2012年07月23日

惜櫟荘だより

『惜櫟荘だより』佐伯 泰英 (著) 岩波書店 (2012/6/21)
歴史的建造物に興味があるので 読んだ。

岩波別邸(惜櫟荘)熱海市海光町1/1941年/設計吉田五十八
1941年、岩波茂雄は静養を目的とし、熱海に惜櫟荘を建てた。

作家である佐伯 泰英氏が縁あって譲り受けた岩波書店の別荘惜櫟荘の完全修復の過程をおいながら
これまで 出会った人たちのエピソードなどを語ったもの。

思い出話はともかくこの名建築と言われる 惜櫟荘の解体から 完全修復までの過程を興味深く読んだ。
「設計図もない中、パズルを解くような解体・修復工事が始まり、やがて、「五十八マジック」ともいうべき独創的な仕掛けが、次つぎ明らかに・・・・」
読んでいても そのすばらしさが伝わってきました。吉田五十八の当初の設計を尊重し、細部にわたり長く保存するための手立てが講じられているのが よくわかりました。

惜櫟荘(旧岩波別邸)
設計 吉田五十八
解体復元 板垣元彬建築事務所
施工 水澤工務店

写真も添えられています。その美しい借景や建築美を見て 実物を見てみたくなりました。
これだけのものを 個人で修復し保存 維持に努めていることに畏敬の念を覚えました。

だんだん少なくなっていく 日本の名建築。家屋などは後世のために大事に守っていきたいものです。

吉田五十八氏の設計の武家屋敷風の趣がある数寄屋造りの建物が成城五丁目にあります。(旧猪股邸)世田谷区の説明によれば
「内部は、伝統的な和風建築に見られる柱や長押、天井の回り縁といった部材をできる限り取り除き、すっきりとした吉田流と言われる近代数奇屋の特徴が随所に見られます。」とのことです。
また回遊式日本庭園もすばらしいとのことで 一度見学したいと思いました。

posted by うめのはな at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書

2012年07月19日

めぶろぐ

とっても暑いのでなかなか お散歩に出かけることができません。
お散歩 お休みのときは めぶろぐ をはじめましたので そちらを書いています。
目の手術の体験記です。
名づけて 「めぶろぐ」
http://umeno87eye.sblo.jp/

お出かけしたときは こちらにも書きますね。
posted by うめのはな at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年07月18日

渋谷区立 鍋島松濤公園

松涛美術館から少し足を伸ばして 渋谷区立 鍋島松濤公園に行った。
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「元々当地一帯は江戸時代には紀州徳川家の下屋敷があったところで、1876年(明治9年)に佐賀の鍋島家に払い下げられた。鍋島家は当地に茶園を開いて「松濤園」と名付け、「松濤」という名で茶の販売も行っていた。1932年(昭和7年)になると茶園は廃止され、湧水池のある一角が児童遊園として整備され、1932年(昭和7年)に東京市に寄贈された後、1950年(昭和25年)からは渋谷区に管轄が移されて現在に至っている。渋谷区HPより」
公園名は、かつてこの地にあった茶園 『松濤園』に因んで名付けられたとのことです。
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入り口に 説明版があるのですが汚れているし はげていてよく読めませんでした。
半分くらいは 遊具のある児童公園で 残りは水車小屋のある自然湧水の池です。公園の面積は5012m2。その池の周りに遊歩道があります。坂のある土地ですから遊歩道のまわりは小高くなっていて 緑も多く そこもまた遊歩道になっています。春には桜が咲くそうですが 日本庭園というより中央に池があるだけの公園という感じです。
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手入れがされていないのか 池の中の小島も背丈ほどの草で埋まっていましたし 水も汚くにごっていました。
2008年に写した写真ですが 小島の石灯籠もちゃんとわかりアヒルがいましたが 今回は亀しか見かけませんでした。
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 鍋島松涛公園 所在地 渋谷区松濤2-10-7
「この松涛園は、紀州徳川家の下屋敷跡を購入した鍋島家が明治年間に士族授産のために開いた茶園の名であり、松涛(しょうとう)とは茶の湯のたぎる音から出た名で、この銘の茶を生産していました。それがもとになって、昭和3年(1928)にこのあたりの松涛という町名が生まれました。
 ここの池は渋谷粘土層植えの宙水の自然ゆう水点で、もとは区内にも数多くの泉がありましたが、現在では区内には少ない自然ゆう水のひとつです。
 昭和7年(1932)に鍋島家から東京市に寄贈され、昭和9年(1934)から渋谷区の管理に移り、戦後に区立の公園となりましたが、池の周囲だけに昔の面影が残されています。 渋谷区教育委員会」
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すぐ近くには 戸栗美術館(旧鍋島藩屋敷跡)もあります。
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2012年07月17日

松涛美術館

建物外観は花崗岩を用いた円弧状のファザードが印象的です。
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外壁は荒く割った石をそのまま全面に使用し凹凸のある造りになっています。
入り口の のぞき穴。
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正面入り口。
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内部は建物の中心に地下2階からの吹抜けがあります。
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地下二階から三階までの吹き抜けの下には照明噴水と空中通路があります。
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楕円の吹き抜けの半分を囲むようにギャラリーがあります。
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今回地下2階は使用中で立ち入り出来ませんでしたが この地下二階が一番見所のある場所かもしれませんから 残念です。同時に空中通路も立ち入れませんでした。とても残念。
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階段は螺旋階段で折り返しが極端に少ない、美しい曲線の階段です。
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下から上.
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上から下。
吹き抜け部にかかる橋には プレートがありますが橋を渡れなかったのでうまく写せませんでした。
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以前は2Fの展示室で作品を見ながらソファーでケーキセットなど楽しめる稀な美術館だったのですがカフェはなくなっていました。残念です。
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2012年07月16日

田淵俊夫展ーいのちの煌めき: 松涛美術館

渋谷区立松涛美術館に「田淵俊夫展ーいのちの煌めき」を見に行った。
いつもは渋谷駅から歩くのだけど(約16〜7分)暑いので 神泉駅から行った。(徒歩5分)
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鉄筋コンクリート造 地下2階地上2階建
建築竣工 1980(昭和55)年5月8日
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東京都渋谷区松濤の住宅街にある白井晟一設計の美術館。
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渋谷区制施工80周年展ということで、渋谷区在住の日本画家、田渕俊夫さん(1941〜)の作品、約30点が展示されています。7月22日まで。
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大作「惶」 が2点揃って出ています。これは東日本大震災への鎮魂と祈りだそうです。
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初期の作品から 近年の墨絵まで。
植物画は着物の柄になりそうかなぁ・・とか思いながら見る。
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穏やかな絵ですが 植物の存在感はあります。
そして風景画になると 悠久と静寂を感じることができました。
ところが 近年の墨絵になると 迫り来るものがあって 私はこちらの絵のほうがいいと思いました。個人的には「爛漫」が好きです。

この美術館は区立なので 入館料は300円と安いです。
外観もユニークですが 建物の内部もまたとてもユニークなのです。
内部の写真撮影は 展示室以外OKでした。
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2012年07月15日

続・旧新橋停車場

2012年06月16日のブログで旧新橋停車場 のことを書きました。
http://umeno87.sblo.jp/article/56508557.html
そのときは あまりに近くて全体が写真に写せなかったのですが 今回 汐留シティセンターから硝子越しですが よく見えましたので 再び撮影してきました。
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汐留ミュージアムは4Fにあり エスカレーターで上がると屋根の部分などもよく見えました。
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シオサイトの入り口の自動回転扉はすごく嫌です。事故があってからあちこち 使用しなくなったりしています。なぜこんな不便なものをわざわざつけたのかなぁ〜流行だったんだろうなぁ〜普通の自動ドアにすればいいのに・・と思いつつ びびりながら出入りしました。
posted by うめのはな at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年07月14日

「アール・デコ 光のエレガンス―ルネ・ラリック、ドームを中心に」展

パナソニック汐留ミュージアムに「アール・デコ 光のエレガンス―ルネ・ラリック、ドームを中心に」展を見に行った。
東京都庭園美術館で見たルネ・ラリックやアンリ・ラバンの作品に魅せられていました。
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1920年代を中心にしたアール・デコ期の照明器具を中心にした展覧会です。
第一部はカラフルな硝子細工の照明器具。私はあまり好きじゃないです。
第二部のジャン・デュナン、第三部のラリックはモノトーンの作品も多く 精細でかつ 装飾性もすぐれていました。やはり ルネ・ラリックはいいなぁ・・と。
ラリックのキッチンウェアもありました。
ノルマンディー号の豪華な装飾も展示。宮殿を思わせるダイニングは3層吹き抜けでアール・デコの装飾です。
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ここはそんなに大きな展示会場じゃないのですが 消費者目線の飾り付けは手慣れたものなのでしょう。しかし 小声で作品について 友人と話しても 係員の一人だけが すぐ近寄ってきて「館内に声が響きます」と来る人ごとに注意していたのには 参った。
入場している人なんてほんの数えるほどしかいないし 注意されている人の話し声も全く気にならないほどなのに まるで無言で見なさい といわんばかりで少し不愉快だった。人があふれんばかりの会場の喧騒さをご存知ないのだろうか、人に迷惑になるような大声でもないのに・・と。二部三部でひそひそ話していても 他の数人の係員は全く注意しないので 入り口の人は仕事に忠実なんでしょう。

パナソニックのショールームが下にあったので 見てきましたが お話しちゃいけないのだろうと気になり誰にも話しかけず出てきましたw
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2012年07月13日

築地21 築地本願寺5

正門のすぐ右の石垣沿いにはいくつかの碑がある。
洗水のそばにあるのが「遺弟念力」 御一代記聞書・親鸞聖人。
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【遺弟】とは  師の死後に残った門弟。
一宗の繁昌と申すは、人の多く集り、威の大なる事にてはなく候。一人なりとも人の信を取るが、一宗の繁昌に候。然れば「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」と遊ばされおかれ候。  
祖師親鸞聖人の遺弟は、「更に珍らしき法をも弘めず、聖人のみ教えを、我も信じ、他人にも教え聞かしむるばかりなり」に、ひたすら徹しなければなりません、という意味です。
安芸廊亮大瀛師之塔
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凱旋釜の石碑
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児玉源太郎大将などの日露戦争戦勝祝いの「凱旋釜」。
台湾物故者慰霊塔
青銅の碑「台湾物故者慰霊塔」は伊藤忠太の設計によるもの。
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太平洋戦争のとき、台湾で亡くなった方々の慰霊碑で  終戦後、台湾 に残された日本人の遺骨1万3千人分を祖国日本に持ち帰る事が昭和38年に出来てこの地に安置されています。
正門です。
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南門です。
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築地本願寺は本堂・石塀登録有形文化財 です。
今回歩いた地図です。
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2012年07月12日

築地20 築地本願寺4

本堂に向かって左手 石垣沿いに 石碑や著名人の墓がある。
まず 親鸞聖人像
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九条武子夫人歌碑
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おおいなる
  もののちからに
    ひかれゆく
  わがあしあとの  
    おぼつかなしや 
九條武子は21代門主明如の娘。関東大震災のとき、西本願寺では、九條武子夫人を中心に救護所を開設して人々の救済に尽くしました。これを始まりとして、7年後1930年、夫人の歌集「無憂華」の印税を基金に充てて「病める人の母となり友となって、施療とともに精神的な安らぎを与えること」を理念とし江東区にあそか病院を建院しました。
酒井抱一墓(さかいほういつ)  
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所在地 中央区築地3-15-1 築地本願寺
東京都指定文化財 昭和4年(1929)5月
「酒井抱一(さかいほういつ)(1762〜1828)は播磨国(兵庫県)姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として江戸に生まれ育ちました。寛政9年(1797年)、江戸下向中の京都西本願寺文如(もんにょ)上人の弟子として出家し、等覚院文詮暉真と称し、抱一と号しました。
 画筆に秀で、茶道・俳諧・狂歌等にも長じ、文人墨客とも交わりを深めた風雅の人でした。画技は狩野・土佐・円山等の諸派や浮世絵に通じていました。尾形光琳の画風に傾倒し、文化12年(1815)光琳の100回忌を営み、『光琳百図』などを出版しました。また、その画技をおさめて、『四季花鳥図屏風』『夏秋草図屏風』などを残しています。
 門人には鈴木其一(きいつ)、池田孤村(こそん)、田中抱二(ほうじ)などがおり、抱一は京都の華麗な装飾画法である琳派(りんぱ)を江戸の地にふさわしい粋で瀟洒(しょうしゃ)な江戸琳派として完成させました。文政11年(1828年)11月根岸(台東区)の雨華庵で没し、翌月築地本願寺に葬られました。
平成10年(1998)3月 中央区教育委員会」
 森孫右衛門供養塔 
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区民有形民俗文化財 
「この供養塔は文久元年(1861年)森孫右衛門の200年忌に、子孫の森幸右衛門勝鎮と親族の佃宇右衛門寛敏の両名により建てられています。
 森孫右衛門は江戸時代以来、隅田川河口に佃島を築き、日本橋魚河岸のもととなる店を開いた人物とも伝えられています。
 供養塔の右側面の銘文には、孫右衛門は摂津国(大阪府)佃村の人で、二代将軍徳川秀忠の時、漁猟の許可状及び33人の漁師の漁業権を拝領したことなど、佃島の漁師と徳川家との関わりが書かれています。
 また左側面には、嘉永年間(1624〜1644)に百歩四方の土地を賜り、島を築き、正保元年(1644年)2月に築城し、佃島と名付け、豊島郡に属した佃島の成り立ちや代々、佃島の名主を務めたことなどが刻まれています。これらは佃島の造営を語り伝える貴重な資料といえます。
 平成10年(1998)3月 中央区教育委員会」  
間新六供養塔(はざましんろく)  
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東京都指定文化財 昭和13年(1938)10月指定
「間新六光風(はざましんろくみつかぜ)(1681〜1703)は、播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の家臣、間喜兵衛光延の次男として生れました。元禄15年(1702年)父および兄の十次郎光興とともに、主君、浅野長矩の殿中刃傷(でんちゅうにんじょう)事件の仇討ちに加わり、翌元禄16年(1703年)2月に麻布の毛利邸で切腹し、姉聟(あねむこ)の中堂又助が当寺に葬りました。他の義士と共に、高輪泉岳寺(港区)にも墓石がありますが、新六のみが当寺に葬られたのは、当寺の檀徒であったのか、あるいは、生前の特志によるものであろうといわれています。
 本願寺築地別院(築地本願寺)には、新六が吉良邸討ち入りののち、泉岳寺に引き揚げる途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて、当寺内に投げ入れたという伝承が伝えられています。
 この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834年)火災にあって焼失したため、羽佐間宗玄が再建したものです。
 平成15年(2003)3月 中央区教育委員会 」
土生玄碩墓(はぶげんせき)  
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東京都指定旧跡 大正13年(1924)1月指定
 「土生玄碩(はぶげんせき)は、江戸時代後期の眼科医で宝暦12年(1762年)安芸国吉田(広島県高田郡吉田町)で生れた。名を義寿といい、桑翁(そうおう)と号した。文化7年(1810年)奥医師を拝命し、文化13年法眼に叙せられ、文政5年(1822年)には12代将軍徳川家慶(いえよし)の眼疾を治療した。文政12年シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に、将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーボルト事件に連座、改易となり、江戸を追放された。嘉永元年(1848年)8月17日、87歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られたが、昭和3年(1928年)12月区画整理のため改葬された。墓標には『桑翁土生君之墓』とある。
 著書には、『銀海波抄(ぎんかいはしょう)』『師談録(しだんろく)』『獺祭録(だっさいろく)』などがある。
 平成11年(1999)3月31日 東京都教育委員会」
            
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2012年07月11日

築地19 築地本願寺3 動物たち

伊東忠太氏自ら 「予は何の因果か、性来、お化けが大好きである」と語っていますが 築地本願寺には不思議な動物がいくつか見られます。
間口87m、奥行き56m、高さ33mの大きさをもつ築地本願寺の中央部。
本堂正面石段下の獅子
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正面向かって右。
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正面向かって左。前足を立てた有翼の獅子の姿は、ギリシャ、メソポタミアのスフィンクスや中国の鎮墓獣に類似している。
階段上本堂入り口前にもいます。
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鶏かと思ったらだそうです。
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(本堂入り口)
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牛(本堂入り口)です。
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階段途中の
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馬に見えない顔です。
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今回はこれだけですが 他にも猿や象 グロテスクなどがいます。
築地本願寺には仏教寺院としては大変珍しくパイプオルガンが設置されています。
カトリック築地教会、聖路加国際病院礼拝堂、築地本願寺の3つの宗教施設にパイプオルガンがあります。
伊東忠太ワールドを堪能するには やはり本堂を中心に内部を詳細に見るしかないです。
本堂修復が終わり ゆっくり内部を見ることができるようになったら又 見学します。
次は 建物の外部の周辺をまわります。
posted by うめのはな at 09:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区

2012年07月10日

築地18 築地本願寺2

築地本願寺の外観はもちろんのこと 細部に至るまで伊東忠太のデザイン、アイデアが具現化されています。
伊東忠太の曲線 はあらゆるところに見られます。
正面石階段の側面 
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・甦った西本願寺「伝道院」と伊東忠太展―新しい日本の様式建築をめざしてー
で見た 伊東忠太のフィールドノートには、中国インド中東などの建物にある「曲線」が沢山スケッチしてあった。
本堂向拝の欄楯 
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インドの欄楯には金具の装飾はないが、細工は手が込んでいる。仏説阿弥陀経に「極楽世界には七重にかこむ玉垣(欄楯)と七重につらなる並木(行樹)がある」とある。欄楯は装飾をほどこした垣のこと。
本堂入り口のステンドグラス2stnukiji17.JPG 
内側から見ると外の光が透ったステンドグラスがきれいに見える設計だそうです。
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本堂入り口扉の装飾。
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照明。
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床の排水溝か点検口か換気口か・・の蓋。
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外部からの扉。
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扉上部。
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外部柱上部。
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築地本願寺の本堂修復工事のため 6月18日より本堂を一時閉鎖していましたので 本堂内部は入れませんでした。8月11日頃まで閉鎖予定です。終了したらまた行きます。
次は 伊東忠太の動物たちです。
posted by うめのはな at 09:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区

2012年07月09日

築地17 築地本願寺1

日比谷線の築地駅を出るとすぐに 築地本願寺がある。
関東大震災により坊舎を焼失し 伊東忠太博士の設計により、昭和九(1934)年、現在の本堂が落成。本堂の外観は古代インド様式(天竺様式)の石造りとなっています。
外観から見て行きます。
門の扉です。
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入ってすぐ 本堂の建物に圧倒されます。全体はカメラに入りきれません。
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真正面に立たないと 中心部がずれます。中央部は本堂です。
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正面右棟(太鼓楼)です。
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左棟は(鐘楼)です。
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少し横から見ると本堂円屋根が見えます。
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緑青色の銅板葺き円屋根と5本の尖塔です。 
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本堂部分です。中央ドームのデザインは「菩提樹」の葉っぱの形である。そのまん中には仏教のシンボル「ロータスフラワー」(蓮の花)がデザインされている。
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本堂入り口右壁面。
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右棟入り口。中央ドームのデザインと同様、菩提樹の葉っぱの形を模した輪郭の中に蓮の花がデザインされている。
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左棟。
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次はもう少し部分的に見ることにしましょう。
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2012年07月08日

築地16 勝鬨橋周辺

勝鬨橋西の信号の先、勝鬨橋のすぐ手前に石のモニュメントと石の広場がある。
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月の形をしているが説明はなかった。
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そのすぐ下が隅田川テラス
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テラスに下りず少し歩くと はとば公園の丸いモニュメントがある。
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以前船から見たこの界隈の隅田川テラス。赤レンガのしゃれたつくりです。
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晴海通りに戻り 築地本願寺の方に歩くと途中に元築地川がある。
築地川公園の一部だけれど このあたりは駐車場になっている。
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そこにかかっている橋の片隅にあるのが 門跡橋跡 (モンゼキバシアト)
工事中でフェンスで囲われていたし 草ぼうぼうでよく見えなかったが 門跡橋(親柱)がある。
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門跡橋(親柱) 築地3-17先 晴海通り。
門跡橋の下には、築地川から分かれた小田原河岸がありましたが、昭和39年に埋め立てられ築地川公園となりました。これは、晴海通り沿いに残る 『 門跡橋 』 の橋柱ですが 土に埋まってしまっています。
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昭和3年 復興局までしか見えませんでした。
ちなみに「門跡」というのは築地本願寺のことで、この門跡橋はちょうど築地本願寺の裏手にあたります。この門跡橋から築地市場よりの小田原橋までの水路部分は、現在は駐車場になっています。
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2012年07月07日

築地15 勝鬨橋2

橋を渡ってみた。
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ガードレールの模様がユニーク。
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橋が開く部分には信号もある。
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川から見たところにも信号がある。
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中央部が見える。ここを歩くと 橋が揺れたので少し怖かった。
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船からみた中央部〈開く部分)です。
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橋の上から見た築地市場。
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逆から見た勝鬨橋。
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築地14 勝鬨橋 1

かちどき橋の資料館前から見た勝鬨橋です。
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植え込みの中には勝鬨橋之記の石碑。
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勝鬨橋之記
「明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄付す
昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす  
昭和十五年十二月
東京市長 大久保留次郎 撰 書」
橋の手前には重要文化財指定のプレート。
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勝鬨橋という字とサインは石原慎太郎の直筆だそうである。
日本国重要文化財 勝鬨橋 東京都知事 石原慎太郎
「勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連がハの字形に跳ね上がる日本国内において 唯一のシカゴ型二葉式跳開橋等で、昭和15年(1940年)6月に竣工した。
勝鬨橋の特筆すべき点として、わが国最大の可動支開を有し 大規模でかつ技術的完成度の高い構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置によりなる跳開橋と、左右一連の拱曲線を放物線とした 下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。
下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で 内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。
建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員 成瀬勝武の指導のもと同技師 滝尾達也及び 安宅勝らである。」
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勝鬨橋  
所在地 中央区築地6丁目 中央区勝どき1丁目
「勝鬨橋は、昭和15年(1940年)に隅田川河口部に築造された、わが国で最大規模を誇る可動橋です。橋の中央部分を「ハ」の字型に開いて、1,000t級の大型船舶を通すことができました。
 勝鬨の名は、明治38年(1905年)の日露戦争の勝利を記念して、築地と月島間に新たに設けられた渡し場である「かちどきの渡し」に由来している。
 月島と築地の連絡は、佃の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡しの三つの渡しに頼っていました。勝鬨橋は、こうした月島の交通不便を解消し、当時、埋立が進んでいた晴海や豊洲地区の開発支援のため建設されました。
 隅田川河口部は、江戸から明治、大正、昭和初頭頃まで港の働きのある水域でした。河岸には、倉庫や工場が立地しマストなど背の高い貨物船が航行していました。また、造船所などもあり大型船も航行していました。このため、通常は人や車を渡し、1日数回開橋して大きな船を通すことのできる可動橋にしたのです。
 戦前は、1日5回開閉していました。戦後の昭和22年(1947年)からは1日3回、昭和36年(1961年)からは1日1回です。可動部は70°まで70秒で開きました。船が通る間、晴海通りは約20分間通行止めになりました。
 生活物資などを運搬する交通手段は、昭和30年(1955年)に入ると船や鉄道から自動車に転換してゆきます。このため、隅田川を航行する船が減少し、また勝鬨橋が渡している晴海通りの交通混雑が激しくなり、昭和45年(1970年)11月29日を最後に中止しています。
<橋長>246m
<有効幅員>22m
<構造型式>
可動部 シカゴ型固定軸双葉跳開橋
固定部 ソリッドリブタイドアーチ橋
橋台部 半重力式RC造り
橋脚部 半重力SRC造り
<工事期間> 昭和8年(1933年)6月10日〜昭和15年(1940年)6月14日
<工事費> 418万円
2007年6月18日、都道府県の道路橋として初めて、清洲橋・永代橋と共に勝鬨橋が国の重要文化財(建造物)に指定された。
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船から見た勝鬨橋。
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2012年07月06日

築地13 築地市場・勝鬨の渡し

晴海通り沿い、勝鬨橋の手前にあるのが築地市場の建物。
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軍艦操練所 はこのあたりにあった。
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軍艦操練所跡
所在地 中央区築地6-20先(東京都中央卸売市場築地市場)
「現在、中央卸売市場となっている一帯の土地は、かつて、江戸幕府の軍艦操練所があったところです。
安政4年(1857年)4月、外洋航海の必要性から幕府は旗本、御家人、その他の希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転を練習させる学校を設置しました。軍艦操練所と名付け、頭取(向井将監・勝海舟等が就任)以下、教授方出役・取調方等を任命しました。
 元和元年(1864年)に焼失して、南隣りの松平安芸守の屋敷に仮移転し、慶応2年(1866年)7月、海軍所と改称しました。同年11月、再び類焼して現在の浜離宮に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建ちました。
 平成11年(1999年)3月 中央区教育委員会」
駐車場が 築地ホテル館跡です。
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築地ホテル館跡
所在地 中央区築地6-20 (築地市場駐車場)
明治元年(1868)に建てられた外国人用旅館で、日本人による本格的洋風建築として新東京名物にあげられました。2階建て、アーチ式屋根やバルコニーを備え、各部屋に暖炉があり、玉突き場、食堂を設置してありました。明治5年(1872)惜しくも全焼しました。中央区観光協会 」
この築地ホテル館については このブログの記事でも図入りで述べています。
擬似洋風建築
橋の手前には 「かちときのわたし」のモニュメントがあります。
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勝鬨の渡し 所在地 中央区築地6-20-11
「明治25年(1892年)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
 明治38年(1905年)、日露戦争の旅順要塞(中国北東部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治38年(1905年)1月京橋區祝捷會挙行之日建之京橋區同士會」と陰刻されています。
 設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150m西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき1,3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。
 勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。
 大正12年(1923年)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運行され、昭和15年(1940年)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。中央区教育委員会」
すぐそばには 海軍経理学校の碑。
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海軍経理学校の碑 所在地 中央区築地6-20
「明治7年(1874年)海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたが、のち幾変遷を経て明治40年(1907年)これが海軍経理学校となった。
 その間明治21年(1888年)校舎は築地に移されたが、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代その付近には海軍の施設が多くその一帯は海軍発祥の地とも称されている。
 校舎はさらに幾度かの移改築を経て、昭和7年(1932年)この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員激増のため品川ほか地方三か所に校舎を増設した。
 戦後の海軍解体に伴い昭和20年(1945年)9月同校は約70年の歴史を閉じた。その間の出身者は数万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。
戦後30年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑を建てる。昭和51年(1976年)4月 」
すぐ後ろが かちどき橋の資料館です。
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勝鬨橋をはじめ隅田川の橋について、貴重な資料や関連情報等を展示・公開。予約制の橋脚内見学ツアーもあるそうです。
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この日はお休みでした。
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2012年07月05日

築地12 海幸橋の鋼鉄製親柱

波除稲荷神社のすぐ隣にあるのが 海幸橋の鋼鉄製親柱。
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区民有形文化財・建造物
  所在地: 中央区築地五丁目及び六丁目
 1.築地五丁目2番先(旧海幸橋北西位置 鋼鉄製親柱 )
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海幸橋の鋼鉄製親柱
「海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼鉄橋です。大正12年の関東大震災で日本橋にあった魚河岸が全焼してのち、築地に移転しましたが、その時に魚河岸の入口に新しく架橋された橋でした。魚河岸の繁栄と豊漁を願って海幸橋と名付けられたといわれています。橋梁設計は東京府道路局で、築地川東支川は平成7年に埋立てられ、橋本体は同14年に撤去されました。しかし、鋼鉄製の親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されることになりました。
 区内に残る貴重な文化財として親柱4基共に区民有形文化財に登録されました。鋼鉄製親柱2基は破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあります。この鋼鉄製の親柱のデザインと4基の配置は、日本ではめずらしいオランダのアムステルダム派のデザインの特徴をもっており、点対称に2基づつ配置されているめずらしい構造です。この橋の竣工時に原図に修正を記入した橋梁竣工図面12枚が見つかり、共に合わせて区民有形文化財として登録されました。 中央区」
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鋼鉄製の親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されています。
このタイプで現存する橋は、江東区の平久運河に架かる白妙橋があります。
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奥が築地市場です。
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築地11 波除稲荷神社2

波除稲荷神社境内にはいろいろな塚がある。
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玉子塚と末社(天照大神・大国主命・少彦名命・天日鷲命の四柱)
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すし塚 
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海老塚
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鮟鱇(あんこう)塚と活魚塚hamaguritukiji120.JPG 
蛤石 
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おきつね様 
それぞれ 塚祭があるそうです。
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2012年07月04日

築地10 波除稲荷神社1

昨夜TVで 築地・波除稲荷神社の『つきじ獅子祭』2012年6月7日(木)〜10日(日)の様子が放映されていた。
昨年の東日本大震災の影響で延期となった御鎮座三百五十年記念祭を『東日本大震災復興祈願・御鎮座三百五十年記念奉祝大祭 つきじ獅子祭』として齋行。「厄除天井大獅子」、「弁財天お歯黒獅子」、「神社社宝・金獅子」一対を含め築地の各町会(5町会)所有の5対の獅子頭が町を練りあるいたそうです。6月9日は雨でしたがみな 生き生きしていました。つい最近そこへ行ったので興味深く見ていました。
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築地市場に隣接する波除稲荷神社は 晴海通りから市場の中に向かって少し歩くとある。
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波除稲荷神社 築地6丁目20-37
「災難を除け波をのり切る 厄除け神 天井大獅子のある神社
 創祀は万治年間(1658〜60)江戸市街地整備の最後に困難を極めた工事を完成に導いたことから「波除」の尊称を贈られた。同時に一声で万者を威伏させる巨大な獅子頭も数十対奉納され、これを神輿の様に担いで回ったのが現在に続く伝統行事「つきじ獅子祭」である。この中で最も大きく厄除けで庶民に親しまれた「厄除天井大獅子」は江戸末期に焼失したが、平成2年樹齢三千年の黒檜から木造一木造りで高さ2.4m重さ1t日本一のジャンボ獅子頭として再興され、通常は境内獅子殿でお詣りの方の願い事を受け、年一度の祭礼つきじ獅子祭では数千人の人々に担がれ、築地の町々を回る初夏の風物詩として江戸の名残を伝えている。中央区」
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ちょうど「茅の輪くぐり」 の茅があったので くぐってきた。
左足から3回くぐるそうです。
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「茅の輪くぐり」2012年6月7日(木)〜7月7日(土)
[毎年大祭初日から7月第1土曜日まで]カヤで作った大きな輪をくぐって身を祓う古式。
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鳥居のそばの銀杏は 御神木・枝垂れ銀杏。左右には 大きな獅子頭。
波除稲荷神社の獅子頭 区民有形民俗文化財
  所在地: 中央区築地六丁目20番37号
 「この獅子頭は、嘉永元年(1848)、築地南本郷町の島屋藤次郎が発起人となって、制作されたといわれています。
 雄獅子は頭頂に角、雌獅子は擬宝珠を附け、ともに金泥が塗られています。
 昭和2年地元の「小波会」より神社に奉納されたものです。
 波除稲荷神社の祭りは、江戸時代より獅子祭として名高く、町内ごと、大店ごとに獅子頭を担ぎ巡行しましたが、震災、戦災により失われ、この一対を残すのみとなっています。
 江戸以来の獅子祭の伝統を伝える貴重なものです。 」
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「江戸時代、厄除・災難除の象徴として多くの参詣者を集め又当神社祭礼「つきじ獅子祭」の名称の元をもなした「厄除天井大獅子」は江戸末期に焼失以来その復興を待たれておりましたが、平成二年に神社の御鎮座330年を記念し、樹齢約三千年の黒檜(ねず)の原木を用いて 高さ2,4m 幅3,3m 重さ1t 往時に勝るとも劣らぬ 名実共に日本一の厄除天井大獅子として、加賀鶴木の現代の名工・知田清雲氏とその工房の手により再興され、神楽殿を基礎より全面改築された獅子殿に納められました。波除稲荷神社」
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「中に収められております「お歯黒獅子」は江戸時代に東都名物で在りました雌の大獅子を祭礼で担ぐ様に高さ一尺の台座を含め高さ2,2m 両耳幅2,5m 総重量700kg 総漆塗り一木造で、木彫・加賀獅子頭の名工の流れをくむ現代屈指の彫刻師・知田清雲氏とそれを支えた熟達の加賀の職人達の技により、紅色の肌地にお歯黒を施し金箔押しの巻き毛で腰高の姿に平成十四年再興され、この雌を表す頭の宝珠の中に弁財天・市杵島姫命の御神像が収められております。 波除稲荷神社」
TVでは 「お歯黒獅子」は女性たちが担いでいましたね。
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2012年07月03日

築地9 戦前の古い民家

築地6丁目、7丁目界隈は戦災にあわず現在も戦前の面影を残している。  
築地場外市場内には今回は行かなかったが そこにも古い建物がたくさん残っている。
関東大震災で日本橋魚市場が崩壊したため築地に移転し 東京中央卸売り市場となった。寺町だった築地には中央市場にはない 乾物、台所用品等を 取り扱う商店街ができ 戦後に鮮魚店も移転して場外市場が形成された。
築地6丁目21の商店です。
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戦前の建物なのに3階建てなんですね。
本願寺お隣の民家です。
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築地7丁目には区民有形文化財の「濱野家住宅 」があります。
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濱野家住宅
区民有形文化財・建造物
  所在地:中央区築地七丁目10番8号
 「濱野家は、海産物を扱う商家として、昭和5年現在地に建てられました。
 入口には、人見梁という背の高い梁がかけられ、軒は出桁造 という形式になっています。また、以前は、家に入ってすぐの場所が広い土間になっていて、鰹節 を入れた樽が山のように積まれていたといいます。
 濱野家住宅は東京の古い商家の造りを今に伝える貴重な建造物です。(内部非公開) 」
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梁を並べた上に桁を乗せた出桁造(だしげたづくり)が特徴です。
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裏側から見た家屋。実際にまだ人が住んでいます。
すぐ近所にあるのが「大宗旅館」です。
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築地に残された唯一の伝統的な日本家屋を使用している旅館です。築80年を越す建物は当初個人住宅だったそうですが、戦火をまぬがれた後に旅館となっったそうです。
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この家屋は文化財ではないですが 貴重な家屋であることは間違いないでしょう。
素泊まりだそうですが 内部は昔風の凝ったつくりだそうです。
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木塀が真新しいのですが 東日本大震災で塀が倒壊してしまったため新たに造り直したそうです。

この界隈は瀟洒なマンションやビルも多く 古い町並みと新しい町が同居する不思議な町です。
一歩 足を踏み入れれば なにか周りの喧騒から逃れて別の町に来たような気がしました。
豆腐屋さん 魚屋さん などのお店もあるし 細い路地に軒を並べるように家屋があって あれ?この感じどこかで・・という風に思いました。
ああ・・・我がふるさと三国かも。。。。と。
魚河岸があり 大川があり 寺町だったり 小さな商店があったり 町屋があったり。そして 新富町あたりには明治元年,新島原という花街があったそうですし なんとなく雰囲気が似ているように感じたのはそのせいかもしれません。
しかし 時代の移り変わりとともに 古い家がなくなってきているようです。
次の機会にはもう少し この界隈を探索してみたいです。
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2012年07月02日

築地8 タイムドーム明石・月島百景

あかつき公園のすぐ近く 料亭「治作」の入り口には電信創業記念碑がある。
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電信創業記念碑
所在地 東京都中央区明石町13
 明治2年(1869年)9月19日(太陽暦10月23日)、横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32kmの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電信通信の最初である。

 この記念碑は、先駆者はの業績を後世に伝えるため、昭和15年(1940年)に建立されたもので、昭和53年(1978年)、南南東約40mの地点から当地へ移設されたものである。」

すぐ隣には月島の渡し跡の案内板があった。
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月島の渡し跡  
所在地 築地7丁目18番/明石町14番 地域
「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島三丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。
 明治34年(1901)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌35年に汽船曳船2隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。明治44年には、臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。
 月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にありましたが、東京市に移管されて運営が開始される明治35年以降は、明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。
 昭和15年(1940)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運航に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。
 月島の渡しは、月島工業地帯の発展、ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
平成20年3月 中央区教育委員会」
川向こうが 月島・佃。
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この後 すこし戻って 「タイムドーム明石」に行った。
タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)
郷土資料館があって常設展はすごく見ごたえがあるのですが時間がないので 今回は 第13回特別展 「月島百景 佃・月島・勝どき・晴海・豊海 水のまちの120年」 を見てきました。
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「中央区月島地域は、江戸初期からの歴史を持つ佃、近代日本を支えた工業地域であった月島・勝どき、海の玄関口である晴海・豊海など、江戸から現代にかけ成長してきた地域です。特に明治25年(1892)に月島第一号埋立地(現月島一〜四丁目)の工事が完了したことにより、月島は大きく発展を遂げました。本展示は月島第一号埋立地竣工から今年で120年の節目を迎えることから、月島地域の歴史と文化を紹介するものです」

豊富な写真と資料などで 月島の移り変わりがよくわかりました。貰った小冊子は展示品のすべての写真と解説で これはすごくよかったです。
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築地7 中央区立あかつき公園

中央区立あかつき公園に行く。東京の真ん中とは思えないほどゆったりとした公園です。11,808.54平方メートル。東京都中央区築地7−19−1
この公園の遊具は充実していてよく考えられ洗練された すばらしい公園です。
日よけのついた砂場のまわりは 犬猫が侵入できないように囲われています。
砂はホワイトサンドの白い砂で海外から購入したものらしい。
屋根もあるし 砂場の中にパンダのオブジェなんかもあるから小さな子供は飽きることなく遊べます。ローラー滑り台や果物のオブジェなどもあり メタセコイヤの木陰もある。
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道を挟んで タイヤのある公園にはクライミングウォールやターザンロープなどの アスレチック遊具もあります。また 冒険広場には「霧の噴水」があります。夏は涼しくていいでしょうね。
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子供たちが写ってしまうので 遊具や砂場の写真は撮りませんでした。小さな子供の数は意外と多いです。
またシーボルト胸像があります。シーボルト自身は築地に住んだことはありません。
娘いねが築地に産院を開業したことから 胸像が建てられたそうです。
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シーボルト胸像
「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796〜1866)はオランダの商館医院として文政6年(1823年)7月 長崎に到着し診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。文政9年(1826年)正月・商館長と共に江戸へ向かい文政9年(1826年)3月4日 日本橋の長崎屋に止宿し文政9年(1826年)4月12日出発するまでの間 江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし文政11年(1828年)9月シーボルト事件が発生し文政11年(1828年)12月に日本から追放された。後に安政6年(1859年)幕府顧問として再来日したがまもなく帰国しミュンヘンで没した。彼の江戸における指導は江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことからここに彼の胸像を建て日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。(中央区教育委員会)」
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2012年07月01日

築地6(明石町)ガス街灯柱 他

この界隈は東京大空襲などの被害を免れた戦前の建築物が残っています。カトリック築地教会の前に明石小学校があります。 大正14年に竣工した明石小学校(設計:原田俊之助)は解体され 新築中でした。なんとも残念なことです。
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そのお隣のマンション前にあるのがガス街灯柱 です。
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ガス街灯柱 所在地 中央区明石町1-15
「これは、ガス灯を点ずるための街灯柱です。高さは3.4mで柱は鋳鉄製、コリント風の様式をとり、柱頭・柱身・基部の部分から成っています。柱頭のランプ部分は後に付けられたものです。柱頭の下には左右に長さ20cmの腕金が出て、柱身の下部には繰型が見られます。この街灯柱は明石町の築地居留地で使用されたと伝えられています。

 当時は、夕方になると点火夫が長い棒の先に鍵と点火具の付いたものを持って、ランプの底を開いて点灯し、夜明けには、ガスのバルブを閉じて消灯して歩いていました。

 日本の都市ガス事業の始まりは、明治5年(1872年)に横浜の外国人居留地でしたが、東京は翌明治7年(1874年)銀座煉瓦街の完成を機に、西村勝三・フランス人プレグランらが、芝浜崎町にガス灯85基を建て、明治7年(1874年)12月に点灯したのが最初といわれています。ガス灯の明るさは当時の人々を驚かせました。」
 そこから聖路加看護大学の周りに戻ると 角にあるのが芥川龍之介生誕の地のプレート。
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芥川龍之介生誕の地
所在地 中央区明石町10 (聖路加国際病院)
 「明治16年(1883年)ごろ、この付近(当時の京橋区入船町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(1892〜1927)は、明治25年(1892年)3月1日、その経営者新原敬三の長男として、ここに生まれました。
 龍之介は誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になりました。
 東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、「地獄変」「羅生門」「河童」「或阿呆の一生」など、多くの名作を遺しましたが、昭和2年(1927年)7月24日、35歳で自害しています。」
すぐお隣にあるのが 浅野内匠頭邸跡。
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浅野内匠頭邸跡
所在地 東京都中央区明石町10・11地域
 「常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610〜1672)は、正保2年(1645年)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
 忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665〜1701)は、長友の子で、元禄14年(1701年)、勅使の接待役の推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。」
 この聖路加のまわりの遊歩道は緑多い憩いの散歩道です。
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すぐ前にあるのが築地川公園。この公園はバーベキューはできるしデイキャンプもできるし都会のオアシスです。
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区立築地川公園は その昔は築地川が流れていたところにかかる細長い公園です。
江戸時代、この界隈の土地が造成され、海から陸になった際に埋め残された部分が築地川となった。
暁橋で川は二つにわかれていたそうです。
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明石町を流れていた築地川は、空襲による建物の瓦礫処理の埋め立てで昭和45年(1970)に姿を消しました。築地川公園となって、かつての川筋の跡を今に伝えています。
posted by うめのはな at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区