2012年10月04日

日本橋漁河岸跡

日本橋北詰交差点東側に日本橋漁河岸跡の石碑がある。
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ちょうど三越新館の反対側です。
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中央区教育委員会設置の説明板には、以下の記載がある。
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日本橋漁河岸跡

所在地 中央区日本橋室町1丁目8番地域
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの300余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
 平成19年3月

中央区教育委員会

「日本橋魚河岸発祥の地」碑は昭和55年(1980)3月、築地魚がし会が建立した。碑の背後にある乙女像は昭和29年(1954)3月、旧日本橋魚市場関係者が建立した記念碑です。
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記念碑の乙姫は竜宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったことをあらわしているそうです。「日本橋 龍宮城の港なり」。

碑の裏側の説明文。

「本船町、小田原町、安針町等の間悉く鮮魚の肆なり。遠近の浦々より、海陸のけじめもなく鮮魚をここに運送して、日夜に市を立て甚賑えりと「江戸名所図会」にのこれる日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり。
旧記によればその濫觴は遠く天正年間、徳川家康の関東入国とともに、摂津国西成郡 佃、大和田両村の漁夫三十余名、江戸にうつり住み、幕府の膳所に供するの目的にて漁業を営みしに出づ、その後、慶長のころほひ、幕府に納めし残余の品を以て、これを一般に販売するにいたり、漁るもの商ふものの別、おのずからここに生じ、市場の形態を漸く整う。さらに天和貞享とすすみて、諸国各産地との取引ひろくひらけ、従ってその入荷量の膨張驚くべきものあり。
かくして、やがて明治維新の変革に堪え、大正十二年関東大震災の後を受けて京橋築地に移転せざるの止むなきにいたるまで、その間じつに三百余年、魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街として、また江戸任侠(にんきょう)精神発祥の地として、よく全国的の羨望信頼を克(か)ちえつつ、目もあやなる繁栄をほしいままにするを得たり。
すなわち、ここにこの碑を建てる所以(ゆえん)のもの、われらいたずらに去りゆける夢を追うにあらず、ひとえに以て、われらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外(ほか)ならざるなり

  東京に 江戸のまことの しぐれかな」

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日本橋川の両岸には河岸が設けられ、舟運により全国各地から運ばれてきた荷は、いったん河岸に陸揚げされ、そこから江戸市中へと行き渡っていった。こうした掘割運河⇔河岸⇔町という人と物の流れが、水辺に賑わいを与え、さらにその背後の町々の賑わいへと波及していった。
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現在の 隅田川に注ぐ 日本橋川の河口。

日本橋川 (にほんばしがわ)


日本橋川 古くは平川からなり、江戸期に道三堀などの開削を経て堀割河川が整備された。水運の要所として賑わいをみせ魚河岸の発祥となった。上流は神田川から分岐し、日本橋を経て河口は隅田川に注ぐ。

posted by うめのはな at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区