのが 外国人用旅館「築地ホテル館」。
横浜在住のアメリカ人建築家R・P・ブリジェンスが設計し、日本人棟梁建築家の清水組(清水建設)二代目清水喜助が完成させる。開市に先立つ1868年(明治元年)8月からの開業とされる。
tsukiji.jpg
望楼付木造二階建、客室数102室 ベランダ付海鼠(なまこ)壁の和洋折衷建築として、築地居留地に異彩を放ち名所の一つであったが、72年(明治5年)2月26日の銀座大火で焼失する。
築地ホテル館は、名建築として 多くの錦絵に描かれることになる。中央に塔屋を設けたことも日本人の興味を引いた。

時を同じくして 明治4(1871)年8月に着工し、翌年6月に竣工した第一国立銀行は 横浜や築地など外国人居留地の外に建てられた国内初の洋風建築です。
外国人技師の指導によらず、設計施工すべてを清水組(清水建設)二代目喜助が手掛けました。日本人によって造られた最初の西洋館が第一国立銀行です。
MVC-002.jpg

もうひとつ 忘れてはいけないのが 明治7年(1874)に建てられ3階建の上に八角塔屋の望楼をのせた最古の小学校 旧開知学校〈松本市)
kaichi_.jpg
なんだか 似ていますよね。
明治初期は 建物最上階の八角の塔屋の建築が流行だったのでしょうか・・・。
と思いましたら やはり
「幕末から明治初期にかけてわが国の大工棟梁による擬似洋風建築の建設があった。
開国と同時に 外国人居留地に住宅・旅館・商館・教会堂を建設するため 全国の大工棟梁や技術者たちは 外人に接しつつ、西欧建築技術を修得するに至った。外国人の好みを取り入れた和洋折衷の擬似洋風建物が建設されていった。
これらの建物の多くは木造でありこの擬似洋風建築はわずかの期間に全国に普及した。」
とのことです。

となると 三国町の 龍翔小学校も 大阪の大工の棟梁(とうりょう)、柳自知(やなぎじち)に設計を依頼した可能性が高い という説が正しいのかもしれません。
(前出:福井県三国町紀行11 みくに龍翔館)
posted by うめのはな at 09:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年04月19日

深川と三国

私は現在 東京・深川地区に住んでいます。
江戸時代の深川地区です。
この地に住んで 6年になります。
運河が多く 桜並木も多く 歴史も古く 情緒があります。。
公共施設も整っているし 交通の便も 買い物の便もよく 住みやすくていいところです。
歴史は古くて まだまだ知らないことばかりです。
時代物小説の舞台といえば 日本橋 深川 吉原・・ってくらいなところです。

深川は明暦ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。
芸者さんは 江戸から見て 辰巳の方角にあったということで 「辰巳芸者」と呼ばれた。
気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は 粋の象徴でした。(現江東区の地名 辰巳は埋立地で全く関係がない。)

材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門も一時邸を構えたり 曲亭馬琴はこの地で生まれ、平賀源内や松尾芭蕉、伊能忠敬なども深川に住んだ。清澄庭園は紀伊国屋文左衛門の屋敷跡である。

IMG_00b51.JPG 
芭蕉翁
110-1030_IMG.JPG 
伊能忠敬

そういえば 三国と共通することもあるなぁ・・と。
材木商 豪商が出入りし 花街があった。
木場という地名。
粋な芸者 辰巳芸者に 出村芸者。
芭蕉の高弟・支考から文台を授かり「日和山吟社」を結成し三国の俳諧を隆盛に導いた。
共に 水運で栄えた町であるということ。
砂村新左衛門 ゆかりの地でもある。
探せばもっとあるかもしれない。今はそれほど知識がないのでわからない。

幸い 深川にはさまざまな資料館があるし 100年以上の歴史がある深川図書館にはその種の資料がたくさんあるのでおいおい学んで行きたいです。
IMG_0052.JPG
建物自体は改築されて当時のものではない。
posted by うめのはな at 10:37| Comment(2) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月18日

福井県三国町紀行18 最終章

今回の三国行は4月1日〜4日でした。
前日の3月31日 東京は春の嵐。
滞在中の4月2日も全国的な大嵐。東京では交通機関がストップし 早期帰宅命令が出るような状況でした。
幸いにもその大嵐を避けて 往復できましたが 2日に予定していた三国巡りは出来ませんでした。
ほんの少ししか巡れなかったのが残念です。
もっともっと すばらしい場所がたくさんあります。またの機会を楽しみにします。
その日はひたすら コピー資料を読んでいましたが 三国町百年史 福井県史 坂井郡史 などの分厚い本は読むことができませんでした。せめて 三国町百年史だけでも 読みたかったです。
実家に揃っているので そのうち読みたいと思います。
それと 三味線。前出の 竹よしさんのお師匠さんに習っていた時の 三味線が使われずに置いてありました。ギターを弾いていた私としては 少しくらい弾いてみたかったですね。
これも次の機会です。

(04/05)福井県三国町紀行1 旧森田銀行
(04/06)福井県三国町紀行2 旧岸名邸
(04/07)福井県三国町紀行3 古い町並みを歩く
(04/08)福井県三国町紀行4 出村遊郭跡1
(04/09)福井県三国町紀行5 旧地蔵町延命子安地蔵尊
(04/09)福井県三国町紀行6 神明神社
(04/10)福井県三国町紀行7 出村遊郭跡2
(04/11)福井県三国町紀行8 出村遊郭跡3
(04/12)福井県三国町紀行9 三国湊
(04/13)福井県三国町紀行10 エッセル堤
(04/14)福井県三国町紀行11 みくに龍翔館
(04/14)福井県三国町紀行12 ふるさとグルメ
(04/15)福井県三国町紀行13 三国駅 えちぜん鉄道
(04/16)福井県三国町紀行14 高速バス 昼特急1 東京〜福井 
(04/16)福井県三国町紀行15 高速バス 昼特急2 東京〜福井 
(04/17)福井県三国町紀行16 高速バス 昼特急3 福井〜東京
(04/18)福井県三国町紀行17 三国節

出村遊郭跡の記事を書くにあたり「研究紀用」第1号 昭和の三国出村遊郭 岡 安夫氏の 資料を読ませていただきました。
posted by うめのはな at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

福井県三国町紀行17 三国節

子供のころから 見よう見真似で覚えてきた 「三国節」について語ろうと思う。
北前船で繁栄した町。 花柳界の酒席で古くから歌われていたのが「三国節」
「三国節」の由来は、宝暦(1761)年に三国神社を建てる際に、性海寺第30代陽山上人が作ったといい、敷地内の地固めの作業に集まっていた門徒達が歌った「土搗き唄」であるといいます。七七七五調の歌詞を基本として、最後の5文字を2回繰り返します。
更に下の句を繰り返す古い甚句のような感じ。相撲甚句も江戸時代の享保年間に流行歌として定着
し やはり七七七五調です。幕末明治時代に花柳界で流行したのが本調子甚句です。
前出の「三国お座敷芸伝承会」の小冊子にも お座敷芸として三国節や相撲甚句が載せられていました。
明治期にはあまり歌われなかったといいますが レコード化して地元でも歌われるようになったとのこと。伝承のためか 私たちは小学校から踊りを覚えました。運動会やお祭りなどには必ず踊りました。夏祭りの時でしょうか そろいの浴衣と編み笠で 町中を練り歩きました。
飛び入りも大歓迎で みなそれぞれ 踊り歩きました。
今でも 帯のまち流し という名で続いているそうです。

「やしゃで〜やのしゃで やのしゃでやしゃで
やしゃでやのしゃで こちゃしらぬ

やしやでやのしやで やのしやでやしやで
やしやでやのしやで こちや知らん」

みくに節を「やのしゃ」とも言う。冒頭の句から出ている。
夜叉という字があてられる説もあるが
「やしや=やしゃご=玄孫」「やのしゃ=玄孫の子」の意で子孫繁栄の歌という説もある。
みくに節を唄う際には必ずこの句をもって最後のしめくくりとする。

○三国三国と 通う奴ぁ馬鹿よ
  帯の幅ほど ある町を
  ある町を ある町を   帯の幅ほど ある町を

○岩が屏風か 屏風が岩か 海女の口笛(呼ぶ声) 東尋坊 
  東尋坊 東尋坊 海女の口笛(呼ぶ声) 東尋坊

こんな感じで延々と歌が続きます。120くらあるそうですが 覚えているのはこの3つくらいです。子供には 意味不明の歌がたくさんありましたから。

私は踊るのがすきなんです。血が騒ぐというか 日本人!というか 盆踊りなど輪になって踊っていると飛び入りしたくなります。
ヨサコイ祭りや 阿波踊り エイサー踊りも好きで見に行きました。
子供の頃から 「三国節」を踊ってきた影響かもしれません。

http://obi392.org/ 三国湊 「帯のまち流し」
posted by うめのはな at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月17日

福井県三国町紀行16 高速バス昼特急3福井〜東京

東京に戻るバスは 福井駅午前7:30発。
朝早いけれど 夕方前に東京に着くので都合がいい。えちぜん鉄道で福井に着いたのが 6:50分くらい。朝食は駅の立ち食いのうどんですませた。昼の弁当を買おうと思うけど コンビニしか開いていない。しかたなくコンビニ弁当を買う。
バスターミナルで どちらのバスかなと待つ。今度は京福バスだった。
201244mikuni14.JPG
福井駅東口で乗り込んだのは10人足らず。
201244mikuni17.JPG 201244mikuni18.JPG
定刻に出発。「途中交通事情で東名が通れない場合は 中央高速にまわります」とのアナウンスがあった。福井は雨・風強い。敦賀まで 乗客を拾うと20人くらいになった。
神田PA。9:12着 9:22発。
10分の休憩、雨はほとんど降っていない。
この京福バスのラッピングはユニーク。
一目で福井のバスだとわかる。なかなか面白い発想。
201244mikuni16.JPG 201244mikuni21.JPG
福井でバスに乗ってから ずっと眠っていて 休憩になるたび起こされる。
次に目覚めたのは 浜名湖SA。11:10着 11:20発。
雨上がりという状況でした。再び眼る。ところがまた起こされる。
外は快晴。富士山がくっきり。これは写真をとあわてる。
201244mikuni30.JPG 201244mikuni27.JPG
桜が咲いていて きれいでした。富士も見たので 弁当を食べる。まずかった・・・
福井駅でもっと別の駅弁でも買えればいいのにショップが開く時間が遅いのが不満です。
順調に走り 足柄SA。13:10 着 13:20発
快晴です。空調の風が直接当たって 顔が寒い。前の人は係員になんとかならないかと言っていた。
いろいろ調節するのだけど どうしても後から冷たい風が当たる。
しかたなくマスクをし 顔にタオルをかけ毛布をかぶっていた。
201244mikuni31.JPG 201244mikuni33.JPG
また眠っているうちに 池尻大橋。14:22着。
何人かが降り 新宿でもかなり降り 東京まで行く人は7〜8人になった。
見慣れた場所をバスは走り 15:30 定刻に東京駅日本橋口バスターミナルに着いた。
呉服橋のバス停は目の前。少し待つとバスが来たので乗る。
地下鉄で数分ですが大手町駅まで歩くより バスのほうが楽なのです。こうして無事 帰宅しました。

往復共に 運転手さんは2人。交代で運転したみたいです。休憩時の乗客の確認もきちんとしていました。
posted by うめのはな at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月16日

福井県三国町紀行15 高速バス昼特急2東京〜福井 

東京駅から丸の内 お堀のまわりを通り 半蔵門で新宿通りへ。
201241mikuni6.JPG
そのまま四ツ谷を経て 12:00新宿駅南口バスターミナルへ。代々木駅がすぐです。12:20分発らしいけれどはやく着き過ぎたのか20分ほど待った。ここで乗ってくる人もいました。
池尻大橋を通り 東名高速へと向かいます。
2時間おきに3回休憩しますが 原則10分。食事の時間はないです。
新宿をすぎたあたりで 弁当を食べました。
最初の休憩は 足柄SA。13:40着 13:55発
トイレによります。15分の休憩だったので パンなど買う人もいました。
201241mikuni7.JPG
しばらくすると 富士山が見えてきました。
半分くらい雲がかかっていて残念でしたが ここで写真を撮っておいてよかったのです。
この後 すっぽりと雲に隠れてしまいました。
201241mikuni9.JPG 201241mikuni17.JPG
お腹が膨れると眠くなる。リクライニングで快適に眠れます。
目覚めたら 浜名湖SA。15:45着 16:00発。
ここも15分の休憩。
201241mikuni19.JPG
浜名湖は桜が咲いていてきれいでした。お店をうろうろしましたが何も買わず。
トイレはバスの中にあるのですが みな休憩時は SAのトイレに行くみたいで、バスのは使われた形跡がなかったです。
201241mikuni22.JPG
また 眠ります。
次の休憩は神田PA。18:00着 18:20発
早く着いて時間調整のためか20分もの休憩。しかしここには 弁当など売っていませんでした。
ここを出てすぐ 東京駅で買った弁当を食べました。
敦賀 IC19:00着
ここから 乗客を降ろしていきます。
19:10 武生 19:15 鯖江と乗客を降ろしいよいよ福井市内へ。
そして 定刻通り 20:00に 福井駅東口に到着しました。

ぜんぜん疲れていませんし 思ったより快適だったし 眠れたしでよかったです。
迎えに来ていた車に乗り三国へ向かいました。

これが 東京〜福井の高速バス 昼特急です。
往復で12000円という ありがたい料金でした。新幹線だと 片道15000円くらいです。
posted by うめのはな at 11:10| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

福井県三国町紀行14 高速バス昼特急1東京〜福井 

三国に観光に行く人はほとんどが ツアーか車だと思う。それだと 何も不便は感じないでしょう。
もより駅は JRの芦原温泉駅になるのだけど 三国まで行くのに とても不便。
バスは1時間に1本とかで それも車で20分で三国駅までいけるのに海側を ぐるっとまわって1時間ほどかかる。何より料金が高額!電車利用客にはとても不便で 福井駅で降りて 「えちぜん鉄道」を使うほうがいい。しかし芦原温泉駅からのバスなど 考えないと個人客はますます足が遠のくでしょうね。

今回 眼の手術後ということで 飛行機はダメ。新幹線は重い荷物抱えての乗換えがいや。
ってことで 高速バス 昼特急をはじめて使いました。
東京駅バスのターミナル前のバス停は自宅すぐ近くのバス停のルートであるから便利だったこと。
時間は新幹線より3時間ほどよけいにかかるが 急ぐ旅でもないし 何より料金が新幹線の半額以下であるということで バスを選んだ。

事前に往復の席の予約を入れる。コンビニで支払いなど予約ができた。
東京駅八重洲南口バスターミナル 午前11:40発である。
自宅からバスに乗り 呉服橋で降りる。大丸で買い物をする。
昼はお弁当を作ったが 夕食分を買わなければならなかった。
お土産など調達して いよいよバスターミナルへ。

京福バスと福井鉄道の交互運行らしく どっちのバスかなぁ・・と楽しみに待つ。
201241mikuni1.JPG 201241mikuni2.JPG
バスが来た。福井鉄道のバスだった。
チケットを確認 大きな荷物はバスの下へ。
いよいよ乗り込んだ。
席は 後ろのほう。3人で行ったので3列横並び。
3列席 リクライニング 毛布 スリッパ フットレスト カップホルダー テーブル 付きで個々にカーテンがついているので プライバシーも保てます。
201241mikuni3.JPG 201241mikuni23.JPG
中ほどにトイレもあるので安心です。
定刻に出発。席は1、2席空いていただけでほぼ満席でした。
posted by うめのはな at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月15日

福井県三国町紀行13 三国駅 えちぜん鉄道

東京に戻る日。早朝 三国駅に行く。
駅前にはまだ人がいなかった。
201244mikuni5.JPG 201244mikuni4.JPG 
寒い駅舎。待合室の椅子に座布団がかけられていて 心使いを感じた。
201244mikuni8.JPG 201244mikuni2.JPG 201244mikuni1.JPG
えちぜん鉄道に乗った。
201244mikuni10.JPG
早朝6時ころなので 無人駅でした。
乗る時に整理券をとって 着いた駅で清算しました。
ワンマン電車で 乗降口は一番前の扉だけでした。
201244mikuni12.JPG 201244mikuni11.JPG
最初少なかった人も 徐々に増えてきました。
50分ほどかけて 福井駅に到着しました。
201244mikuni13.JPG

えちぜん鉄道写真は別の記事にもあります。
posted by うめのはな at 10:01| Comment(2) | TrackBack(0) | ふるさと記事

桜・スカイツリー2012

割り込み 記事です。
桜の花見も今日がラストでしょうか。
桜と スカイツリーは似合います。水のある風景っていいですね。
2012-04-12 09.09.54.jpg 2012-04-12 09.09.47.jpg
また 来年・・・
posted by うめのはな at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2012年04月14日

福井県三国町紀行12 ふるさとグルメ

福井は何もかもが美味しい。
空気に水。水がいいから米も美味しい。
野菜も新鮮で美味しい。
それに 海の幸も美味しい。

あわただしい帰省で 食べたものは おろし蕎麦と八番ラーメン。
それに お刺身 焼き鯖 などなど。
お刺身の新鮮だったこと!


遠縁にあたる店で 会食したときのこと。
いか刺しが美味しくて 私が1人前、いや義姉もつられて 私もと、2人前追加した。
東京の感覚では 1人前は小皿に 数切れが相場である。
出てきて びっくり!
1人前とは イカ1杯のことだったのである。大きな皿に丸ごと切りそろえられたイカを見て、唖然として 声をそろえて「どうしよう・・食べきれない!」
そりゃ その前に甘エビだのなんだの盛り合わせをたっぷり食べているのだもの。
結局 みなでわけて食べることになった。
うーーん。食材が豊富だとこういうことになるのね。
それに安いから驚きました。
201242mikuni115.JPG
煮物 焼き物 刺身に 酢の物 和え物 漬物 天ぷら などなどフルコースにたけのこご飯。
お酒瓶で2本はあけて ビールだのソフトドリンクだの飲んで食べて 一人5000円程度なのだから都会では考えられない値段でした。東京でこれだけ食べて飲めば一人1万でもすまないでしょうね。

定番おみやげも買いました。
IMGP1827.JPG IMGP1830.JPG

みたらし団子も食べたのだけど 子供の頃食べた みたらし団子の味ではなかった。
これはこれで 黒蜜で美味しいのですが 昔の団子の味は甘くもなくしょっぱくもなく なんというか表現できない微妙な味でした。
posted by うめのはな at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

福井県三国町紀行11 みくに龍翔館

三国の町の中心部の道路には こんなマンホールの蓋があった。
201243mikuni3.JPG
模様は三国町を見下ろす高台に立つ郷土資料館(みくに龍翔館)である。
明治12年に建てられた龍翔小学校を忠実に復元したもので 千石船の5分の1の模型、高さ7mの三国祭の山車など数多くの郷土の資料が展示されています。
高さ33メートル、木造5階、八角型という奇抜な洋館で 幻想画家として知られているエッシャーの父親であるG・A・エッセルがデザインしたとされている。
201011221.JPG 21280011.jpg
この建物の設計については論議があったそうです。最近設計という記述はデザインに変更されています。

 明治期の龍翔小、設計者で新説 エッセルでなかった
(福井新聞、2010年3月17日午前7時55分)

「明治時代初期に、五層八角という西洋風のデザインで坂井郡三国町(現福井県坂井市三国町)に建てられた龍翔(りゅうしょう)小について、設計者は、これまで伝えられてきたオランダ人技師、G・A・エッセルではなく、エッセルが大阪から連れてきた日本人の技師だった−との新説を、神戸女学院大講師(建築史学)の川島智生氏(52)が唱え、このほど発刊された学校教育関係の冊子で発表した。
川島氏は、エッセルが帰国後に書いた「日本回想録」の中で、当時の三国の様子や印象に触れているのに、龍翔小が登場しないことを疑問視。龍翔小設計に積極的にかかわったのではなく、現場の最高責任者だった大阪の大工の棟梁(とうりょう)、柳自知(やなぎじち)に設計を依頼した可能性が高い、とみている。
川島氏によると▽龍翔小のような五層八角の建物がエッセルの母国オランダに存在しない▽龍翔小建設とほぼ同時期の1860年前後に、同じデザインの建物が、米国で大流行したこと−などを理由に挙げる。特に米国ミシシッピ州ロングウッドに現存している「ホラー・ナットの八角形住宅」は外観、間取りとも龍翔小にそっくりという。
川島氏は「エッセルは当時、日本に滞在していた米国や英国の技師に、八角形住宅が紹介された書物を見せてもらい、それを柳に示したのでは。エッセルはもともと河川工事の技術者で、今のビル十階建てに相当する、巨大な木造建築物の設計ができたとは考えられない」としている」

こんな記事を見つけました。

作家の 篠田真由美さんも「2011.01.22」の文でエッセル設計とされている 龍翔館を見たときの印象に「なんだかこの塔の形は見た覚えがあるぞ」違和感を覚えたと書いている。
済生会と龍翔小学校の建設年がどちらも明治12年。
saisei1.jpg
「山形市に今も残る旧済生会病院(現山形市郷土資料館)である。もちろん完全に同じではない。済生会はドーナツ型のプランの正面玄関部分が塔になっていて、それも二階部分が十六角形、三階が四角形、四階が八角形で、二階と四階の屋根はそれぞれ十六と八の多面体ドーム屋根が載っている。龍翔館は全体が八角形五階建てのプランで、最上部の八角塔の上に八面のドーム状屋根がかかり、これは済生会の屋根よりずっと丸みが強い。しかし一見した印象は似ている。というより、こうしたプランを持つ建築は日本では特にあまり類例がないから、なおさら似て見えるのだ。」
o0355076810204882490.jpg
龍翔小学校も当時は木造だったそうです。模型がありました。
rryu2.JPG

本で見たのだけれど 幕末の慶応4年(1868年)に開業した、日本最初の本格的ホテル 築地ホテル館も西洋の洋館で奇抜なデザインだった。
建築技師R・P・ブリジェンスの基本設計の下、清水組(清水建設)二代喜助が実施設計と施工。
惜しいことに 銀座の大火でたった4年で燃えてしまった。
tukiji1.JPG

明治期の西洋建築はなかなか面白いものです。
posted by うめのはな at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月13日

福井県三国町紀行10 エッセル堤

時計を見る。3時半には戻らなくてはいけない。エッセル堤まではいけそうもない。残念ながら 戻ることにした。三国に来るたび 訪れている場所なので 以前写した写真がある。携帯で解像度は低いが これがエッセル堤。
040321_1521~02.jpg 
もう1枚 1年半ほど前の三国海水浴場から見た エッセル堤。
2010112168.JPG
三国港突堤(エッセル堤)は九頭竜川の河口右岸先端部より西方に突き出た突堤のことで、明治11年から18年に国の御雇外国人技師としてオランダから招かれたエッセルが設計し、同じくオランダ人のデ・レーケの指導監督で造られた、日本初の西洋式捨石防波堤です。
平成15年12月25日、文化財保護法の規定により重要文化財に指定されました。

堤長511m,幅約9mの石造構造物で,防波堤の構造は「粗朶沈床といわれるものです。築後100年以上経った現在の突堤は1970年(昭和45年)に新堤(約400m)が接続され,全長927mに延長されました。

エッセルは三国港に突堤を設ける設計を行ったが、帰国するまぎわに工事が着手され、直接工事を指導できなくなった。そこで、デ・レーケが引き継ぎ指導を行うため、たびたび三国を訪れた。「明岩益造」は明治の初めに「三国港突堤」の工事が行われたさい、大阪から来た有能な水理工手であったが事故により亡くなった。
湊の人たちは彼の墓を建てて、死を惜しみ功績を称えるため、墓の裏面に碑文を彫った 。墓を建てた人たちの名前が台座に31名刻まれているが、その最初に「和蘭国 列幾氏 保斯氏」とあるが、列幾はデ・レーケのことであろう。とさまざまな資料に書いてあった。
では 実際に三国港防波堤を造ったのは この人たちなんですね。

子供の頃 大人たちに「波止場で泳いではいけない」と言われました。
構造上 大きな石の下にもぐりこむと死体も 上にあがってこれなくなると 言われました。それにここは深くなっているので波も荒いのです。
地元の子供たちはその教えを守っていましたが 他からやってきた人たちは知らないので波止場から飛び込み 水死した人もいました。悲しいことです。
 ederu.JPG

それでも釣り人はいましたし 私たちもするめを 棒の先につけて蟹などを釣って遊びました。
飛び込むこと 波止場の側で泳ぐこと それだけはしませんでした。今は立ち入り禁止になっているそうです。
この三国海水浴場は サンセットビーチと言われ 夕日が美しい浜辺です。
2010112166.JPG
夏には花火大会が行われます。水中花火の迫力は格別です。
posted by うめのはな at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月12日

福井県三国町紀行9 三国湊

川沿いに歩く。戦災に遭わなかった三国は、江戸や明治期の廻船業の蔵や倉庫などが残っている。
しかし車社会になるにつれて 母屋が建替えられたり 蔵や倉庫は駐車場などにされていった。
1948年の写真では 護岸道路はなく船が直接倉庫に出入りしていたのがわかる。
mikuniminato.JPG
その後 護岸には高い堤防や道路ができ 海運業の港から 漁港として変化していく。
河口近くには 魚市場がある。漁船が停泊している。

それにしても人に出会わない。
旧岸名邸、ここは2日行ったが2日とも スタッフ1人だけ。
旧森田銀行は 他に2名の見学者がいた。
町中を歩いているときは ほとんど人に出会わなかった。
私たちだけが 闊歩していたのである。

三国の人は働き者だからみな仕事をしているのだろうか。
「〇〇さん いなるけぇ(いる)?」と声をかけながら近所の人が家に上がりこんで話をしに来るのが 普通のことだったから今でも そんな感じなんだろうか。

うちに来ていた近所のおばさんなど 毎日のように
「あんたぁ いなるけ?」とやってきては長話をしていた。
「なんか ようけ?(何か用)」と母が聞けば
「そんなとんじゃくじゃござんせん!(それどころではない)」
といいつつ どうでもいいことを半日は話していたようだ。

海沿いから1本中の道に入る。国登録有形文化財「眼鏡橋」がある。
下を「えちぜん鉄道が走る」
201242mikuni108.JPG
「この橋は、北陸線から三国へ支線が敷設されたことにより、大正2年(1913)に建設された 橋の形式は、斜角右60度の斜めアーチ、半円断面のトンネルで 煉瓦造りの「ねじりまんぽ」と呼ばれる珍しい技術を採用している。
 この技法は、明治初期からの約40年ほどの期間に、関西を中心に用いられた 現在、全国に29箇所しか確認されてず 県内ではこの橋のみである。 平成16年(、国登録有形文化財に指定された。」 説明版より。
201242mikuni96.JPG
全景を撮ろうと思うのだが 草が繁っていたり布団を干していたりで近寄れず。
三国湊駅まで行くことにした。
201242mikuni97.JPG 201242mikuni95.JPG
 歩いているとようやく老婆に出会った。
旧型のポストが珍しくて写真を撮っていたとき
「めずらしいやろぉ。ここだけや。もうここしかないんやよ。」そう言って立ち止まってくれた。
店先には 動かぬ老人が一人座っていた。
201242mikuni100.JPG
この店は 夏の海水浴シーズンには 店先に浮き輪や麦藁帽子が並びアイスやカキ氷 ジュースなど並べてした店。ここまで歩くと 海はもうすぐ・・と実感したものである。
子供の頃は遠いと思っていた海までの道も 大人になって歩けばたいした距離ではないと感じた。

駅へ行く。
mmikuni104.JPG 201242mikuni106.JPG
アテンダントさんがいて 笑顔で挨拶してくれました。
「眼鏡橋の写真がとりたいので 入っていいですか?」
というと 快くホームに入れてくれました。
meganemikuni103.JPG
「ありがとう!」
このえちぜん鉄道のアテンダントさんを描いた「ローカル線ガールズ」は面白かったですよ。
廃線から市民の願いを受けて奇跡の復活させ えちぜん鉄道アテンダントたちの乗客を 「もてなす心」を描いた実話です。
etizenr.jpg
今は乗れませんが東京に戻る日に ちゃんと乗ります!!

この先にあるは 魚市場と海水浴場。
さて・・・次は。。。
posted by うめのはな at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月11日

福井県三国町紀行8 出村遊郭跡3

その前に 訪ねたい場所があったので 行ってみた。

遊女たちが通ったという 鉱泉湯跡。
この鉱泉湯は火災で焼けて 後にアパートとなったがそれも今はない。
子供の頃 鉱泉湯に入ったことを覚えている。
そこからすぐのところに 三国座があった。
こちらも 解体されアパートとなったが近年 火災で焼けて現在は 空き地となっている。
そのすぐ後ろの 小路に入ると 小さな弁天さんがあり 遊女たちがお参りしていたとのことである。出村の遊女たちの出身地は全国津々浦々だったらしいが 楼主は体を気を使ったり 将来のために裁縫を教えたり 自立に備えさせたという。
この出村の人たちは 気軽に遊女に声をかけ 話をしたというのも一つの特徴である。
その証拠に 「べっぴんさん」と呼んだり 名がわかっていれば 〇〇さん と呼んでいたそうだ。わけへだてなく 付き合っていたという。
出村の繁栄は 遊郭にありと自覚していたのであろう。
公娼制度が廃止され 遊郭が消えたあと地元に残り 好いた人と結婚したり お妾さんとしてそのまま自宅を与えられて子供を生み 生活していた人もいる。
時折 大人たちが「あそこの〇〇さんは 女郎だった・・とか二号さんだ」とか言う噂話が聞えてきても それは侮蔑の意味ではなく ごく自然な流れから出た話であるから子供の私たちの耳にも入ってきていた。小さな子供からみれば 遊郭だの 女郎だの 二号だのの意味は全くわからないのであるが、その意味がわかる頃には 町はすっかりひとつになって どこがどうなのだかわからなくなっていた。

・唄の上ハ町 情けの出村 わづか隔てて 地蔵坂(三国節)

2月に洲崎遊郭跡を歩いて ブログにも書いたがその遊郭の様子とは少し違う感じがした。

さて 川沿いに出ました。
201242mikuni94.JPG
水のある風景はやはり好きです。
地元では 九頭竜川とは言わず 「大川」と言っていた。隅田川も「大川」と言われていました。
今は堤防があって少々風情がなくなっているが洪水に悩まされていたから仕方がない。
川沿いの風景もすこしずつ変化してきているようですね。

貰った「三国湊街中散策マップ」の中にあった写真を紹介しておきましょう。
m005.jpg mu005.jpg

三国湊駅のほうに向かいます。
posted by うめのはな at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月10日

福井県三国町紀行7 出村遊郭跡2

神明神社の周辺にも 遊郭楼跡らしい建物が残っている。
昭和の出村遊郭。なぜ「出村」なのか?滝谷が丸岡藩の飛び地だったからか。
遊郭が「滝谷出村」の中にあるからそう呼ばれて来たということ。
旧幕藩制時代に 九頭竜川河口の沿岸地域に 福井藩(三国湊)と丸岡藩(滝谷村)の境界線があった。丸岡藩の中に遊郭があったとのこと。詳細は調べていないので私にはわからない。明治4年二つの藩の港は坂井港と統一される。

北前船の寄港地として知られた三国湊。 寛永年間には船問屋が57軒も軒を連ねていたといい、出村、上町、松ヶ下といった場所を中心に花街があったといい、三国の遊女は「三国小女郎」と呼ばれ、三国節の中でも唄われています。

・酒は酒屋で 濃茶は茶屋で 三国小女郎は 松ヶ下。
・義理に迫りし三国の小女郎 涙流した思案橋
・江戸の吉原 三國の小女郎 初にむかへて 出來た遊廓
・三國小女郎の その昔より眞情づくなら まけはせぬ
・小女郎一人に 新兵衛さんが二人 どうせ一人は 波の上(玉屋新兵衛と出村新兵衛)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1309649/1
国会図書館デジタル化資料 桃井若狭之介・三国小女郎・玉屋新兵衛 若狭・越前

http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-big.php?shiryo_no=006-2724
早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム =「玉屋新兵衛」と「三国小女郎」

上記サイトで三国小女郎の絵を見ることができます。

また 「金が降る降る 三國の出村 船が出るたび 入るたび」 と唄われ繁栄ぶりが伺える。

{三国湊では、当初松ケ下にあったが、湊が西へ伸びるとともに、西へ移動し、万治二年に町立てされた上新町に牛頭天王宮が勧請されるとその周囲に集まるようになった。また、それに続く丸岡藩領の滝谷出村にも遊女町が形成された。
寛政元年の上新町の戸数は高持七八軒、無高三二二軒、合計四〇〇軒であり、人口は男五一〇人、女六四〇人であった。そのうち遊女持の家(置屋)が二二軒、遊女は一〇〇人であった}(『三国町史』)。

{滝谷出村については、享保五年に「家数三百七十、傾城八十五人、流行長谷川」という記録がある(『三国町史』)。この長谷川というのが、俳諧で著名な哥川であり、彼女のように相当な教養を身につけた遊女もいたのである。}(出所)『福井県史』より。

北前船で繁栄した町も鉄道網の普及や 道路整備で次第に衰退するが 
昭和33年3月31日 公娼制度が廃止されるまで 出村遊郭は残っていた。

神明神社近くの滝本区といわれた地区には 現在でも数件が当時のまま残っているそうです。
その中の一軒です。
201242mikuni16.JPG
まだ 人が住んでいるので詳細は書きませんが 1軒に7〜8人の遊女を抱えていたそうです。 正面は格子戸。笏谷石を敷いた広い玄関。入り口座敷に 長火鉢のある座敷。玄関入るとすぐの階段を登ると4畳半の小部屋が7つ8つあります。
ここは知り合いの家で 何度か行きましたが 日の当たらない薄暗い家だったのを覚えています。

遊郭跡だったせいか 昔は飲食店やスナック、バー 楼を改築したような旅館がありましたが 歩いてみるとほとんど 営業はしていません。更地になっていたり 新築されたりしていました。

この民家をまっすぐ行くと九頭竜川沿いに出ます。
このまま 三国湊を歩いてみましょう。
posted by うめのはな at 10:49| Comment(2) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月09日

福井県三国町紀行6 神明神社

ゆるやかな坂を下る。交差点右は旧三国北小学校。私の母校である。現在は みらい館。残っているのは校庭の桜並木だけで 学校は高台に移転している。しかし卒業記念植樹や記念碑やなんてのはどうなったのだろうか。うやむやになって壊されてしまったのだろうか。面影すら無い。
左に下れば 川のほうに出る。正面突き当りが神明神社。
201242mikuni14.JPG 201242mikuni15.JPG 201242mikuni9.JPG 
子供の頃にはこの馬はなかった。台座だけが残っていてその上に乗って遊んだものだ。
戦争中に金物として供出されたとのことだった。みな「おしんめさん」と親しみをこめて言っていた。「お神明さん」が「おしんめさん」になったのでしょう。

三国湊では三国神社が指定県社であり、神明神社は指定郷社である 。
明治の初め福井藩であった三国と丸岡藩に属した滝谷が合併し新しい三国となった時、話し合いで三国を代表する神社として三国神社が決められ、神明神社は近郷18ヶ村の郷社となったそうです。
神明神社は400年以上前から存在したといわれ、祭神として天照大神と継体天皇を祀っている  継体天皇の離宮があった清王枚岡神社の流れを継ぐとされる。
s201242mikuni12.JPG
神明神社は境内社も多く、比古那神社(少比古那命)、金刀比羅神社(大国主命)、稲荷神社(豊受姫神)、八幡神社(応神天皇)、辰巳(巽)川神社(日本武尊)、大玉神社(聖徳太子)、味坂神社(薬師如来)の7社がありがあり三国湊では最も多い。
201242mikuni11.JPG 201242mikuni10.JPG 
三国はもともと信仰心の厚い地域である。寺社の数もとても多い。
少し歩けば あちこちに 寺社がある。
神明神社にも祭礼がある。
その折 奉納される舞いが「浦安の舞」である。
この舞は昭和15年皇紀二千六百年祝典の際に作られたもので、心安(うらやす)の国(大和の国)の安寧のために舞うもので 氏子の神明・滝谷と新興の住宅地であるつつじヶ丘の三国湊では四の部といわれる地区の女子が舞うことになっている。私の時は 小6の女子と決まっていたのだが 今はどうなのでしょう。私も舞いました。恥ずかしながら 当時の写真です。鈴を鳴らす舞もあります。
当日のため 毎晩練習したことを思い出しました。楽しい思い出です。
up1110.jpg
顔は・・・ ごめんね!

このあたりも 昭和の出村遊郭の名残のある場所です。
通りに出て 再び出村遊郭跡を散策してみましょう。
posted by うめのはな at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

福井県三国町紀行5 旧地蔵町延命子安地蔵尊

見返り橋から坂道を登ると 広場がある。ここが地蔵尊。
201242mikuni83.JPG
泰澄大師が717年に彫刻した延命地蔵菩薩が祀られています。
201242mikuni85.JPG
子安地蔵尊は別の小さな御堂に祀られていました。小さな覗き穴があって お地蔵様を拝むことができましたが大きな石のお地蔵様で赤い涎掛けと帽子をつけていました。相当古いものだとわかります。「お地蔵さん」と地元の人は呼びます。
201242mikuni80.JPG
安産祈願のお地蔵さんとして地元の人々に親しまれ愛されているようです。
現在は神明という地名は その前には 橋本区、それ以前は地蔵町といわれたようにこのあたりはお地蔵さん名義の土地が多く借地として家を建てているところが多いそうです。
もしかしたら昔はあたりがお地蔵さんの広大な敷地だったのかもね。出所不明の古地図見つけました。
ajizoumati.jpg
年に一度 7月にお地蔵さんのお祭りがあります。本御堂は泰澄大師が祀られているとか書いてあるものも見かけられますが 地元の人に聞けば 不思議な石が安置されているとのこと。
天変地異 厄災 の前触れに 湿気もないのにその石が濡れる・・まるで泣いているかのようになる、との言い伝えがあるそうで お祭りの時にはその石を見ることができるそうです。私も見てみたいものです。
201242mikuni81.JPG
本当かどうかはわかりませんし 誰がその前触れをみたのかもわかりませんけど そう信じられているからには昔そういう事実があったのかもしれません。でも 現在は本尊として 大切にされいつも見ることができないから前触れがあってもわかりませんよね。

地蔵町の人はとても長生きです。お地蔵さんのおかげです。と地元の人が言っていました。
実はこのお地蔵さん。子供の頃の私の遊び場の一つでした。
子供会などの行事で集合するのがこのお地蔵さん前の広場。
昔は本堂の後ろには何もなかったので 柵を乗り越え 裏に廻ったりして遊びました。
そんな大切な建物だとも知らず 遊んだり走ったり 登ったりしていました。
ですからとても思いで深い郷愁のある大事な場所です。
お祭りには 隣の会館が開かれ 催しがあり 本堂も開かれそのときだけ上がることができましたね。お参りに来る人お賽銭を入れると 大きなドラのようなものをごぉ〜〜〜んとたたく係りの人がいました。
この広場の先にある道に入ると 旧地蔵町メインストリート。
jizou5.jpg
緩やかに道は下り その先には神明神社があります。そちらに向かいます。
posted by うめのはな at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2012年04月08日

福井県三国町紀行4 出村遊郭跡1

前回の写真の履物店と並んだ3軒の民家の奥に坂道がある。
この角あたりに福井藩の木戸ノ口(通用門)があったそうです。
一番奥の紅白の標識あたりを含み以南 福井藩。以北が丸岡藩と分かれていた。
坂道は 通称「新道」と呼ばれ おそらく日和山を削って 木場町を埋め立てたときに新しく出来た道なのであろう。
s201243mikuni82.JPG
昭和の三国出村の遊郭 岡 安夫 氏 資料より 日和山図

新道を下ると九頭竜川そば 丸岡藩側に思案橋がある。
201242mikuni27.JPG
出村の色町を前に 行こうか戻ろうか思案した場所だとか言われているが 思案橋の名の発祥は吉原遊郭らしい。ここも手前きわ以南が福井藩、以北丸岡藩であった。

・出村思案橋 戻ろか行こか 何の思案橋 行くがよい〈三国節)

この思案橋から少し行くと 昔は芸者置屋、料理屋、飲食店、雑貨屋、履き物屋、道具屋などさまざまな店が立ち並んでにぎわっていたそうである。
201242mikuni93.JPG
そんな中のひとつが 三好達治が愛した 元料亭「たかだや」である。
201242mikuni18.JPG 201242mikuni23.JPG
その近くには 三国詩歌文学館碑(全12基)の一つ 哥川の説明版があった。
遊女を退いたあとは「豊田屋」という遊女屋のあるじとなったとか。
201242mikuni24.JPG 201242mikuni25.JPG

このあたりの民家ですが趣が残っていますよね。
201242mikuni21.JPG 201242mikuni26.JPG 
201242mikuni92.JPG
高田屋さんの少し先 地蔵尊に登る坂の手前 辰巳川にかかるのが「見返り橋」
「見返り橋」の名のとおり出村で遊んだ帰りに、この橋の上で楽しかったことを振り返ったことから付いた名らしい。しかしその辰巳川は幅2〜3mほどの小さな川である。一時ひどく汚染されたが 現在水質はよくなっているようで小魚がいた。
201242mikuni22.JPG
一時 「火の太鼓」の映画の撮影のため赤い橋になっていたが 後に普通のガードレール。最近このようなものになったとか。

さて次は この坂を登り 地蔵尊へと向かいます。
posted by うめのはな at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事