2012年06月30日

築地5(明石町)カトリック築地教会聖堂

聖路加国際病院のすぐそばには カトリック築地教会聖堂があります。
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どう見ても 石造にしか見えないけど、なんと木造だそうです。
建 物    建設年 昭和 2 (1927)
設計者    設計者 石川音次郎 ジロジアス神父
構造・規模  木造一部 木造 2階
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カトリック築地教会聖堂 所在地 中央区明石町5-26
(中央区民文化財)
「カトリック築地教会は、明治4年(1872年)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治7年(1874年)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治11年(1878年)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年(1927年)に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしています。

 また、旧聖堂で使用された鐘は、明治9年(1876年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。

 教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。 中央区」
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 築地居留地の面影を伝える貴重な建物であり、平成11年には、東京都の歴史的建造物として選定されました。
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明治時代末の築地居留地の様子です。
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築地4(明石町)学校発祥の地

聖路加のまわりを歩くと 歩道などにいくつかの石碑や石標があることに気が付く。学問関係が多いです。
慶応義塾開塾の地 明石町10先
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慶応義塾開塾の地  
 「慶応義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。」
蘭学事始の地 明石町10先
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蘭学事始の地
 「豊前中津藩奥平家の下屋敷のあったところで、藩医で蘭学者の前野良沢(1723年〜1803年)らがオランダ語の医書ターヘル・アナトミアを初めて翻訳し、「解体新書」五巻を完成しました。当時の苦心の様子は、杉田玄白(1733年〜1817年)「蘭学事始」に詳しく書かれています。 」
立教学院発祥の地
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立教女学院築地居留地校舎跡記念碑
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雙葉学園発祥の地
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東京中学院発祥の地〈関東学院)
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暁星学園発祥の地
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他にもあるらしいけれど 気が付いたのはこのくらいです。
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2012年06月29日

築地3(明石町)聖路加ガーデン界隈

アメリカ公使館跡の説明版は聖路加ガーデン前にもあった。
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アメリカ公使館跡 所在地 中央区明石町八
「開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政六年(一八五九)に現在の港区元麻布一-六の善福寺に公使館を開設しました。ついで、明治八年(一八七五)十二月、築地居留地内のこの地に公館を新築し、はじめて形容を整えました。
後にこれが手狭となり、同二十三年三月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。
この公使館跡には、五個の小松石の記念碑が残っています。大きさは、縦八六〜一〇一センチメートル、横八四〜一一八センチメートル、厚さ一八〜三四センチメートル、うち、二個には当時のアメリカの国章である盾、一個には星と鷲と盾、二個には五陵の星が刻まれています。
この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。
平成八年三月 中央区教育委員会」
聖路加ガーデンは 複合施設のタワー棟とレジデンス棟の二つがありますが 1-31階 が 高齢者向け賃貸マンションであるレジデンス棟では特に聖路加国際病院との提携による高度な医療、介護サービスが受けられるそうです。初期入居費は2億〜5億とかで富裕層専用ですねー。
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すぐ前の通りにも築地居留地跡の説明版がありました。
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築地居留地跡(外国人居留地)
所在地 東京都中央区明石町9
「江戸幕府は安政5年(1858年)に欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めました。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。

 江戸(東京)の開市は明治元年(1868年)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。

 築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。

 明治に描かれた築地居留地の銅版画からは、洋風建築が建ち並び異国情緒あふれる街の様子をうかがうことができます。」
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これが その銅版画です。
築地駅から聖路加ガーデンまでの通りは 聖ルカ通りとなっていました。
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この界隈にはいろいろな石碑やプレートがありとても興味深い地域です。
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2012年06月28日

築地2(明石町)アメリカ公使館跡石標

トイスラー博士の石標の対面にアメリカ公使館跡石標があります。
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明治期にアメリカ公使館が存在していた場所であることを物語るものです。
一番左に 説明のプレートがあります。
アメリカ公使館跡石標
「アメリカ公使館は安政6年(1859)ハリスにより港区元麻布1−6、善福寺に開設されたが、明治8年(1875)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。のち明治23年(1890)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館となっている。

最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。

8個の石標のうち3個は昭和59年(1984)10月に日米友好のシンボルとして赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、うち3個をここに 2個を聖路加ガーデンに設置する。 1998年5月 聖路加国際病院」
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現在の聖路加国際病院、聖路加看護大学などは1998(平成10)年5月に完成した明石町再開発事業の一環として建設された。
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病院1号館は旧病院建物の一部が取りこわされず、ほぼそのまま保存されたものである。
旧病院建物は1933年6月に完成した。設計はA.レイモンド、J.バーガミニー。礼拝堂の部分は近代ゴシック様式としたばかりでなく、病棟の各階から礼拝に参加できるよう、ギャラリーを設けた。工事は合資会社清水組(現在の清水建設株式会社)、塔屋の十字架は9尺5寸の高さで、「純金ノ金箔ヲ置ケリ」と資料にある。
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 1990年代に明石町再開発事業が実施されるまで、十字架がこの付近では一番高さがあったそうです。
ちなみに 聖路加「せいろか」ではなく正式には「せいるか」です。
現在の聖路加国際病院前のモニュメントです。
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後ろに見える病院は全室個室。だけど部屋の差額ベッド代の最低額が31500円。差額ベッドがない部屋もいくつかあるそうですが、めったに空かないらしいです。
当然長期入院の人が優先して入ると聞きました。短期入院の人や長期の人も 空くまでは差額ベッドの部屋とのこと。庶民はには縁がなさそうです。入院患者は 国際病院と銘打っているのだから 外国人やお金持ちが多いのかしらね〜。
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最高の看護や環境ももお金しだいってことでしょうか・・・ね。
posted by うめのはな at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区

築地1(明石町)トイスラー 記念館

聖路加看護大学と 聖路加国際病院第1号館の敷地にトイスラー 記念館 がある。
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聖路加国際病院は1902年(明治35年)米国聖公会の宣教医師であるルドルフ・トイスラー博士によって創設されました。
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この建物 どことなく見たことのあるようななつかしい感じがしました。
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ちょうどアジサイが咲いていてきれいです。
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庭には小さなせせらぎもあって ほっとする空間です。
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ここが玄関です。
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裏に廻ります。
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中央区の説明版がありました。
「 聖路加国際病院  トイスラー 記念館
区民有形文化財 建造物
所在地: 中央区明石町10番

昭和8年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。鉄筋コンクリート2階建て一部木造の西洋風住宅で、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。
 平成元年に解体工事が行われ、平成10年3月に移築復元されました。創建当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いた建造物となっています。建物の外観はハーフティンバー風の意匠で、外部に柱や梁などを表現した造りです。室内は伝統的なチューダーゴシック風のデザインで、1階玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装を持ち、階段廻りも特徴的なデザインです。
 この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。 中央区教育委員会」
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当時の写真もありました。
トイスラー記念館の設計はA.レイモンド。
この建物 この庭やせせらぎ なつかしく感じたのは何故だろう・・・
トトロの「サツキとメイの家」みたいな感じがしたからかも。
posted by うめのはな at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区

2012年06月27日

江東区役所周辺

区役所正面玄関前のビルにはこんなものも・・・
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たしか下のほうには 若竹という文字があったはずです。
区役所周辺は 海抜が低いようです。
荒川の水位計がありました。
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荒川より小名木川の水位は低い。そして小名木川は隅田川は繋がっている。その下流で隅田川と仙台堀川は繋がっている。自然の河川と下流で繋がっている運河の水位が違うのだが 小名木川には水門があって、パナマ運河のように水位の調節をしている。
扇橋閘門が設置されていて閘門より東側は地盤沈下が激しくゼロメートル地帯の顕著な地域のため水位を1m下げている。

区役所周辺は緑が多い。
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コミュニティ道路といって 車が速度を出せないような道路になっている。
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歩道は広く このような椅子代わりのものがあちこちにある。
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防災センター前にはこんなものもあります。
ちなみに 木場公園などの外灯なども小さなソーラーパネルが付いていて 夜間は蓄電した電気を使っています。だから 昨年の節電時も 木場公園の外灯は明るかったです。
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東陽町駅はここから5分ほど。郵便局 銀行 飲食店 ホテルやスーパーなども複数あって生活の便のいいところです。区の施設は 防災センターや文化センターなど集中しています。
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2012年06月26日

平井新田塩浜跡

 江東区役所の前庭に「平井新田塩浜跡」のプレートがあります。
所在地 江東区東陽4-11-28 (江東区役所)
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「 明和2年(1765)、平井満右衛門により洲崎弁天から砂村新田にいたる干潟が埋め立てられ、平井新田が成立しました。平井新田は塩浜にする計画で開発され、明和3年(1766)には塩浜が築かれ、製塩が開始されました。
 寛政5年(1793)の「分限江戸大絵図」には塩浜の位置や規模、様子が描かれています。それによると、塩浜は平井新田の西部に位置しており、海から海水を導く「塩浜汐引ホリ」と記された水路や、鹹水(濃い塩水)をつくる「汐溜」、海水を煮詰めて塩をつくる「塩カマ(竈)」などの様子がうかがえます。もともと平井新田は塩浜にする予定で開発されたものでしたが、潮の便が悪く永続しなかったため、まもなく廃止されました。
 しかし、塩浜という地名は残り、「平井新田字塩浜耕地」の呼称は明治24年(1891)、この地域が深川区西平井町に編入されるまで続きました。
  平成18年(2006)2月  江東区教育委員会」
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説明版の図です。
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古地図です。
葛西橋通りから永代通りに四ツ目通りを歩くと ゆるやかに下っているのがわかります。区役所はちょうどその中間あたりにありますが 江戸時代は海だったようです。
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その江東区役所の前庭は 緑が多く憩いの場です。
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四ツ目通り側からみた区役所の建物です。
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2012年06月25日

木場 繁栄稲荷神社2

小さな神社ですが 文化財的なものはいろいろありました。
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社殿正面にある 向拝竜
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社殿右側の扁額・嘉永7年在銘があります。
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反対側の扁額
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江戸流れ(尾が下がり、タテガミや尾が流れるように美しい独自の狛犬文化)狛犬。
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面白い顔の狛犬です。後ろの狐さんとともに昭和のもの。
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左右の御神燈
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御神燈の中央部のレリーフ
御神燈:文政6年(1823)、石工・和泉屋善六作。
「和泉屋」は、三囲神社の延享2年(1745)の狛犬の作者が和泉屋太郎介、牛島神社の文化8年(1811)の狛犬の作者が和泉屋平吉である。
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繁栄稲荷神社をあとにして永代通りに出ました。すぐです。
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2012年06月24日

木場 繁栄稲荷神社1

木場駅に行く途中 思いついて三つ目通りと永代通りの交差点手前で路地に入る。
高速道路のすぐ下に 「繁栄稲荷神社」がある。
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所在地 江東区木場2-18-12 (大丸コアビル)
入り口に御由緒書きがあった。
「 当繁栄稲荷神社の祭神は京都伏見稲荷大社の御分霊にましまし乃古宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神の三御柱であります。古来五穀豊穣、商賣繁昌、藝能上達の神として世の尊崇敬仰をあつめております。
 当神社の起源は今を距ること二百四年前、江戸時代の中期、宝暦7年(1757年)この木場の地に創祀されたのにはじまります。大丸の業祖下村彦右衛門正啓は享保2年(1717年)伏見に創業し寛保3年(1743年)日本橋大伝馬町に江戸店を設けましたが越えて宝暦7年(1757年)深川木場4丁目即ち現在の繁栄橋々畔に貯木場を備うる別墅を営み、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社の御分霊を祀り繁栄稲荷と称したのであります。
 祭神の霊験いとあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰をあつめ、3月12、13日の例祭には門前市がたつの大賑わいでその側の堀に架せられた橋もいつしか繁栄橋とよばれて今に伝わっているのであります。
 明治43年(1910年)大丸が名古屋店とともに東京店(昔の大丸江戸店)を閉じ木場の別墅も廃したとき社殿は先代根津嘉一郎氏の青山邸に移り同家の嘉栄稲荷の社殿となり、関東大震災(1923年)、第二次世界大戦の空襲にもその災禍から免がれ二百年前のお姿そのままで残ってまいりました。
 昭和35年(1960年)5月たまたまその社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の御厚意で大丸へ御返譲していただくこととなり、。旧地に接したこの地に境城を卜して昔ながらのお姿を以て本殿、玉垣その他を移築あらたに伏見稲荷大社の御分霊を勧請してお祀りすることになったのであります。
 由緒の数々を思い御神徳のいやちこなるに今さら心うたるる次第であります。
 昭和36年(1961年)10月吉日」
これを読むと 青山の根津美術館の庭園に 社殿があったのかしら・・と、広大な庭園を思い浮かべた。
所在地が 大丸コアビルとなっていますが すぐお隣が大丸コアビルで 繁栄稲荷神社はその敷地内にあります。株式会社大丸松坂屋百貨店本社ビルです。
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大丸の歴史を見れば
1743年 (寛保3年) 江戸大伝馬町3丁目に江戸店開業。(明治43年閉鎖)
1757年 (宝暦7年) 江戸深川木場4丁目繁栄橋畔に木場別荘を作り、一郭に繁栄稲荷を祀る。(コアビルに現存) 」
とありますから この繁栄稲荷が歴史ある稲荷だということがわかります。
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社号額
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2012年06月23日

木場公園

木場公園にアジサイを見に行った。
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アジサイよりもこんな風景が好きかな・・
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木場公園大橋の間に スカイツリーが見えて なかなかいい景色。
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三つ目通りには 列車レストラン。
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そのまま 三つ目通りを横切り 木場駅まで歩いた。
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2012年06月21日

新東京丸 東京みなと館

東京都江東区青海2丁目4−24 青海フロンティアビル 20F
ここに東京みなと館があります。
「東京みなと館は、このような東京港の歴史や役割、臨海副都心の現状と開発計画を広く紹介するため、東京都港湾局と一般社団法人東京都港湾振興協会が開設したものです。」
という説明です。
全員が20Fに上がり まずDVDを20分ほど見ました。お台場の成り立ちや江戸時代からの歴史を学びました。ペリー来航で 幕府が洋上防衛のために作ったのが台場です。品川沖に11基の台場を一定の間隔で築造する計画。品川台場(品海砲台)と呼ばれたものが敬意を払い御台場となる。
高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して埋め立てました。現存するのは第三台場と第六台場だけです。現在のお台場である13号埋立地は、北部は港区、西部は品川区、南部は江東区にそれぞれ帰属した。映像で学ぶお台場の歴史はなかなか興味深いものでした。
その後 係員が展示物の説明をしてくれます。 
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大型模型や映像 写真などで、江戸期から今日までの東京港のあゆみや東京港の役割を学ぶことができます。
また20F 地上100mから四方を眺めることができ 今巡ってきたばかりの東京港や臨海副都心の様子がよくわかります。
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真下は 大江戸温泉物語の建物でした。
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後は自由解散となりましたから 直結しているテレコムセンター駅からゆりかもめに乗り帰宅しました。半日ですがとても充実していました。
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新東京丸 東京湾見学6

青海客船ターミナルに到着後「東京みなと館」へ徒歩で向かいます。
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徒歩約15分。旗を持った係員の後をぞろぞろ付いて行きます。
ターミナルのすぐそばには 湾岸警察署があります。
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この警察署は新しくできたもので 有名人が留置されたりして結構有名です。
その前は 日本科学未来館です。
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そこからもう少し歩きます。テレコムセンター駅の近くです。
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2012年06月20日

新東京丸 東京湾見学5

新東京丸は 防波堤内側を航行し フェリー埠頭から ライナー埠頭をぐるりと廻ります。
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遠くにスカイツリーなども見えてまずまずの景色です。
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この船はRO/RO船というそうです。ロールオン・ロールオフ船の略称で本船に備えられたランプウェイ(可動橋)により トラックやシャーシーが自走または牽引により出入りできる構造の船のことだそうです。この船は元はフェリーだったそうです。
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青海コンテナ埠頭をすぎていきます。
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船旅もそろそろ終わりです。船の科学館が見えてきました。
船の科学館は2011年9月末日をもって本館展示を休止し、南極観測船「宗谷」の展示公開を中心とした博物館活動に移行しています。
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南極観測船 宗谷 です。
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帆船 海王丸II世です。東京都港湾局のリストでは6月8日入港、7月3日出航となっています。見れたのは運がよかったのですね。4月から東京―ハワイ(ホノルル)―韓国(麗水)―東京と、長い遠洋航海実習を終えたようです。「海の貴婦人」と言われる 「海王丸」帆をはった姿も見てみたいです。
姉妹船として日本丸があり 横浜日本丸メモリアルパークには見学用の日本丸があります。
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横浜の「日本丸」です。
いよいよ到着です。私たちは竹芝には戻らず 青海客船ターミナルで下船します。
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とても充実した船旅でした。約1時間15分があっという間にすぎました。眺めもよくて詳しい説明もあっていろいろ勉強になりました。「スタッフの皆さんも親切でした。ありがとうございました。」
これから 徒歩で東京みなと館に向かいます。
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2012年06月19日

新東京丸 東京湾見学4

乗船当日は天気もよく風もほとんどなく海も穏やかでしたので 新海面処分場の外側を航行してくれましたが 天候の状況では中央防波堤埋立地の内側を航行するそうです。
というわけで 東京ゲートブリッジをくぐることができました。
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ゲートブリッジをくぐると若州の風車が大きく見えました。
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そしてもうひとつ 天気のいいときにしか見えない スカイツリーも遠くに見えました。
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これから船はお台場に向かいます。
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新東京丸 東京湾見学3

港から見える景色に 清掃工場の高い煙突があります。煙突といっても四角い形のコンクリートのものです。
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有明清掃工場は臨海副都心の施設から出るごみを地下の内径60cmのパイプ=「ごみ管路」で清掃工場に吸い込むので街中をごみ収集車が走ることはありません。そのような説明もしてくれます。2012615tokyo143.JPG 
お台場の観覧車と有明清掃工場の四角い煙突とドーム型屋根の有明スポーツセンター。清掃工場の余熱は1給熱(地域冷暖房) 2有明スポーツセンター に利用されています。(ぼんやり見えるのはスカイツリー)清掃工場も臨海部の中に溶け込んでいます。

中央防波堤と書きましたが 正確には中中央防波堤内側埋立地 中央防波堤外側埋立地そして新しい埋立地である新海面処分場です。防波堤内側埋立地は第二航路トンネルにより江東区青海と 外埋立地は臨海トンネルで大田区城南島へ 東京ゲートブリッジで江東区若洲に繋がっています。人が住んでいない地域です。この埋立地は約30mほどの高さだそうです。焼却灰などをそのまま埋め立てるのではなく 土で覆い 灰と交互に埋め立てていくそうです。内側埋立地は 「海の森公園」として植樹が行われています。30年をかけて完成させる予定です。
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反対側の窓ごしですが 陸地が中央防波堤内側埋立地です。
そして 東京臨海風力発電所二基の風車「東京風ぐるま」が発電を行っています。
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これも窓越しで 窓のゆがみでゆがんで見えますが 風車です。
防波堤外側の東京湾に出ると やはり船は波を受けて少々揺れました。30mもの高さの埋立地なら防波堤の役目もありますね。市街地の標高よりよほど高いです。臨海部の埋立地というのは 意外と標高が高くて 江東区では災害時地区内残留地区となっています。
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もらった パンフレットのコースです。今回は竹芝桟橋には戻らず 青海に行きます。そこから 東京みなと館に行きます。
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2012年06月18日

新東京丸 東京湾見学2

新東京丸は視察船です。観光船ではないので 船内で動き回ることはもちろん飲食も禁止です。(水分補給は可)乗船すると左右に窓がありテーブル付きの椅子があります。真ん中には大きなテーブルがありそこにも椅子があります。会議室という感じですが せっかくだから窓際の席に座りました。乗船順に好きな席に座りますから当然窓際から座ります。
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案内の人がいてマイクを使い 東京湾の役割などについてずっと説明してくれます。
そのたびに右見たり 左見たりですが 丁寧な説明でよくわかります。今まで何度か東京湾クルージングの船に乗りましたが 説明つきで学べるのは初めてでとてもありがたいです。
海から見る東京タワーもまたいいものです。
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レインボーブリッジ近くで レストラン船シンフォニーに出会いました。
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そのすぐ後ろには 同じくヴァンテアン。これは以前乗りました。
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品川埠頭 大井埠頭の役割なども説明を受けます。 大きなコンテナ船が入港する埠頭ですからキリンのようなクレーンがずらりと並んでいます。月島の倉庫もほとんどが冷凍倉庫だそうです。
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埠頭のすぐそばには 大井火力発電所が見えます。(頑張れ!!w)
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大井埠頭をすぎると見えるのが 白い灯台のある防波堤です。
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東京港は 1998年から外貿コンテナ取扱個数で国内首位を維持しているそうです。
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遠く 羽田の管制塔が見えました。飛行機の発着も見えました。
中央防波堤をぐるりとまわり 東京ゲートブリッジに向かいます。
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2012年06月17日

新東京丸 東京湾見学1

東京都が募集していた「新東京丸で行く!東京湾見学会」に応募したら運よく当選したので行ってきました。
船の中で聞いたのですが 今回は16倍の倍率だったそうで それでも少ないほうだということでした。約60名の募集です。
6月15日午後でしたが 前日の天気が嘘のように晴れて気持ちのいい日でした。
浜松町から徒歩で竹芝桟橋に向かいました。
2009年9月にもヴァンテアンクルーズで東京湾を見学しました。そのときの写真はこちらにあります
今回は 小型船ターミナルという一番はしにあるターミナルです。食事をすませ 集合時間よりかなりはやくその場所に行きました。
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まだ誰もいませんでしたが 隣の 日の出桟橋から出航していく 「安宅丸」を目の前で見ることができました。
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いつか この船に乗りたいなぁ・・と早速パンフレットをもらいました。
同じ日の出桟橋に停泊していた少し変わった船が気になりました。
「卑弥呼」かと思ったけれど少し違う。聞けば 新船の「ホタルナ」だということで試験運転中だそうです。
このときは停泊中でしたが 後に出航しその写真を撮ることができました。
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宇宙船をイメージしているそうです。 6月28日 運航予定。
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「卑弥呼」「ホタルナ」共に 松本零士氏プロデュースで 船名のホタルナは、“月が輝く夜に神秘な輝きを放つ蛍が隅田川を舞う”ホタルとルナ(月の女神/LUNA <ラテン語> )「ホタル月」という意味で名づけられたそうです。
これにも 乗ってみなたいなぁ・・・
ぼちぼちと人が集まりだします。ふと外を見ればいつの間にか「新東京丸」が桟橋に着いていました。
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当選者の確認と受付が終わり13時半出航です。
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 10分くらい前にいよいよ乗船です。
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2012年06月16日

旧新橋停車場

JR新橋駅の東 300m。ゆりかもめ駅から汐留方面の出口から出るとすぐの汐留シティセンターと松下電工などの 間の広場。ここに新橋〜横浜間に日本の最初の鉄道が敷設された時に建てられた「旧新橋停車場」を復元した建物があり国の史跡に指定されている。
汐留の再開発工事がはじまった1995年(平成7年)旧新橋停車場跡などが発掘された。
発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻され、2003年(平成15年)にその上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられた。
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プラットホーム側より見た駅舎
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「1872(明治5)年に開業した旧新橋停車場の駅舎を、当時と同じ場所に、開業当時の外観で再現したものです。駅舎等の本物は現存しませんが、外観については、当時の鮮明な写真、駅舎基礎など信頼性の高い資料が残っており、これを基に可能な限り正確に、本物が存在した「場所」の上に当時の「外観」を再現しました。
史跡となっている駅舎の基礎石から正確に寸法を計測し、当時の鮮明な写真等から平面・立面的な規模、窓の大きさ及び外壁材の寸法等を算出しました。」とのことです。
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軌道は当時用いられたレール1本の長さ24フィート(7.3m)を再現。

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鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」。当時と全く同じ位置に再現 。
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復元された駅舎ですが とても瀟洒な建物で美しいです。
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ここに鉄道歴史展示室があり 出土品などが展示されています。
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当時の新橋停車場です。
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2012年06月15日

南砂町散歩18 尾高水門の回想

横十間川親水公園から仙台堀川公園に向かう。
野鳥の森があったりして なかなか緑多い公園です。
二つの川が交差するあたりに 尾高橋というのがある。
レンガ造りの橋である。
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横十間川と仙台掘川が交差する東の辺りに尾高水門という小さな水門がありその水門を動かしていた駆動部分が、仙台掘川公園に残されている。そして「尾高水門の回想」という碑があった。
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尾高水門は、昭和57(1982)年に廃止になった水門だそうです。
 尾高水門の回想 
「この部品は、砂町地区の水害を守るためにつくられた尾高水門の一部である。
この水門は、マイターゲート式といい、この部品は、水門の心臓部に当たるものである。
長年に亘る風雨に耐えて来た本水門を記念し、あわせて砂町地区を水害から守った先人の治水に対する知恵を後世に残すものである。

 年 譜
昭和十四年    尾高水門設置(木製扉)
昭和三十八年   鋼製扉に改修
昭和五十七年十月 尾高水門廃止

 仕 様
名   称 尾高水門(仙台堀川)
型 式 マイターゲート式(合掌式鋼製二枚扉)
計画天端高 AP(+)4.00メートル
計画戸敷高 AP(-)1.90メートル
有効幅員  8.60メートル
門扉重量  8.10トン
操作方法  電動・手動

 昭和五十九年三月 江東区  」

片開きの場合はスイングゲート、両開き即ち観音開きの場合をマイターゲートと言うそうです。
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2012年06月14日

南砂町散歩17 江東馬頭観世音

そこから少し先の第二南砂中学の近くには 江東馬頭観世音がありました。
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説明版がありました。
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江東馬頭観世音 所在地 東京都江東区南砂1−3−20
 「昭和20年(1945)3月9日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈した。また戦局が激しさを加えるに伴い石油が欠乏し国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された。江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの輓馬業者が集中し牛馬の頭数3千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死しさらに戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用され大陸や南方において数多くの馬が戦死をとげたのである。
 昭和28年(1953)9月輓馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである。
 大空襲後33回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記し、ここに碑を建立して永く世にこれを傳えることになった。
 昭和52年(1977)3月10日 江東馬頭観世音講」
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戦争が激しくなり、石油不足のため、輸送は牛馬に依存していたが 三月十日の大空襲により、その大半が焼死した。また、軍馬として徴用された数多くの馬も戦死させられた。ひき馬業者が中心になって、愛馬の霊をとむらう碑を建てたということです。
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訪ね歩いた 近隣の地図です。
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千砂橋から 横十間川親水公園に下りました。
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ボートが浮かんでいてのどかな光景でした。
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南砂町散歩16 南砂1丁目の富賀岡八幡宮

志演尊空神社のすぐ左側に 石田波郷宅跡という説明版があった。
所在地 江東区北砂2-1-38
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石田波郷宅跡 
「俳人石田波郷は、中村草田男や加藤楸邨らと並び人間探求派と呼ばれ、現代の俳句を発展させたひとりです。
 波郷は、大正2年(1913)に愛媛県で生まれました。昭和21年(1946)にここ江東区北砂に移り、33年(1958)まで居を構えていました。その間『現代俳句』を創刊するなど俳壇の復興に力を注ぎ、自らも句集『惜命』を出すなど、数多くの名作を残しました。
 みずみずしい情感と、生命を燃焼させた作品を生み続けましたが、昭和44年(1969)11月21日に病気のため56才で亡くなりました。お墓は調布の深大寺にあります。
隣りの妙久寺には、
 蘩蔞や焦土のいろの雀ども  波郷 の句碑が建っています。
 昭和63年(1988)3月 江東区」
そこからが問題である。清洲橋通りから越中島貨物線の下をくぐり、西側に出たら清洲橋通りにまた出てあまりにも広い交差点〈5差路?)でどちらに行ったらいいのかしばし迷う。
地図を見ながら 交差点を渡りめぼしをつけて 住宅街に入る。
そこでまた迷う。おかしい この辺なのに・・と右往左往。歩いている人に尋ねる。
「この地図の 富賀岡八幡宮ってどこでしょうか?」
「えー富岡神社は門前仲町ですよー」
「いや・・南砂の・・」「あーー元八幡ならもっと先ですよ」
「いや・・ほら この地図の貨物線くぐったところのこのあたりの・・・」
「えーーそんな神社聞いたことないですよ。あーーでもたしかにこのあたりですねー。」
こんな感じで 聞いてもわからない。でもたしかにこの近くだと思いすぐそばの道に入る・・すると50〜60m行ったところに それはあった!なぜか 「富賀岡八幡宮」なのです。
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なんで、この、小さな神社が、富賀岡八幡宮と同じ名前なのか、よくわからないです。
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いろいろ調べましたが このちいさな神社のことは ほとんど書かれていないのです。元八幡の富賀岡八幡宮の旧地、というわけでもないみたいです。しかし 地図にはちゃんと載っています。
そこに住んでいる人にさえ 知られていない小さな神社でした。
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2012年06月13日

南砂町散歩15 志演尊空神社

境川交差点 すぐのところに志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ) がある。(清洲橋通り沿い)
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  志演尊空神社 由緒 江東区北砂2-1-37
「  御祭神 
倉稲魂命 須佐之男命 伊耶那美命 尊空親王 手力男命  
         以上五柱
寛永元年(1624)、深川郷唐島開発の際当地に訪ずれた菅原長寛が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮座して深川稲荷と社号を称し、土地の氏神としてあがめた。
元禄年間、時の将軍徳川綱吉がお鷹狩りの途中で当社に参拝に立ち寄られ「民の志を演ぶる事殊勝なり」と賞して社名を志演神社と改名せられた。
又、正徳2年(1712)の夏、当地に伝染病が流行し死者が多数に及んだ時、当社五代目別当、菅原快円が病魔退散と天下泰平、五穀成就を祈念して柴燈大護摩を焚いたとこと病は止まりこれによって毎年5月22日の祭礼を執行した。当時の人々は「ごまの稲荷」と当社を呼んだ。これは古文書「東の都歳時記」に日本の三護摩として記載されている。
尊空親王は伏見邦頼親王の御子にして、寛文3年(1663)12月関東に下向、深川五本松にて隠棲される。
親王死去の後、村民その徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守としてあがめ奉る。
その後松平伊豆守抱屋敷内に祠れる稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を尊空稲荷神社と称した。
昭和20年(1945)3月9日の戦災により両者焼失。
昭和22年(1947)3月志演神社と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名す。以上」
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御由緒書きの立て札があった。
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その横には たしかにJA東京 が設置した 「江戸・東京の農業」シリーズの 標識が建っていた。
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江戸・東京の農業 野菜の促成栽培発祥の地・砂村 
野菜の促成栽培は 寛文年間(1661〜73)の頃, 中田新田の農民, 松本久四郎が考案したと言われています。
 初物を食べる というぜいたくが広がり過ぎると, 農家は米麦など基本食糧の生産よりも, 高く売れる 初物づくりに力を入れるようになり, また, 庶民のぜいたくは, 身分制度をゆるがすことになるとして, 江戸幕府はたびたび, 出荷日を統制する法令, 促成栽培禁止の町触れを 何回も出して, 取り締まりました。
 この促成栽培の方法は, ゴミを堆積すると発酵熱が出るのを利用し, 江戸市中から出るゴミ(江戸ゴミ)を堆積, この熱を利用して 早く野菜の種をまくことで, 収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり, 昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。
 江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した, 見事なリサイクルが昭和30年代まで展開されてきた事実にも 驚きと先人の苦労がしのばれます。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行50周年記念事業」
「JA東京グループでは、農業協同組合法施行50周年記念事業として、平成9年(1997年)から、東京都神社庁などの協力により、農業にゆかりのある神社などに「江戸・東京の農業野外説明板」を都内50ヶ所に設置いたしました。 」
とのことですが この50箇所の中には わが国黎明期の牧場(千代田区)や神崎の牛牧(新宿区)平田牧場(文京区)駒込ナス(文京区)そして渋谷 新宿と現在高級住宅地やオフィス街になっている場所もあり読むとなかなか面白い。
「江戸・東京の農業」こちらです。
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2012年06月12日

南砂町散歩14 境川周辺

明治通りを彈正橋の少し北に行くと、 江東区 北砂と南砂の境界あたりが境川交差点。
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ここに江東区の「境川周辺の移り変わり」という説明版がある。
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所在地 江東区南砂-北砂
 境川の変遷 
「境川(現在の都道、清洲橋通り)周辺は、江戸時代砂村新田と呼ばれていました。
 これは、砂村新左衛門が万治2年(1659)宝六島(現在の南砂1丁目付近)を中心に、436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとったものです。
 新田の中央に小名木川から水をひいて、中川に注ぐように幅約19mの水路を設けました。
 この水路は、砂村新田の八右衛門、久左衛門、亀高、大塚の4ヵ村の南を境にして、流れていることから、境川といわれました。
 その後、境川は田畑の減少、舟運の減少等に伴って水路としての必要性が薄れ、廃川となり、昭和5年(1930)道路へと移り変わりました」
土地の移り変わりの写真もある。
その隣には 野菜の促成栽培という説明書きがあった。
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このあたりは江戸市中から出るゴミの捨て場として永代島新田と砂町新田が指定され、低地の埋め立てが行われた。砂村新田は近郊農業地帯となった。砂村葱をはじめとしてナス、キュウリ、スイカなどが盛んに促成栽培されたということです。
深川江戸資料館ノート 第74号「江東の掘割・川 6 江戸近郊農漁村の掘割〜生業の場、ハナシの舞台として〜」の資料の中にも述べられていました。

「1) 江戸の近郊農村と境川
境川は小名木川から分岐して中川に注いでいました。現在の清洲橋通りがほぼその川筋に一致します。小名木川の分流であることから裏川、また砂村川とも呼ばれました。
砂村新田の埋立て開発は万治2 年(1659) にはじまりましたが、境川もそれらの新田開発とともに整備されました。砂村のほぼ中央を流れ、北方にあたる中田新田・大塚新田と南方の砂村新田・八郎右衛門新田の境であったことからその名前がつけられました。支流の舟入川・西横堀・東横堀とともに、沿岸の田畑の農業用水の水源・排水や物資を運搬する舟の水路として重要な役割を果たし、当地域にとって欠かせない水路となりました。
 当地の農業は、これらの水路を利用することにより促成栽培などを取り入れ、江戸東京の近郊農村として発展していきました。例えば、促成栽培には、苗を育てるため、江戸の町方から排出されるゴミや堆肥が必要ですが、掘割は、ゴミや堆肥を集めたり運搬したりするためのゴミ舟や肥舟の水路になっていました。こうした江戸近郊という立地や掘割を生かして栽培された茄子や胡瓜・白瓜、その他、葱ねぎ・つけ菜・蓮などは当地域の名産となりました。」

この近くの 「志演神社」にJA東京 が設置した 「江戸・東京の農業」シリーズの 標識があるので次はそこへと移動します。
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2012年06月11日

南砂町散歩13 弾正橋・砂町運河跡

南砂緑道公園と明治通りの交差点を少し北に行くと仙台堀川公園を渡る橋がある。
弾正橋である。
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橋の中央部分には説明版とレリーフが貼り付けてあった。
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 「弾正橋は、大正時代、城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後、明治通りの道路整備に伴い、昭和5年(1930)に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わりました。
 この橋のすぐ西側には、木橋で架設された秋山橋があり、住民の通行の手段でしたが、この道路整備に伴い秋山橋も撤去されました。
 弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架かっていた橋の名前でしたが、大正13年(1924)からの震災復興事業のため境川が埋め立てられ、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。なお、現在の南砂付近一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂村新田と呼ばれ、その中に8つの地区があり、その1つが「弾正」でした。
 この橋の下を流れる仙台堀川は昭和53年(1978)からの埋め立てに伴い、昭和57年(1982)に親水公園となり地域の人々に親しまれてきました。
 平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と、当時の橋の偲かげのレリーフを残し、橋の歴史を永くとどめるものとしました。
  平成8年(1996)9月  江東区 」
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図を見れば鉄橋だということがわかる。
このあたりは 砂町運河だったらしいです。
  砂町運河跡 所在地 江東区南砂1-1〜北砂6-19 (仙台堀川公園)

「区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かつて砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。
 砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正8年(1919)に東京運河河土地株式会社が創立されました。大正11年(1922)に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7-19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和8年(1933)までに完成しました。
昭和23年(1948)、東京都に移管された砂町川と名勝を改め、昭和40年(1965)、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。 
 昭和30年(1955)ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和55年(1980)に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。
 平成10年(1998)3月 江東区教育委員会」
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説明版の写真です。開発当時の砂町運河(正面は福島橋)

仙台堀川公園は、総延長は3700メートル。桜のきれいな憩いの親水公園です。
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2012年06月10日

熱気球

今朝 熱気球があがっているのを目撃しました。
木場公園であげているらしいです。
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時々イベントで先着で希望者を乗せているらしいです。
乗りたいとは思いませんがなんとなく夢があっていいかなぁ・・。パチリ。
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南砂町散歩12 南砂六地蔵(砂村新田六地蔵)

南砂町二丁目、第四砂町小学校近くに「六地蔵」という六体のお地蔵様が祀られています。
六地蔵・戦災殉難者供養の碑 江東区南砂2−28−1
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この場所には江戸時代から砂村新田六地蔵がまつられ、当時はおもに水難事故などで亡くなったひとたちを供養するお地蔵様で多くの農民たちの信仰を集めていました。
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由緒ある六地蔵も、東京大空襲で破壊されてしまいました。
現在の六地蔵は戦後建立されたもので、その横にあわせて「戦災殉難者供養の碑」が建てられました。江東区の史跡として登録されています。
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60数年たった今も線香やお花が供えられています。お地蔵様の衣もきれいです。
地元の人々が大切に守っていることが伺えます。
このお地蔵様は 小さな建物の中にあり 扉が閉まるようになっています。
きちんと管理されているのですね。砂村新田六地蔵の説明版もあります。
「説明書きより」
 砂村新田六地蔵 
「昔、百島(むかしから、四砂小付近一帯は百島とも呼ばれていた)のあたりは、うら哀しく、もの寂しい処であった。砂村川の支流西横川が元〆川に出会う角あたり、横川を背にして小さな、石造六地蔵が東向きに置かれていた。川面をわたる夏の風に繁茂した葦が揺れ、水鳥があわてて空に舞い上ってゆく。
 六地蔵の信仰がはじまったのは、平安末期といわれ、つねに悪業をおかし、六道に輪廻転生する衆生を救済するということから一般には寺院の門前や墓地入口に建てられるようになった。砂村六地蔵のように、村はずれや道端にたてられたものは、地蔵菩薩の道祖神信仰と結びついて土地の守護神とされたのではなかろうか。なお、ここでいう六道とは、地獄(怒)、餓鬼(欲)、畜生(愚)、修羅(闘争)、人界、天上(喜悦)のことである。六体の地蔵さんは、組合せや持物、印相によって象形のちがいもあり多種多様であるという。
 さて、砂村の六地蔵はいつの時代の誰が安置したものか確かにはわからない。ある人はいう、深川永代寺にあったものをこの辺り水難事故死など災難による死者が多く供養のため移し変えたもの。また或る人はいう、あのあたりに昔、お仕置場があって処刑された罪人の供養のため砂村の石屋さんが頼まれて作ったもので、その背面にどこそこの誰と名が刻まれていたと。またその後、罪をおかし刑場へひかれていく囚人が立ち止り悔悟の祈りを捧げると恐れおののいた気も静まり、心安らかとない収容として死についたという。樹間に烏が翔び交い陰うつな空気が漂い、そのあたり常には静まりかえっていたものと思われる。ただ六地蔵には縁者のあげる香華が絶えなかった。
 江戸中期の古地図をひろげて見ると、永代寺、霊巌寺など当時の有名寺院の境内に六地蔵の名が記してあるが砂村はもとより路傍の六地蔵は記載がない。
 明治維新を前後して毛利候の下屋敷内、今元〆と言われるあたりに、大森方面から海苔の採取を業とする漁師が移住しはじめ謂ゆる浅草海苔の生産に従事した。また百島には、お天神とよばれた秋山総本家から分家が入植して荒地を開拓したので砂村の僻地、六地蔵周辺は急激な発展をみたのである。
 時は経て、明治から大正時代になると砂村の生業も種々雑多、田畑を耕す者、海苔採取も含めて漁に出る者、川舟を使って水を売る人、土や砂利を運搬する回漕店、鳶職、木場が近いせいで川並、後には木材を運送する馬力屋、そして飛車角や宮川などなど、六地蔵の辺にも威勢のいいあんちゃんや、夜ふかしを得意とする二代目がたむろしていても不思議でない。
 さても恐ろしいのは戦争である。昭和20年(1945)3月9日、あの夜半からの大空襲のため、六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。
 この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和27年(1952)頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。
 砂町史談会 資料より」
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2012年06月09日

南砂町散歩11 南砂緑道公園・城東電車レールと車輪

南砂緑道公園はもとは城東電気軌道という私鉄の路線の廃線跡の一部である。
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城東電車は、1920年に一部区間(水神森 - 小名木川間)が開通し、1929年に全線開通した。1938年には東京地下鉄道と合併し、1942年に東京市電気局に買収された。1972年11月12日に全線廃止となった。
砂町線は南砂三丁目交差点附近(城東電車時代は仙気稲荷前)から西へ入って越中島貨物線の下を潜り、江東南砂団地(旧:汽車会社東京支店工場跡地)をぐるりと囲むように東陽町まで延びていた。
この専用軌道跡が南砂緑道公園である。
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明治通りに出る少し手前の 貨物線の下あたりに レールと車輪があります。
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この車輪は昭和28年に製造され、実際に使用していたものです
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「城東電車は大正6年に設置され、昭和47年11月に廃止」ということです。
越中島貨物線の橋脚には「城東電軌こ線橋ガード」という文字が見えますが都電の文字は見当たりません。
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明治通りから入って、ぐるっと半円を描いた線路跡になっていますが その半円の内側はもともと「汽車会社」の南砂工場でした。工場跡地の広大な敷地は現在 公団・公社などの大規模団地になっています。
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外縁をなぞるかのように線路が走り、その跡が緑道公園となっているのですが 桜並木のトンネルや緑の整備された景観はすばらしく まちなみ景観賞を受けています。
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夏でもひんやりと涼しい木陰の憩いの緑道です。
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2012年06月08日

南砂町散歩10 富賀岡八幡宮・砂村囃子の碑&力石

浅間神社の裏には砂村囃子記念碑があります。
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説明書き
「凡そ270余年の伝統を継承し、江戸祭囃子を代表する一つとして砂村林派時代の変転とともに幾盛衰を経て今日迄伝えられ、此の間多数の名人上手を輩出して来た。昭和55年(1980)10月東京都江東区初の文化財保護条例の規定により区教育委員会より無形民俗文化財の認定を受け、翌昭和56年(1981)3月其の保持暖帯として砂村囃子睦会を指定されたことは郷土の爲欣幸の至れるよう此の伝統芸能を末永く伝承し地域社会に貢献すべきである。
本年は指定10周年に当り此処に記念碑を建つ。
 平成2年(1990)4月吉日
 江東区指定無形民俗文化財 砂村囃子睦会」
そのとなりには 力石があります。
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これらの力石は砂村稲荷神社(疝気稲荷神社)にあったもので 移転したとき他の石碑とともに富賀岡八幡宮に移されたものです。8個あり1個は富士塚のふもとにあります。この中には、力持ちの名人扇橋三次郎の名前も見られます。

昭和8年に砂村を歩いて書いた 永井荷風の随筆「元八まん」(昭和九年)には当時の様子が描かれています。
青空文庫で読むことができます。

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2012年06月07日

南砂町散歩9 富賀岡八幡宮・出羽三山の碑

富士塚の対面には 壁に沿って石碑が並んでいる。出羽三山の文字が見える。
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出羽三山の碑(富賀岡八幡宮)
「出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山(いづれも山形県)の総称で江戸時代中頃から霊山・修験道の大和して主に東北や関東の村々から多くの登拝者を集めている。この三山碑は文政2年(1819)砂村の講中によって造立されたものである。碑面中央下部にみえる「大先達智憲院」は湯殿山の山上衆徒の三先達の一人で砂村地域は江戸時代この智憲院の支配下(檀那場)にあったと思われる。江戸から出羽まで往復350余里(1000キロメートル以上)を数え略1か月を要する行程であるにもかかわらず多くの信者を招聘し得たのは3年に1度の檀那廻り配札また宿泊施設への案内に奔走した御師たちの布教活動にあった。碑は高さ37センチ(糎)巾81センチ(糎)で安山岩(小松石)製である江東地区三山碑はこの富賀岡八幡宮のものだけである。
 平成11年(1999)8月 宮司 荒井八雲」
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左に見えるのは火袋が欠損した石灯籠の笠石部。
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弁財天石祠(寛政元年在銘)屋根の形状は入母屋千鳥唐破風付き。やはり右側に灯篭の残欠のもう片方が見えます。
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全体的には こんな風に並んでいました。
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2012年06月06日

南砂町散歩8 富賀岡八幡宮・富士塚

社殿の左側には神輿庫がある。その奥に浅間神社の赤い鳥居がある。
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浅間神社石祠があります。
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その右にあるのが富士塚です。周囲約13m、高さ約4m。
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 江東区説明版より
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「富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
 江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
 砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚に左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
 塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボック石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。
 塚に付随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
 平成18年(2006)2月 江東区教育委員会
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(説明版の拡大写真です)
南東方向から見た砂町の富士塚〔昭和30年(1955)頃 江東区教育委員会所蔵〕」
まわりには いろいろな講の碑があります。
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富士山の形をしたものもあります。
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崩れそうな古いものもあります。
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力石も9個ほどあるそうです。
富士塚のまわりを見てみましょう。
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