2013年01月31日

のらくろ館(江東区森下文化センター)

田河水泡「のらくろ館」は江東区森下文化センター1階の常設特別会場にあります。
のらくろーどという商店街を通ります。
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あちこち のらくろだらけです。のらくろの町です。
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森下文化センターは江東区の施設です。無料で入場できます。
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のらくろ館

「漫画「のらくろ」の作者・田河水泡(本名:高見澤仲太郎)は、幼年期から青年期までを江東区で過ごした本区ゆかりの漫画家です。
平成10年(1988年)、遺族から作品や書斎机などの遺品が江東区に寄贈されました。これを機会に、日本の漫画界に大きな足跡を残した田河水泡の業績を紹介し、永く後世に伝えるため、「田河水泡・のらくろ館」を、氏が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼしたこの地に開設しました。 江東区」
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大きなのらくろが お出迎えです。
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主な展示品

・ 水泡作品…漫画原作、水彩画、エッチング、著作
・ 水泡関連図書…美術、落語、芸能ほか
・ のらくろキャラクターグッズ
・ 愛用の画材道具類
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 書斎再現コーナー もありました。
初版本や原画のほか 年表や写真などを通して、水泡の生涯と業績、交流のあった人々を紹介しています。
のらくろのいる風景」という黒コンテに水彩で色をつけた 水彩画もとてもよかったです。
展示室の前には 1500冊を超える漫画&関連本が読める「のらくろ広場」があり誰でも自由に読むことができます。
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その床にも のらくろ がいます。
その広場を利用して 田河水泡・のらくろ館特別展示「永遠の少女マンガ展」2013年1月19日(土)〜2月11日(月)を開催中です。
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永遠の少女マンガ展
 「第1期は、京都精華大学国際マンガ研究センターとマンガ家の竹宮惠子さんが共同で研究を進めている原画‘(ダッシュ)を中心に展示します。また、今でも根強い人気を誇るマンガ家、三原順さんの後期の短編集「夢の中 悪夢の中」収録作品、遺作となった「ビリーの森ジョディの樹」等の原画も展示します。
 その他、田河水泡とその弟子たちが描いた少女マンガの紹介、少女マンガ2000冊が並ぶ閲覧コーナー、グッズ販売等、華麗なる少女マンガの世界をお楽しみください。」

原画(ダッシュ) に参加している14名の作家の華麗な少女マンガ作品合計28点が見られます。

アートスペースには伊東深水・関根正二 紹介展示コーナーもあります。
「少年時代をともに過ごした深川ゆかりの画家、伊東深水と関根正二. 伊東深水 明治31 年(1898)江東区森下に生まれました。13歳のとき、日本画家の鏑木清方に入門します。「深水」の号は、生地の深川と師の清方に因んで、鏑木清方からから与えられました。女性の美しさを生涯にわたって描き続け、日本画界に“美人画”の世界を築きました。
関根正二明治32年(1899)、福島県の白河に生まれ、9歳のとき、深川区東町(現在の江東区住吉一丁目)に移り住みました。少年時代、小名木川の川遊びで伊東深水と出会い、その後、深水の影響で絵の道に入ることになります.独学で洋画を学び、幻想的な個性溢れる作品を描き、二科展で樗牛賞も受賞しましたが、20歳の若さで亡くなりました。 江東区」
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 二人の生涯や作品を紹介したパネルを設置するほか、画集、美術の関連書籍や雑誌等を閲覧できます。
伊東深水直筆文と原画を展示してあって 美人画もありました。
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画集、美術の関連書籍や雑誌等を閲覧できます。

のらくろーどを眺めながら 森下駅のほうへと向かいました。
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本当はこの通り 「高橋夜店通り」というのですね。(三つ目通り森下4丁目〜清澄通り高橋交差点まで)

posted by うめのはな at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術館・博物館・芸術鑑賞

2013年01月30日

ビートたけし×ヤノベケンジ コラボレーション作品ANGER from the Bottom

東京都現代美術館では1月16日(水)〜2月3日まで エントランスホールで ビートたけし氏とヤノベケンジ氏のコラボレーションによる作品《ANGER from the Bottom》「地底からの怒り」を無料公開しています。
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「この作品は、イソップ童話「金の斧」のパロディで、欲にかられた2番目の男が湖に意図的に落とした斧が神様の頭に刺さって殺してしまうという、ビートたけしのギャグが古井戸に置き換えられ、ヤノベケンジの独特でユーモラスな造形かつ破格なスケールで現代アートとして表現されています。」
高さ約8mという巨大なものが 古井戸から 音響効果の地響きとともにうなり声をあげてせりあがってきます。
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頭にオノが突き刺さった怪物の顔の造形は現代芸術家ヤノベケンジらしいもので 以前公開された「ジャイアント・トらやん」の雰囲気でした。
ヤノベケンジ氏による、高さ7.2メートルの巨大ロボット 「ジャイアント・トらやん
2009年4・26撮影(現代美術館)
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胴体は 昆布かわかめがまとわりついているような感じでした。
クリックで大きくして見ると迫力がわかるかも。
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-----《ANGER from the Bottom》----

会  場: 東京都現代美術館 エントランスホール
会  期: 2013年1月16日(水)〜2月3日(日) 月曜休館

公開時間: 10:00〜18:00
*10:30〜17:30の間、毎時30分頃に作動します。
*状況により時間が前後することもございます。

観 覧 料: 無料
主  催: 京都造形芸術大学
協  力: 東京都現代美術館
制 作 者: ビートたけし(タレント)/ヤノベケンジ(現代美術家)/ 京都造形芸術大学学生 12名
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説明書きとお二人の写真も展示されていました。
たまたま 10時半の作動を見ましたが 7〜8人がカメラを構えて撮影していました。
動画だと面白いかも。古井戸のお化け?なのでしょうが 怖くはなかったです。子供には怖いかもね。
posted by うめのはな at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術館・博物館・芸術鑑賞

2013年01月29日

有栖川宮記念公園《港区)

南部坂の途中に  有栖川宮記念公園正門がある。
門には 右からの文字で「昭和九、一月開園、「有栖川宮記念公園」と書いてある。
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南部坂の手前、広尾駅からすぐのところにも入り口があり そこには地図と公園の説明書きがある。
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公園の沿革

「この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていましたが、明治29年、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王の栽仁(たねひと)王新邸造成の御用地となりました。大正2年、同宮家が絶え、大正天皇は第三皇子光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王に、有栖川宮の旧称高松宮の称号を賜り、その御祭祀をお継ぎになりました。その後、児童福祉を目的とする遊び場に深いご関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年1月15日にこの地を東京市に賜与されました。そして、東京市は同年11月に記念公園として開園しました。その後、北東部を編入し、昭和50年には港区に移管されて、多くの人に親しまれています。 東京都 」
有栖川宮記念公園
南麻布5丁目7番29号

面積:67,131.11平方メートル
麻布台地の変化にとんだ地形を生かし、丘があったり、渓流や池があったりと、自然を大切にした趣きのある日本庭園です。
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東京都立中央図書館のある東側の高台から西側の低地部へと傾斜した土地に、丘や渓流、滝、池など変化に富んだ景観が見られる日本庭園が広がっています。
「この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋敷であったが、明治29年(1896年)有栖川宮家の御用地となり大正2年(1913年)高松宮殿下がこれを受けつがれた。

 殿下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の入園も許しておられたが昭和9年(1934年)1月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付されたのがこの公園である 都はその御主旨にそい直ちに造園工事に着手 同年11月これを完工し広く都民に開放したものである。」
坂を登りきった 広場には公園のシンボルとも言える「有栖川宮熾仁親王騎馬像」があります。
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有栖川宮熾仁親王像
「有栖川宮熾仁親王 (ありすがわのみや たるひとしんのう)

天保6年(1835)2月9日−明治28年(1895)1月15日
四親王家のひとつとして10代にわたり300年間栄えられた有栖川宮における 9代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役で優れた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や 元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治28年(1895)1月に亡くなられました。
この銅像は 近代彫刻の先駆者・大熊氏広作で明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治36年(1903)10月10日千代田 区三宅坂旧参謀本部前に建立したものを、昭和37年(1962)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園 に移設されました。 港区」
広場には記念碑などがあります。
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そして 東京都立中央図書館があります。
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開館 1973年  所蔵図書 約170万冊
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この図書館はすごいです。貴重資料画像データーベースなども整っています。
荷物は透明なビニールバッグに入るだけで 残りはロッカーへ。ノートPCは持ち込み可。
入り口で入館証をもらい首にさげます。
5Fは 眺めのよいカフェテリアで食事もできます。
今回は 4Fの企画展示を見ました。
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地図と名所案内でめぐる明治・大正の東京
明治維新後、近代都市へと発展を遂げた東京の姿を、都立中央図書館が所蔵する明治・大正時代に刊行された地図や名所案内、写真パネル等で、現在と対比 させながら紹介しています。
無料ですが パンフの地図を印刷した立派なクリアフォルダーと資料などを頂きました。
明治 大正の東京は建物なども興味深く 面白かったです。
写真では 当時の人々の様子も伺えて感慨深かったです。

posted by うめのはな at 08:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年01月28日

南部坂・麻布南部坂教会(港区)

日比谷線広尾駅から少し歩くと 南部坂がある。
南部坂は旧麻布盛岡町と旧麻布広尾町の境界を西から東へ上る急な坂である。
坂下から見て左側は坂の名称は、江戸時代、現在の有栖川宮記念公園の場所に奥州・南部藩の屋敷があったことに由来している。
有栖川記念公園である。坂の右側は麻布ナショナルスーパー、南部坂教会、ドイツ大使館、ドイツ大使館公邸と並び、外国人が多い。
すれ違う人たちも オープンカフェに居る人たちもほとんどが外国人でした。
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坂の途中にある小さな教会が 麻布南部坂教会です。
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日本基督教団麻布南部坂教会
年代 昭和8年(1933)1996(平成8)年改修
用途 キリスト教会
設計 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
構造 鉄筋コンクリート造3階建
所在地  港区南麻布4-5-6
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この小さな教会もウィリアム・メレル・ヴォーリズさんの作品なのです。
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日本基督教団麻布南部坂教会
「南麻布の南部坂に面して、有栖川宮記念公園に向かい合うように位置しています。設計は宣教師として来日したヴォーリズです。昭和8年(1933)に献堂式が行われました。教会堂建設は、募金活動およびドイツ改革派東北ミッションの宣教師からの援助によって実現したと言います。当時は日本基督麻布教会と称していました。一階のホール(幼稚園)と礼拝堂を重層的に積み上げることによって、坂道という立地条件を活かした設計がなされています。坂下からは礼拝堂の大きなポインテドアーチ(先の尖ったアーチ)を望むことができます。 港区」
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その隣はドイツ大使館です。(写真の黒いビル)
南部坂のきつい坂の塀はドイツ大使館のもので 「日独交流150年」の写真などが描かれています。
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この外壁はその時々の行事で写真が変わるので名物となっています。
この斜めの塀の内側は大使館。のぼりつめたところに 大使公邸があります。
ドイツ大使館は、敷地は5000坪ほどの土地に大使館と大使公邸が建ち広い日本庭園があります。1937年まで、ここは小泉策太郎の邸宅でしたが 策太郎の没後は何回か人手に渡った。そして、1960年にはドイツ大使館となりました。
門が固く閉じられているので 中はうかがえませんが 門の前に「不老」の石碑。
これは何なのだろうと見ましたがわかりませんでした。
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ドイツ大使公邸(旧小泉策太郎邸)
年代 19世紀
用途 専用住宅⇒大使公邸
構造 木造平屋建
所在地 港区南麻布4-5-10
「ドイツ大使公邸は、大正・昭和初期に活動した政治家・小泉策太郎の邸宅を受け継ぐものです。小泉は政友会の政治家であるとともに、小泉三神の雅号をもつ文人でもありました。大正時代、南麻布の地に移り住んだ小泉は、数多くの古美術品、特に仏像のコレクションを開始しました。その仏像を収めるための古建築群を移築し、さらに邸宅の庭園を「柯蔭精舎(かいんしょうじゃ)」と称し、石塔、燈篭、蹲(つくばい)などを配置した日本庭園を築きました。この日本庭園は当時の有力な政治家を接待するための場としての意義も大きかったようです。古建築群として、富士見稲荷社殿、門(通称武家門)、東屋、鐘楼が現存します。 港区」
敷地は徳川二代将軍の旗本・三枝氏の屋敷があったときのままで 、庭園もドイツがこの敷地を購入したときのままであるといわれています。ドイツ大使館敷地内に三枝摂津守の邸内社/富士見稲荷の旧跡があり祠が残っている。
一度くらい中を拝見したいものです。

有栖川宮記念公園に行きます。
posted by うめのはな at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年01月27日

神宮橋・原宿駅

明治神宮の鳥居のすぐそばには 明治神宮ならではの公衆電話が・・・
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実は宝物殿そばの自販機も同じ屋根でした。
目の前は神宮橋です。
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宝物殿にあるのが古い橋標です。
所在地 渋谷区神宮前

 「神宮橋は大正9年(1920)、明治神宮の造営時に山手線を跨いで架けられ、当時としては珍しく、鉄骨を使用したコンクリートの橋桁であった。橋の装飾は最も苦心したところで、御影石の高欄部分には黒松を吹寄植して橋を渡る人々に下を走る列車を気付かせないよう配慮すると共に橋詰には石燈籠を現代化した親柱を建てた。
 多くの人々に親しまれてきたこの橋も、寄る年波には勝てず、60有余年間その使命を十分に果たし、新しい橋に架け替えられた。
この新しい橋は古い橋の姿をできるだけ損なわないように高欄は御影石を使って再現し、親柱は当時の石材を補修してそのままの形に復元した。そして、歩道部分の舗装には御影石を組合せてその中に渋谷区の木「けやき」をデザインして配置し、新しい原宿の町にふさわしく明るい感じとしたものである。
 昭和57年(1982)9月  東京都」
そして原宿駅です。
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原宿駅

竣工 1924年(大正13年)
所在地 東京都渋谷区神宮前1-18-20
構造 木造2階建て

英国調ハーフティンバーの装飾と、小さな搭を備えているのが印象的な洋風木造駅舎。
関東の駅百選の認定プレートがあります。
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明治神宮の最寄駅である原宿駅は1906(明治39)年10月30日に開業しまし。現在の駅舎は関東大震災の翌年、1924(大正13)年の建築です。
この駅舎は、東京都内に現存する最古の木造駅舎です。二階建てで、尖塔付きの屋根に白い外壁という、イギリス調のデザインです。
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山手線ホーム、臨時ホームのほか 少し離れたところに 皇族専用の宮廷ホームが有ります。
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山手線ホームから見た駅舎です。

原宿という駅名は、開業当時近隣にあった地名、原宿(豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿)からだそうです。
明治神宮宝物殿前には当時の様子を語るJA東京の説明板がありました。

代々木野と周辺の村落
「ここ明治神宮の境内は、かつて代々木野といわれ武蔵野の一部で、草深き原野は四季折々の山野草が咲き競っていました。それまで、寒村であった江戸に徳川家康が幕府(1603)を置いた事から、江戸周辺の原野は拓かれ、あちこちに集落が形成されました。
 寛永年間(1624〜44)には諸大名の別邸や旗本の屋敷などが作られましたが、代々木野(当境内)には元熊本藩主、加藤忠廣の別邸が造営されました。当境内周辺には原宿村・千駄ヶ谷村・代々木村・穏田村・上渋谷村などの集落があり、米、麦、蕎麦などのほか、ナス、ダイコン、ニンジンなど、江戸で不足する野菜類を主に生産し、神田や日本橋に出荷していました。

1867年、江戸幕府が崩壊し、明治政府が誕生すると、かつての大名屋敷の多くは空き家となり、青山周辺は市街化が進んだのに比べ、原宿村など、周辺の村々は、明治中期の頃まで、田園の景観をとどめていました。 」

現在の原宿駅前は相変わらず混雑していました。

posted by うめのはな at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋谷区

2013年01月26日

明治神宮 大鳥居/宝物展示室

南神門を出てしばらく歩くと正参道の右手に神宮御苑北門があります。
そこをすぎ、南参道と北参道の出合い口のところに大鳥居(第二鳥居)があります。
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 大鳥居
「我が国で最も大きい木造の『明神鳥居』。昭和50年(1975)12月23日建替竣功、篤志家により奉献。形式寸法共に大正9年(1920)創建の鳥居に同じ。原木は台湾丹大山の樹齢1,500年に及ぶ扁柏。
高さ12メートル   柱と柱の間 9.1メートル   島木の長さ 15.5メートル
柱の径 1.2メートル   笠木の長さ 17メートル」
重さが13tもあり、木造の明神鳥居としては日本一の大きさです。
一代目の鳥居は昭和41年に落雷で損傷を受け、この鳥居は二代目の鳥居です。一代目の大鳥居は明治神宮が創建された大正9年に完成しました。この鳥居の材木は檜(ヒノキ)ですが、国産の檜ではなく台湾産です。明治神宮御造営の時に台湾総督府より献木されたもので、阿里山(アーリーシャン)の西腹より伐採されたそうです。樹齢は1200年以上に達していたといわれます。
この大鳥居の近くには文化館があり食事や休憩ができるようになっています。おみやげ物やさんもあります。
 文化館
「明治天皇践祚130年の記念事業として平成9年(1997)に竣功しました。総ガラス張りの近代的な建物で、明治の文化と心を現代に広めるため2階には宝物展示室を兼ね備えているほか、参拝者の便に供するため、レストラン・無料休憩所等があります。」
この文化館には宝物展示室があります。
宝物殿のチケットで入館できます。
宝物展示室                                
 「平成9年、明治天皇践祚(せんそ=天皇の位につかれること)130年の佳年を記念して建造された明治神宮文化館。その中に、宝物殿の別館として宝物展示室が開館しました。宝物展示室では「明治のこころ」を今に伝える御祭神ゆかりの品々を中心に展示しています。
 特に春と秋には特別展が開催され、日頃目にすることの出来ない貴重な資料が公開されます。
 さまざまな困難を乗り越え、近代国家建設を果たした輝かしい明治という時代を振返っていただきたいと存じます。 」
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「明治神宮の名宝」展が開催中で見てきました。
『幼學綱要』や御屏風など、明治天皇、昭憲皇太后両御祭神みゆかりの品々を展示しています。
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特別展示ジオラマ「明治天皇御葬列」
 「明治天皇百年祭事業として明治天皇御大喪時の御葬列ジオラマを作成し、文化館宝物展示室にて初公開中です。行列全景2万人の御葬列と轜車(じしゃ)中心部分500人が製作されました。 」
入館するとすぐこのジオラマがあるのですが こんなにも人の列が・・・と思いました。
天皇の祭祀の時の衣類などもあって興味深かったです。

文化館出て 神宮橋のほうへ南参道を歩くと 酒樽があります。
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 清酒菰樽
「明治神宮の御祭神明治天皇様は、明治の御代に我が国の様々な産業を奨励し技術の振興に御心を注がれ日本の興隆と近代化を成し遂げられました。
また、我が国の国母と慕われた昭憲皇太后様と共に両御祭神の広大無辺な御聖徳は国民ひとしく仰ぎ奉るところであります。
ここに奉供されています菰樽は、ご縁を以て永年当神宮へ奉納を頂いております甲東会を始め、昭和38年(1963)に結成された明治神宮全国酒造敬神会会員、また全国各地の敬神の念厚き酒造家より献納されたものであります。
ここに、ご奉献頂いた酒造各社に衷心より感謝申し上げますと共に、酒造業を始めとした我が国の伝統文化を担う諸産業が益々栄えますことをご祈念申し上げます。 明治神宮」
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 葡萄酒樽
 明治天皇御製
 「よきをとりあしきをすてて外國に
  おとらぬくにとなすよしもがな」
「和魂洋才」を旨とし、わが国の伝統のこころを守りつつ、西洋の優れた文物を採り入れた明治時代。御在世中、まさ国民の模範となって近代化を推し進められた明治天皇は、断髪、洋装をはじめ衣食住の様々な分野において西欧文化を積極的に採り入れられました。食文化においても率先して要職をお召し上がりになり、西洋酒としては特に葡萄酒をお好みになられました。
ここに奉供されております葡萄酒樽は、ブルゴーニュ東京事務所代表でブルゴーニュ名誉市民、シャトー・ドゥ・シャイイホテル・オーナーでもある佐多保彦氏の呼びかけにより、葡萄酒産地として名高いフランス共和国ブルゴーニュ地方は醸造元各社より献納されたものであります。ご縁により遠く海を越えご奉献頂いた方々に衷心より感謝を申し上げますとともに、御祭神の世界友好への深い御心を戴き、わが国とフランスとの親交が一層深まりますよう祈念致します。明治神宮」
そして鳥居です。
原宿駅方面から南参道に入る場合はこれが最初の鳥居です。
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この鳥居を出て原宿駅に向かいます。

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2013年01月25日

明治神宮 御社殿

明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祭神とし、初詣では例年日本一の参拝者を集めている。1月19日に行ったのですが かなりの参拝者がいました。
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明治神宮のおみくじには吉凶はなく、天皇・皇后の作られた詩文・和歌が書かれています。戦後、明治神宮は一宗教法人となり、おみくじを出すことになりましたが、 一般神社のよう吉凶ではなく、ふさわしい独特のおみくじにしたいと考えたそうです。

ちなみに、明治天皇は93,032首、昭憲皇太后は27,825首もの歌を作られているそうです。その中から人倫道徳を指針とするものを30首選んだとか・・・
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明治神宮の宮の字に「ノ」がはいっていません実は明治神宮だけではなく、伊勢神宮のおふだにも「ノ」が入っていないのです
明治神宮は大正9年11月1日創建されました。その第一日目より直会殿でおふだを授与したのですが、そのおふだを書いたのが、当時明治神宮造営局の第六代副総裁・床次竹二郎でした。そしてそのおふだには「ノ」が入っていなかったのです。
 以来明治神宮のおふだは、この字を基本にしてきたのです。「宮」の書体の種類は35種類あります。
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西神門から入りました。東神門、南神門とあります。
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大きな夫婦楠があります。
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 夫婦楠 めおとくす
この楠は大正9年(1920)の御鎮座当時の献木され、御祭神の御加護のもと樹勢瑞々しき大樹に育った御神木であります 両樹木は「夫婦楠」として親しまれ、縁結び、夫婦円満、家内安全の象徴となっております。
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神楽殿には10組以上もの結婚式の名札がありました。新郎新婦が何組もいました。
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 神楽殿 
平成の御大典記念事業として造営されたもので、明治神宮崇敬会及び全国崇敬者よりの多大な奉賛により平成5年(1993)に竣功しました。神楽舞、舞楽を奏しての厳粛な祈願祭を随時奉仕しています。
客殿
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南神門鳥居
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社殿はこの南神門の正面です。
ここを出て 大鳥居に向かって歩いていきます。

posted by うめのはな at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋谷区

2013年01月24日

明治神宮宝物殿 3

「宝物殿内には、御祭神にゆかりの深い御物、日常ご使用の机、文房具、箪笥、ご愛読の書籍、ご着用の装束、ご乗車の馬車、その他の調度品が陳列されています。」
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五箇條の御誓文や教育勅語の実物や天皇と皇太后御着用の礼装、明治の元勲たちの書、明治神宮鎮座の絵巻などと貴重な実物ばかりです。
なかでも 十二単(御(唐衣)や英国製の六頭曳儀装車(鳳凰車)は目を引きます。
立派な英国製の「六頭曳儀装車」は明治22年2月11日の憲法発布記念日の観兵式に使われたものです。

壁には馬堀法眼喜孝「歴代天皇御肖像」124面 神武天皇〜昭和天皇が並びます。
日本書紀の時代の天皇のお顔って・・・想像なのだろうなぁ・・でも遺伝子的に にているような気もしますけど・・・どうなんでしょ。
また 聖徳記念絵画館壁画の下絵もすべて並んでいます。
「明治天皇紀 附図」81葉ですが この附図が壁画と「異なる構図」のものが何枚かあって見つけてはあれ?と思ったりしていました。
すでに 壁画(縦3メートル横2.5〜2.7メートル)80点を見ていたのでなかなか面白かったです。
聖徳記念絵画館壁画の下絵を作成した二世芳柳(にせいごせだほうりゅう)は聖徳記念絵画館の壁画の考証図の作成を命ぜられ、心血を注いでその制作に邁進したといいます。
特別な日を除き 土・日・祭日のみ 開館。内部は撮影禁止。

東廊に中倉の鬼瓦が置かれています。
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中倉の鬼瓦は、福島県会津産の薬掛仕上で、 鬼面の幅が1.15m、高さ1.1m、鬼瓦全体の高さは2.4mあります。 現在の中倉の屋根の鬼瓦は、1982年(昭和57年)の改修工事の際に作られたものです。

大鳥居切り株
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「 此の切株は現在の大鳥居の原木で直径1.2メートル、樹齢約2000年をかぞえます。
 明治神宮の大鳥居(第二鳥居)は我が国で最も大きい木造の鳥居であります。現在の大鳥居は二代目で、御鎮座当時(大正9年(1920年)) の形式、寸法とも全く同じものです。御鎮座当時のものは山麓の檜の原木で建立されたものでしたが、昭和41年7月落雷により傷がつきましたので、篤志家の奉納により昭和50年12月23日再建いたしました。
 初代の大鳥居は装いも新たに現在埼玉県の大宮市の武蔵一宮神社にたてられております。(説明版)」

北前千石船
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北前千石船, 彌榮丸, 昭和47〜48年, 日本一船匠 野田房吉作
「この模型船は唐人お吉時代西暦1850年頃のものを作ったものです。
北前千石船は江戸中期より大正初期まで使用された船で大正元年には三隻残っていましたが現在は一隻もありません。
北前と云うのはこの船の航路が北海道から日本海瀬戸内海を経て大阪に至る間を航行していたので名付けられたものです。
この船の著しい特長は左右の舷側に波除のあることで この波除けは出船のときに青竹で取り替えられたものです。
積荷は上りは米、下りはにしん、かずのこ、昆布。砂糖、などの高級品を積んだものです。(説明版)」
和船造りの船大工、野田房吉さんは 重要無形文化財に推薦されたこともある「名人」です。

初代神宮橋の橋標
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大正9年に最初の神宮橋が竣工。
神宮橋は大正9年(1920)、明治神宮の造営時に山手線を跨いで架けられ、当時としては珍しく、鉄骨を使用したコンクリートの橋桁であった。橋の装飾は最も苦心したところで、御影石の高欄部分には黒松を吹寄植して橋を渡る人々に下を走る列車を気付かせないよう配慮すると共に橋詰には石燈籠を現代化した親柱を建てた。多くの人々に親しまれてきたこの橋も、寄る年波には勝てず、60有余年間その使命を十分に果たし、新しい橋に架け替えられた。
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宝物殿の次はいよいよ 社殿に行きます。

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2013年01月23日

明治神宮宝物殿 2

中倉をはじめとするほかの重要文化財を見て行きます。
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中倉横から。
(左右対称なのでどちらか一方の写真。)
東西廊
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東西倉
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東西橋廊
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東西渡廊
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北廊 事務所 車寄 など
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東西廊から橋廊への階段など
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東西橋廊を渡り 中倉に入ります。
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2013年01月22日

明治神宮宝物殿 1

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする神宮です。面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。

所在地 渋谷区代々木神園町1-1 (明治神宮)
北参道から入りました。
入り口です。
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    「 定

 1 車馬ヲ乗入ルコト
 1 魚鳥ヲ捕ルコト
 1 竹木ヲ伐ルコト
 右境内ニ於テ禁止ス」

大正9年(1920)の制札。
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北参道の鳥居です。
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木漏れ日の参道です。しばらく行くと広場があります。
明治神宮宝物殿が見えてきます。
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正門が入場口になっています。500円でチケットを買うと 文化館の宝物展示室も入場できます。
明治神宮宝物殿は明治天皇ゆかりの御物を収蔵・展示するための施設として明治神宮造営局の大江新太郎が設計を行い、大正10年(1921)に竣工しました。 展示施設の中倉を中心として各建物を左右対称に配置した構成で、中心建物を高床とし、校倉造(あぜくらづくり)や寝殿造(しんでんづくり)などを基調とした独特の和風意匠でまとめています。わが国の伝統的な建築様式を集成し、力強い造形表現を実現しており、高い価値が認められる。また、建物全体を鉄筋コンクリート造とした和風意匠の建築物ではわが国最初期のものであり、建築技術史上においても重要である。
明治神宮宝物殿
都・選定歴史的建造物

竣工 1921年(大正10年)11月
所在地 東京都渋谷区代々木神園町1-1
設計 設計担当:大江新太郎、監督:志知勇次
施工 長崎橋本組
構造 鉄筋コンクリート造平屋建て
この建物は、奈良正倉院の校倉風大床造の様式を模した、 わが国初期の鉄筋コンクリート建築の代表作です。
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中倉です。全体がカメラに入りません。
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空の青い筋ですが 飛行機雲とも思えないし何なんでしょう。時間をおいてこれだけではなく何本もこのような筋が見られました。
明らかに移動しているものもありました。隕石か?などと思いました。
重要文化財 :明治神宮宝物殿 13棟
大正10年(1921年)竣工。鉄筋コンクリート造。中倉(附:陳列箱8基、鬼瓦1箇)、東西倉、東西廊、東西橋廊、東西渡廊、北廊、車寄、事務所、正門の計13棟が近代和風建築として国の重要文化財に指定され、土塁2箇所が附(つけたり)指定となっている。
太刀 銘助茂(1972年盗難、所在不明)
順に見て行きます。
まず 正門です。
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正門を入ると正面に中倉があり その前は広場です。
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左右に東西廊があり そこから展示室(中倉)に入ります。
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東西廊

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2013年01月21日

明治神宮御苑

清正井は明治神宮御苑内にあります。
明治神宮御苑は、江戸時代初期熊本藩主加藤清正、後に彦根藩主井伊直孝の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内庁所管となり代々木御苑と称されていました。入場料は500円です。
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「苑内には隔雲亭(かくうんてい)、お釣台、四阿(あずまや)、菖蒲田(しょうぶだ)、清正井(きよまさのいど)などがあり、曲折した小径が美しい笹熊の間を縫い、武蔵野特有の面影をとどめている名苑です」
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入場して少し下ると隔雲亭があります。見所には立て札があります。
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隔雲亭
「元の隔雲亭は明治三十三年明治天皇の御思召によりましたが、戦災により消失したので、昭和三十三年、篤志の寄付と社殿御造営残材とにより一部増築して再建したものであります。」
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この前方は美しい庭園になっていて南池が見えます。
南池
面積凡そ八〇〇〇平方米(約2400坪)
この奥の 清正井を主な水源とし、睡蓮の花咲く夏の頃の眺めは殊に美しく、冬は水鳥の楽園です。
水面に張り出して御釣台があります 。大きな鯉がたくさん見えました。
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御釣台
明治時代に天皇様の思召により設けられ皇后様には時々御釣りを楽しまれたと伝えられています。
この南池から清正井までずっと菖蒲園が続きます。
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菖蒲園
「この菖蒲園は明治30年頃明治天皇の御思召により優秀な品種を集め植えられたもので、当時は八十余種でしたが、現在では百五十種・大株一千五百株を数え、緑の谷間に咲き競う景観は環境のよさと共に見事です。
 花菖蒲には江戸(東京)種、伊勢種、肥後(熊本)種の三系統がありますが、ここの花菖蒲は江戸種です。
花期は例年六月上旬から七月上旬です。」
雪でぬかるむ小路を歩き四阿(あずまや)を越えて清正井に向かいます。一番端なので かなり歩きます。

都会では珍しい湧水の井戸です。
東京都の調査では水温は四季を通じて15度前後と一定していて、毎分60リットルの水量があるそうです。
清正井
「この地に下屋敷を構えて居た加藤清正が掘ったと伝えられ、一年中絶ゆることなく湧き出る清水は 南池の水源となり掘り方の光明と水質の優秀なことは早くから世に知られています。」
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2009年(平成21年)12月25日から突如、清正井目当てに行列が延々と続く事態が起こりました。
数時間待ちの行列になったそうです。
ある芸人が番組でこの井戸のご利益を力説したことから 清正井はパワースポットとして注目を浴びたのです。
19日は十数人の列でした。小路から下りたところにあるので 危なくないように警備員がいて入れ替わりの指示をします。
小鳥が水のみにきています。清らかな水で 手を触れてみましたが 冷たくはなかったです。井戸水だとわかりました。

 「清正井」のあるこの地は江戸時代、加藤家の下屋敷があり加藤清正の子・忠広が住んでいたことは間違いないようですが、清正本人が住んでいたかは定かではありません。まもなく加藤家が絶え、その後井伊家の下屋敷となりました。 
昔から「清正井(きよまさのいど)」といわれ加藤清正が自ら掘ったとされています。ただし加藤清正が掘ったかどうかまでは定かではないそうです。
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2013年01月20日

明治神宮雪景色

昨日19日、明治神宮に行ってきました。
14日に雪が降ったのでまだ少し残っているだろうなぁ〜と予想はしていたのですが 雪景色には少々驚きました。
北参道から入った池も半分は凍っていました。
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宝物殿前の広場は一面雪景色・・・
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ここはセントラルパークかと思えるような景色です。
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参道は除雪されていましたが まわりの森はまだ残雪があって時々バサリと音をたてて雪が落ちます。折れた枝が痛々しかったです。
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御苑の中の南池も凍っていました。
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ここは兼六園か・・・と思ってしまいそうです。
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菖蒲園は一面雪と氷です。
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菖蒲園の一番奥に あの有名な「清正の井戸」があります。
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2013年01月19日

玄冶店跡/ 三光稲荷神社/椙森神社

人形町通り 人形町交差点からすぐの。ビルの商店の前に 富と切られ与三郎の情話の舞台となった玄冶店跡の碑がある。
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歩道の碑の前にダンボールが置かれたりして 雑然としていて 不快でした。
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玄冶店跡 日本橋人形町3-8
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 「玄冶店」(げんやだな)の地名は、江戸時代、ここの医者岡本玄冶(1587年〜1645年)が住んだことに由来し、歌舞伎「与話情浮名横櫛」の舞台ともなりました。玄冶は幕府の医官で、将軍家光が痘瘡を病んだ時、見事にこれを全快させて、一躍その名を高めた名医で、子孫も九代この地にその職と名跡を継ぎました 。

玄冶店跡のすぐ近くの細い路地に「三光稲荷神社」があります。この「三光稲荷神社」も、歌舞伎と関係があります
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中央区日本橋堀留町2-1-13
「江戸時代、堺町にあった中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者2代目関三十郎が伏見より勧請したと伝わります。
中村座で三十郎が演技をしているとき、場内で霊光のような閃きがあり、三十郎がくっきりと照らし出されました。
 それがあたかも三十郎が光を発しているように見えたため、観客からやんやの喝采を浴び大評判となり、その後、名声を不動のものとしました。
 三十郎は、これは日頃から深く信仰していた伏見稲荷大明神の加護によるものと感じ、自身の名の「三」と「光」の字を合わせて「三光稲荷」と称したそうです。「江戸惣鹿子」元禄2年(1689)には記載があるところから、創建はそれ以前と推測される。」

堀留町の交差点を渡ります。
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すぐ近くにあるのが椙森神社です。中央区日本橋堀留町1-10-2
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人形町・椙森(すぎのもり)神社は「江戸三森」の一社で、中央区民文有形化財に指定されています。
「江戸三森」は、江戸時代に特に庶民の信仰を集めた椙(すぎ)森神社(中央区)・柳(やなぎ)森神社(千代田区)・烏(からす)森神社(港区)
の三社を指します。
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椙森神社すぎのもりじんじゃ

 日本橋七福神 恵比寿神

中央区民文化財
 椙森神社の社殿と富札
説明版がありました。
「 椙森神社(すぎのもりじんじゃ)の創建は、社伝によれば平安時代(794〜11925)に平将門の乱(935年)を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その債権の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 明治維新後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災(1923年)で全焼し、現在の社殿は昭和6年(1931年)に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
 境内には富塚の碑(富塚碑)が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの、(昭和28年(1953)再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。中央区教育委員会」
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富塚碑(椙森神社)
中央区民文化財

 「大正8年(1919年)椙森神社境内に富くじ興業を記念して建立された。現在の碑は昭和29年(1954年)の再建。富くじは寛永年間(1624〜1644)に神社仏閣の普請修理費捻出のために始まったもの。
 椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建です。
 江戸時代には、江戸三森の一つであり、又江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富くじが興行されたことが記録に残されています。
 この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮べることができます。この富塚は庶民の心の記念として大正九年に建立されましたが、関東大震災(1923年)に依って倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年(1953年)11月に再建されたのです。
 この富塚は、他に類を見ないといわれ、日本で唯一のものです。今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願をしている様です。」
掘留町の歩道には 芸者が富くじをひく絵タイルがありました。
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富塚のそばで 目をひくのが狛犬です。
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狛犬の阿吽(あうん)の「阿(あ)」は、仔狛犬を抱えています。
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狛犬の阿吽の「吽(うん)」は、前肢に花柄の鞠(まり)を持っています。
狛犬の台座には、昭和8年(1933)に寄進とありました。

椙森神社から神田方面に歩きます。
昭和通りを渡ります。高速道路のすぐ下に児童公園があります。
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「竜閑児童遊園」(日本橋小伝馬町19-4)です。
「龍閑川埋立記念碑」があります。
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神田との境界に竜閑川(りゅうかんがわ)があった。かつては神田区と日本橋区、現在の千代田区と中央区の区境が旧竜閑川。
戦後すぐに埋め立てられたが、その跡地は路地状の地形となっているので歩くことができる。
左側が中央区、右側は千代田区、中央部に旧竜閑川が流れていた。

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2013年01月18日

人形町通り 中央区

地下鉄人形町駅から人形町通りに出る。にぎやかな通りです。歩道沿いには提灯がさげられています。
人形町からくり櫓が目に付く。平成21年11月に設置されたからくり時計です。
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甘酒横丁交差点を挟んで人形町通りの西側に江戸火消し「は組」の櫓があります。
人形町の由来

 現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街がありました。中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また見世物小屋をはじめ人形芝居の小屋が5、6軒あり、そのため、かなりの人形師がこの町に住んでいたので、江戸時代より俗に人形町と呼ばれ親しまれてきました。
 人形に茶をはこばせて門涼み    (おらが春)

この辺りは元吉原でした。
「江戸時代の初め、元和3年(1617年)に蘆の繁茂する湿地を埋立して造成されたのがこの土地です。

 一方、14,000余坪を堀で囲んだ遊廓は江戸一番の歓楽の地と成りました。

 しかし、明暦3年(1657年)の江戸の大火で焼失した吉原遊廓は、39年間この地で栄えましたが、浅草山谷へ移されました。」

藪入が必立や思案橋 『七番日記』(文化14年正月)
 吉原に行こうか芝居町に行こうか、橋の上で思案したことから「思案橋」と名付けられたそうですが この橋は今はありません。
「思案橋は日本橋川の江戸橋と鎧の渡(現在 鎧 橋)の間に入る内堀に架かっていた橋であるが、 現在はこの堀は暗渠になって埋め立てられている」
 思案橋事件(1876年)がおきたところです。
人形町からくり櫓の近くにあるのが 「よし梅 人形町本店」
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昭和二年創業江戸名物「ねぎま鍋」が食べられる店として有名な「よし梅」。古きよき時代の情緒たっぷりの小路があります。
この本店はもとは芸者の置屋だったところで 戦災をまぬがれた建物です。
中央区日本橋人形町1-5-2の「よし梅芳町亭」は昭和前/1927頃の建物で 内部は天井板や板欄間など化粧に上質の材を用い,床や下地窓など数寄屋風の意匠も整い,昭和初期の和風の水準をよく示しているということから 国の登録有形文化財(建造物)煮指定されています。
『よし梅本店」すぐ隣は大観音寺です。
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「おおがんのんじ」と読むそうです。 台東区浅草にある「金龍山 伝法院 浅草寺」を総本山とする「聖観音宗」に属するお寺になります。
創建年代は不詳とされるが、現在の大観音寺は、昭和17年(1942年)に創建され、昭和27年(1952年)に天台宗から聖観音宗に改宗している。江戸三十三観音の3番目の札所。ちなみに1番は浅草寺、2番は清水寺。

大観音寺には鉄造菩薩頭があります。
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鉄造菩薩頭 日本橋人形町1-18
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「 この菩薩頭は鋳鉄製で、総高170センチメートル、面幅54センチメートル。頭頂部のみは後に補修され鋳銅製。頭上には高さ53センチメートルの高髻(こうけい)があり、後補の鋳銅製蓮華座に乗っています。

 この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音像でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治9年(1876)大観音寺に安置されています。以後、本尊として今日に至りました。毎月17日に開帳され、信仰を集めています。
 中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品で、昭和47年4月、都指定有形文化財に指定されています。

中央区教育委員会」
残念ながら開帳日ではないので、見られませんでした。毎月17日
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馬頭観音は厄除の菩薩で、観世音菩薩三十三化身の内、唯一忿怒の相を表している。
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韋駄天尊
韋駄天尊は、法や先祖を祀る仏壇、厨房を守る神である。
他に商売繁盛、開運の荼吉尼天(だきにてん)や本願地蔵尊、興亜観音が境内に祀られている。
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下に下げられたてぬぐいが 江戸情緒・・・
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2013年01月17日

身延別院 中央区

大安楽寺のすぐ隣は身延別院 です。
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明治16年(1883)伝馬町牢屋敷跡に創建された身延山久遠寺(現山梨県身延町)の別院です。
 久遠寺から迎えた本尊の「木造日蓮上人坐像」は胎内に明応6年(1497)の銘があり、東京都の有形文化財に指定されています。
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身延別院 木造日蓮聖人坐像

所在地 中央区日本橋小伝馬町3-2 (身延別院)
 (都指定有形文化財)
 「この坐像はヒノキ材の寄木造りで、像高70cm、袖長76cm、胡粉地に彩色を施しています。
 頭は円頂形をし、瞳は水晶製、右手に笏、左手に経巻を持ち、法衣は朱彩、牡丹唐草模様の袈裟の上に、同じ模様の横ひ(おうひ)をかけています。胎内に、明応6年(1497年)7月、施主河島盛正との墨書銘があり、仏師山城発教定蓮が造立した、室町後期の日蓮聖人座像です。

 明治16年(1883年)、身延別院創建の際、山梨県身延山久遠寺から迎え、本尊としました。大正12年(1923年)の関東大震災にも焼失を免れ、昭和47年(1972年)4月、都指定有形文化財に指定されました。製作年代の明確な日蓮聖人の座像として貴重なものです。」
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関東大震災までの身延別院は、豊原國周筆の錦絵「村雲鬼子母神堂・願満祖師堂一覧之図」に「日本橋小伝馬町もと牢屋しきあとえ祖師堂および鬼子母神堂其外いと美麗なる堂宇を造築なし今は他に並びなき繁昌の霊地とはなれり」と右肩に白抜きで大書されてある。
願満祖師堂、すなわち後の身延別院は敷地約三百坪で、今の十思公園の東向きの正面に堂々たる構えの土蔵造りの祖師堂があった。
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油かけ大黒天神
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すぐそばに説明版があります。
「昭和の名優長谷川一夫氏は京都伏見の出身で、そこには「油かけ町」という町があり、昔、油売り商人が道端の石像に間違って油をかけてしまったが、それ以来商売が大繁昌したという伝説がありました。長谷川しげ 夫人は神仏に厚く帰依し、戦後間もなく、たまたまこの油かけ天神を夢に見て、天神様から東京に祀って大勢の人と結縁せしめよとのお告げを得たので、当時の身延別院の住職藤井日静上人に相談した結果、当院にお祀りすることになりました。商売繁盛、開運、安産に御利益があり、毎日お参りの人がひしゃくで油をかけてお祈りする姿をみることができます。」
光明稲荷大明神
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他に刑死したひとたちの供養等や鰻供養塔 お題目供養塔あります。
ここは 2台車が駐車していてなんとも興ざめしてしまいました。

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2013年01月16日

大安楽寺 伝馬町獄処刑場跡

十思公園の向かい側に大安楽寺があります。大安楽寺は、高野山真言宗のお寺です。
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和風ベースの本堂に洋風に見える上部の建築。1929年築。
2階建て唐破風の向拝を持つ鉄筋コンクリート造り。関東大震災後に再建されたもので、内陣は段差のない密教形式となっている。
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本堂右手が木造建築の庫裡。こちらも関東大震災後に再建されたものです、ガラス戸は屋久杉の木枠にフランス・パリから輸入されたハイカラなガラスが嵌められている。本堂内の火燈窓形式のガラス戸ともどもデザイン・細工は、当時の技術の粋を集めたものだそうです。
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伝馬町獄処刑場跡 《都指定旧跡》昭和29年都史蹟指定
所在地:東京都中央区日本橋小伝馬町3-5 (大安楽寺)

この辺り一帯が伝馬町獄の敷地だったのですが、大安楽寺の敷地内には、処刑場跡地が含まれています。
明治の初年、ここを通った高野山の山科俊海というお坊さんが燐の火が燃えているのを見て、霊を慰めるためにお寺の建立を思い立ちます。処刑場の跡だということで 原っぱだった土地の値は周りに比べて破格の安さだったそうです。明治5年(1872年)から勧進し、明治8年に当寺を建立した。
建立に際して、大倉財閥創業者の大倉喜八郎と安田財閥の創業者安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前をとって大安楽寺と名づけたと言われています。
その後、関東大震災で焼失後再建されたが、太平洋戦争の東京大空襲では奇跡的に被害を免れたそうです。
伝馬町獄処刑場跡の碑と延命地蔵菩薩
斬首が行われていた処刑場のまさにその地には、延命地蔵菩薩が建立されています。台座には山岡鉄舟の筆による「為囚死群霊離苦得脱」という文字が刻まれています。
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刑死した人たちの霊を供養する言葉でしょう。合掌。
延命地蔵菩薩像 製作者 日展審査委員 横江嘉純 
延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立されました。
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地蔵尊の向かい側に、「江戸伝馬町牢石垣之一部 江戸伝馬町牢井戸跡」と説明板の立った石がありました。
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その隣には 百度石。通りからみると伝馬町獄処刑場跡の赤い文字。
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宝安稲荷大明神 
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弁財天使神 ( 化石、 神居古潭、白蛇 )

北海道、石狩川神居古平潭峡の石
古来アイヌの酋長のシンボルとされ「撫で石として厄除、息災、招福の石として」信仰された。
化石の白蛇は己が弁財天の使であることから築地和田久より寄贈された。
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江戸八臂弁財天
八臂(はっぴ)とは8つの腕という意味です。この弁財天様は、北条政子の発願で作られたと伝わっているそうです。
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江ノ島弁財天と一緒に造られた弁財天三体の内の一つとされる。他の二体は江ノ島神社、岩本楼にある。
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大安楽寺の隣には 身延別院があります。

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2013年01月15日

十思公園(じっしこうえん)・中央区

前出の十思スクエア隣は十思公園(じっしこうえん)になっています。
東京都中央区日本橋小伝馬町5-2
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和風の入り口ですが この公園は江戸時代には有名な伝馬町の牢屋敷があったところです。
こじんまりとした公園です。
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別の入り口には大きな 江戸三縁史蹟という説明板があります。
石時町時の鐘宝永時鐘
吉田松陰先生終焉之地
伝馬町牢屋敷跡
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石時町時の鐘宝永時鐘
工第四号  指定書《都指定有形文化財》
  石町時の鐘一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町    所有者 東京都中央区役所
銅鐘   高さ一・七米口径九三糎    宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
右を都重宝に指定する。
     昭和二十八年十一月三日   東京都教育委員会

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江戸市民に親しまれた時報鐘のひとつ。現在の日本橋室町4丁目付近にあった。近くにオランダ人の定宿、長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたいはやされた。高さ1.7m、口径93cmの和鐘である。「石町時の鐘」は江戸で最古のものであるが、火災などで破損し,現在の鐘は宝永8年(1711年)に改鋳されたものである。
石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626年)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
伝馬町で処刑が行われる時はこの鐘の音が合図になったそうで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたとの事です。「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930年)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。

吉田松陰先生終焉之地
兵学、洋学に通じた幕末の長州藩士・吉田松陰は、幕府の条約調印に関して閣老間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)伝馬町牢屋敷で処刑された。松陰直筆の辞世の歌が刻まれている。
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「松陰先生終焉之地  文部大臣男爵荒木貞夫書」
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「吉田松陰先生略歴」碑
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「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂
 十月念五日 二十一回猛士」
松陰の遺書「留魂録」の冒頭に記されている句です。

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安政の大獄で吉田松陰が刑死したのは、安政6年(1859)10月27日、享年30才でした。奥に「留魂碑」が建てられていています勤王の志士の中では、橋本左内や頼三樹三郎(らい みきさぶろう)などもこの地で刑死しました。行年30歳明治22年(1889年)2月11 日正四位を贈位され昭和14年(1939年)6月十思小学校 校庭に留魂碑が建設されました。

江戸伝馬町牢屋敷跡
史第二十九号  指定書 《都指定旧跡》
  伝馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町一の五先    所有者 東京都(中央区管理)
地積   一三・四五坪(二二尺四方)
右を都史蹟に指定する。
     昭和二十九年十一月三日   東京都教育委員会
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牢屋敷は天正年間(1573〜1591)、常盤橋門外におかれたのが最初。
この牢屋敷は、1677(延宝 5)常磐橋(ときわばし)門外からここに移されて、1875(明治 8)市ヶ谷監獄ができるまで使用されました。
 敷地は2,677坪で、中には五百石以上の旗本が入る揚がり座敷、御家人・大名の家来・僧侶・医者などの揚(あ)がり屋、一般町人の大牢のほか、無宿人の二間牢、百姓牢、女牢などがありました。
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この庭園は屋敷の名残りなのでしょうかねぇ・・・

公園内にはもう一つ石碑があります。
杵屋勝三郎歴代記念碑
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「杵屋」は江戸長唄三味線の家名。初代は、天保年間(1830年〜1844年)に武家から出て、一派を創始、二代目が最も著名で、「船弁慶」「連獅子」「時雨西行」「安達ケ原」などの名曲を残しました。二代目が十思公園に近い馬喰町に住んでいた縁故で碑が建てられました。

公園の目の前には元刑場跡があり現在は大安楽寺 となっています。

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2013年01月14日

日本橋大伝馬町・本町 界隈

日本橋〇〇町界隈は江戸以来の町が関東大震災で完全に焼失し、昭和の初めに新たな町として再建されたものが、今も残されている古い町である。老朽化し取り壊してビルやマンションになっているところも多いが まだ現役で残っている建物も多い。
細い路地があり 細かい区画の町並があるが それらをまとめて大きなビルが建てられていく動きが顕著になっている。
歩いてみればポツポツと空き地があり 工事中だったりしている。以前見かけた建物がなくなっていたりもする。
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旧日光 街道本通りの碑があります。たしかホテルが建っていた場所だと思いますが現在は駐車場になっていました。
 ここは 明治まではこの前の道が旧日光街道で本通りでした。
日本橋大伝馬町は、宿から宿へ馬の背に荷物を積んで運ぶ江戸時代の制度「伝馬」に町名が由来します。
享保3年(1718)年に将軍家から「江戸屋」の屋号を与えられ、刷毛の専門店として大伝馬町の旧日光街道沿いに店を構えたのが江 戸 屋。石碑の目の前の店です。東京都中央区日本橋大伝馬町2番16号
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この地で300年近く刷毛を製造してきた東京で最も古い刷毛・ブラシの老舗「江戸屋」は12代目だそうです。
一見、洋館風の建物は、関東大震災後に東京でブームになった「看板建築」のスタイル。木造家屋の正面に平らな面を取り付けて、モルタルで装飾をあしらっている。震災復興期の昭和初期の築と思われる。
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細めの縦の柱をモチーフにその間に窓が配置されている。窓の上のレリーフは梟に見える。
縦線を強調したデザインは、ハケをかたどっていると伝わる。
江戸屋からすぐの江戸通りの歩道橋を渡ります。
歩道橋の上からスカイツリーが見えました。
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大通りから中に入り ぶらぶら歩く。このあたりにも古い家屋がたくさん残っている。
民家というより 何かのお店。そういえば日本橋は問屋・商人の町だったかなぁ・・と。
大通りから一歩 はいればスーパーやコンビニなどは見当たらない。買い物が大変かなぁ〜とか思いながら歩く。
馬込勘解由屋敷跡 の説明版を見かけた。
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馬込勘解由屋敷跡
 「この地域には、大伝馬町の草分名主で、公用旅行者のための人馬の継立てなどを行う道中伝馬役を務めた馬込氏の屋敷がありました。
 馬込氏は、天正十八年(1590)に徳川家康の江戸入府に際して、高野新右衛門・小宮善右衛門らとともに駄馬人足を率いて出迎えたことにより、道中伝馬役を命ぜられて、後の呉服橋御門(千代田区丸の内1丁目)内の辺りに位置した宝田村に土地を与えられました。馬込氏の当主の多くは、代々「勘解由」の通称名を名乗っていました。
 慶長十一年(1606)江戸城拡張にともない、宝田村の住人たちが現在地付近に移転して、大伝馬町が起立しました。大伝馬町は、京橋にある南伝馬町と交代で道中の人馬の継立てを行い、江戸府内の継立てを務める小伝馬町と合わせて「三伝馬町」と呼ばれました。大伝馬町の伝馬役を務めた馬込氏は、大伝馬町二丁目北側新道の西角に屋敷を構え、同町の名主役を兼帯して苗字帯刀を許されていました。
 馬込氏の邸内奥には、宝田村の鎮守が勧請され、その御神体である恵比寿神像は徳川家康から拝領したと伝えられています。正月20日と10月20日には大伝馬町の大店で恵比寿講が盛大に行われ、その前日に開かれた市が、現在10月に開かれている「べったら市」につながっています。なお、馬込氏邸内の恵比寿神像は、江戸時代後期頃から現在の寶田恵比壽神社(日本橋本町3丁目10番11号)にまつられています。」
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東京都中央区日本橋大伝馬町3あたり。
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現在 説明版のあるあたり。
そこから日本橋本町4丁目をあるくと やはり古い民家がところどころに見られるが 目をひく建物があった。
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この真ん中の建物の2階に注目。東京都中央区日本橋本町4丁目−10あたり。
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昭和初期の重厚な雰囲気 がする白い柱のバルコニー。建築当時はおしゃれな洋風のベランダだったのでしょうね。
昭和通りを渡るととおりに面した「うなぎ割烹の大江戸」が目に入る。
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江戸時代から続く老舗だという。東京には江戸以来の鰻屋は数軒残っている。いいにおいがしていました。
日本橋本町四丁目7。
うなぎ割烹大江戸は創業 江戸寛政年間(1800年)初代草加屋吉兵衛が江戸の地に店を構え、以来営々と代々受け継がれているとのこと。
店舗は関東大震災後に建てられた昭和初期の建物で、約70年を経ているそうです。
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2013年01月13日

十思スクエア(旧中央区立十思小学校)

東京メトロ日比谷線 小伝馬町駅すぐに 十思スクエアがある。
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東京都選定歴史建造物
中央区十思スクエア(旧中央区立十思小学校)
所在地    中央区日本橋小伝馬町 5番1号
建 物    建設年 昭和 3 (1928)
設計者   設計:東京市
施工       鴻池組
構造・規模  RC造 3階
概 要     関東大震災ののちに建築された復興小学校の一校。角地を利用した正面玄関は曲線で構成され、1階と3階にはアーチ型の意匠が用いられている。
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旧十思小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。
平成2年3月で東華小学校と合併して日本橋小学校になり、廃校になった。十思スクエアになるまでは区役所の出張所。現在は、改修・整備され、福祉関係の複合施設として再利用されている。

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震災復興期につくられた装飾性の強い小学校建築の代表作。
表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。
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「旧十思小学校は明治11年に十思学校として開校しました。“十思”という名称は、開校当時の住所であった旧伝馬上町が第一大区第一中学区第十四小区に属する、つまり十四小区の学校であることからと、資治通鑑の「十思之疏」の十思の語と音が通じるところから「十思小学校」と名づけられました。この「十思之疏」は人の主となる者の守らなければならない大道であって、申し分のない枚処世訓であり、十思小学校の校風にも反映されていていました。 中央区」
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隣接する公園は、震災復興期に同時に計画され 地域のつながりを重視している。
ぐるりと一回りしたが 工事用フェンスで覆われていて全体がみえなかった。
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かろうじてみえた 教室部分。体育館は解体されていた。
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中央区は、十思スクエア敷地内の体育館とプ−ルを解体し、その跡地に整備する小規模特別養護老人ホームなど複合施設建設事業で、14年6月末完成、9月に開設を予定している。
復興小学校
1923年に発生した関東大震災により、東京市立小学校は大きな被害を受けた。全195校のうち無傷で残ったものは2校にすぎず、約2/3が倒壊・焼失した。復興事業にあたり東京市は、不燃化構造とするため鉄筋コンクリート建築を採用した。また、52の学校では、公園を併設するなどの試みも行われている。これは都市計画の中に小学校を位置づけて災害時の避難所としても使えるようにしたものである。
現存し使用中の建物も多く残っていて 重要文化財相当となっているものもある。

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2013年01月12日

山梨中央銀行東京支店/近三ビル

丸石ビルのある中央通りの反対側には山梨中央銀行東京支店が見える。
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山梨中央銀行東京支店
旧第十銀行東京支店 1931(昭和6)年
設計 : 徳永庸
施工 : 不明
鉄筋コンクリート造り3階建て
東京都千代田区鍛冶町1-6-10
設計は早稲田大学建築科を出て、佐藤功一建築事務所にいた徳永庸。有名な佐賀の徴古館は佐藤功一建築事務所時代の作品です。
戦後にはいくつかの銀行建築を手掛けました。
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いかにも戦前の銀行という建築です。千代田区の景観まちづくり重要物件に指定(第34号;2003年)されています。
【千代田区景観まちづくり重要物件】
 明治7(1874)年に開業した「興益社」が前身で、その後、明治10年に我が国9番目の国立銀行「第十国立銀行」となり、明治30年に私立「第十銀行」となり、昭和16年に「第十」「有信」の2銀行が合併し「山梨中央銀行」が誕生して現在に至っています。
 現在の建物は昭和4年に竣工。

中央通りを 三越前駅のほうに少し戻り 新日本橋駅 江戸通りを右折すると 近三(きんさん)ビルがあります。
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一見他のオフィスビルと変わらず 普通のビルに見えます。
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都歴史的建造物選定されているビルです。その説明版があります。
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東京都選定歴史的建造物
近三ビル 
旧森五商店東京支店ビル
所在地    中央区日本橋室町 四丁目1番21号
JR総武線新日本橋駅から徒歩1分


建 物    建設年 昭和 6 (1931)
設計者   村野藤吾
構造・規模  RC造 8階(1)
概 要     当時の日本における先駆的作品。

「呉服問屋・森五商店の社屋として創られた。文化勲章を受章した建築家・村野藤吾(1891〜1984)が渡辺節建築事務所から独立後はじめて手がけた作品。大阪御堂筋の大阪ガスビルと並ぶ昭和初期の日本を代表するオフィスビル建築である。
 装飾に頼るのではなく、立体全体と窓の比例、外壁の平面性を強調する黒褐色のタイル、精妙なディテールを表現のテーマとしており、当時の最新の美意識と村野の優れた芸術的センスが統合されいる。細やかな心づかいはインテリアにも見られ、ドイツ製ガラスモザイクを用いた天井や大理石張りの壁で構成された1階玄関ホールは特に注目される。8階は昭和30年の増築である。」
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「近三」の名は、本業だった呉服屋の屋号「近江屋三左衛門」に由来している。
外壁タイルは、呉服にちなんだ黒褐色を表現するため、四種類に分けて塩焼きされている。
装飾のない壁面と規則正しい窓の配列、屋根のひさしには、くぼんだ装飾が施され、水のしたたりで壁が汚れないように配慮されている。
一階店舗とビルの玄関は地面と段差がない。今ならバリアフリーという感じです。
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玄関ホールの天井にちりばめられたガラスのモザイクは 歩道からも少し見える。オレンジ、ピンク、赤、黄などのモザイクタイルです。
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中に入ってじっくり見てみたい誘惑にかられる。
築後七十年以上の間に五度改修されたが、現社長の父・郁二会長(96)が村野のデザインを残すよう言い残したらしいです。
玄関のバリアフリーもそうですが 空調設備を改修した際、ダクトやパイプを天井裏などに隠せたのは村野の先を見据えた元の設計のおかげだそうです。
 竣工当時は地上7階−地下1階だったが、1956、60年の改修を経て、地上8階−地下1階の延べ約7800平方メートルとなった。8階は昭和30年の増築である。
着工から改修まで、一貫して竹中工務店が担当。名建築を残し伝えていく使命感が見られました。

反対側をみると 面白いビルが目に入った。文化財的なものではありませんがペンシルビル。
その外観が面白いのでパチリと写しました。
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新日本橋駅 駒井ビル
東京都中央区日本橋室町3-2-9
1991年築 ヨーロッパ風の外観が目を引く。
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お江戸日本橋は 新旧面白いビルがあって楽しいです。

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2013年01月11日

丸石ビルディング(旧太洋商会ビルディング)

一度は見てみたいと思っていた旧太洋商会ビルディング に行きました。
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丸石ビルディング
旧太洋商会ビルディング 
1931(昭和6)年 / 1933年(昭和8年)増築
国・登録有形文化財
設計 : 山下寿郎
施工 : 竹中工務店
東京都千代田区鍛冶町1-10-4 神田駅東口・南口から徒歩3分
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通りからほんの少し入るので見逃してしまうこともあろうかと思います。
しかし その少し入ったというところが また良き雰囲気で このビルをみると装飾が多く、ヨーロッパの街中のような感じがしました。
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1階外壁は石材を使用し、2階以上をスクラッチタイル貼りです。1階外周を巡るアーチと随所に施された動植物像やレリーフなどの装飾が特徴です。6階胴蛇腹と頂部のテラコッタ製蛇腹で変化を与えています。
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設計は山下寿郎建築事務所。設計者の山下寿郎氏は、日本最初の超高層ビル"霞が関ビルディングの設計者としても知られています。
1階部分の大きな開口部にはアーチが並び、玄関脇に2頭のライオンが出迎えます。
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ライオンの足下
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近世ロマネスク様式。2頭のライオンは三越のライオン像をしのぐ。
アーチや柱の造形は 日銀や三井本館に劣らず。
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柱の上の装飾は魔よけのような感じです。
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動物や植物の装飾も多いです。
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玄関ドアには菊のような装飾が・・・
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大洋商会と言う会社が建てたビルですが、丸石の名前は姉妹会社の丸石自転車から来ています。
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ビルの裏側です。
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このビルは傑作です。中に入ってみたいです。さぞかし豪華なつくりなのでしょうね。
中央区との区境、旧龍閑川沿いに建っています。三越前駅から中央通りを神田方向へ数分です。

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2013年01月10日

ハリオグラスビル(旧川崎貯蓄銀行富沢町支店)

人形町に気になる近代建築ビルがあるので行ってきた。
ハリオグラスビル(旧常陽銀行富沢町支店)
(その前は川崎貯蓄銀行富沢町支店)
東京都中央区富沢町9−3 ※地下鉄人形町下車歩7〜8分
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最初は川崎貯蓄銀行富沢町支店として建設され、常陽銀行東京支店、同行堀留支店として使われるものの銀行店舗は閉店。しばらく使われない時間を過ごしたようですが、 2000年、同社が創業80周年記念事業の一環として、本社をこの建物 に移転したようです。
また、登録有形文化財にも認定されています。
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設計:不詳
施工:不詳
竣工:昭和7(1932)年ころ
構造:鉄筋コンクリート造り3階建て
国指定登録有形文化財 
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外観は見事なまでに古典主義建築の様式が貫かれており コリント式オーダーを持つ近代銀行建築です。
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竣工当時そのままの外観を保っているのは驚きです。
中に入って見学してみたい気がします。
この界隈はいくつかこういう近代建築遺産が残っています。
少しぶらぶら歩いてみました。
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2013年01月09日

川並の像(木場親水公園)

木場親水公園 高速道路直下に筏を操る「川並」の 銅像がある。
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上野弘道・作の彫刻 『 川並 』 。川並と言うと一般的には「川の佇まい」を意味するが、ここ木場では筏(いかだ)を操っている鳶職人のことをいう。すなわち川並鳶のことを指している。
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その像のすぐ前は 木場2丁目公園。
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所在地 江東区木場2-11 (区立木場二丁目公園)
この付近は七代目市川団十郎宅跡です。
「 市川団十郎家は、四代目が木場の島田町(木場2)に別荘を建てて以来、木場と縁が深く、「歌舞伎十八番」を制定した七代目(白猿)もこの地に住んだ。 木場2−11ー13 付近 」
七代目 市川 團十郎(しちだいめ いちかわ だんじゅうろう、寛政3年(1791年) - 安政6年3月23日(1859年4月25日))は化政期から天保にかけて活躍した江戸の歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。
天保改革の風俗取締政策により、江戸十里四方追放という処罰を受け、成田山蟄居を余儀なくされたり、長男八代目團十郎の自殺という悲運に見舞われるなど、決して平穏な人生ではありませんでした。
ここからすぐが永代通り。
永代通りに出ると トーテム・ポールがある。
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所在地 東京都江東区木場2-18先(舟木橋第二)

       トーテム・ポール(TOTEMPOLE)
「 トーテム・ポールは、カナダ北西岸に住む原住民がトーテム崇拝(totemism)の対象としてきたもので、その造形は、芸術的にも高く評価されています。
 ここに立てられたトーテム・ポールは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州(State of British Columbia)林産審議会(Forest Products Council)から江東区との友好親善と両国の木材産業発展のシンボルとして、1984年4月にカナディアン・シーダー・クラブ(Canadian Cedar Club)を通じて江東区に寄贈された3本のうちの1本で、他の2本は新木場駅前、仙台堀川公園に立てられています。

                   江東区」
東西線木場駅3番出口のすぐそばです。

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2013年01月08日

木場親水公園

葛西橋通り 要橋から木場親水公園に入る。それだけで 通りの喧噪がうそみたいになくなる。
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「木場の風景」をテーマによく整備されており、各地にある親水公園とはひと味もふた味も違う「演出」がなされている。
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全長0.9km、面積1.9ha 。地下鉄東西線木場駅の北西、徒歩2分。北の仙台堀川まで延びている。
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途中には木製の太鼓橋や岸辺の燈籠、和船、船着場。石積みの掘割などがある。
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絵巻のモニュメント 歩道のタイルなど江戸情緒を感じさせる木場の面影を再現しています。
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コンクリート製ですが 木材のモニュメントです。
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木場 川並の様子を描いた レリーフもあります。
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桜の名所だからか こんなタイルも見られます。
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私なんか 桜吹雪の遠山の金さんをイメージしてしまいました。
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この江戸情緒漂う塀の向こうは 木場繁栄稲荷です。
「材木の町」であった木場をしのばせる公園で 江戸の昔にタイムスリップしたような雰囲気が漂います。
親水公園脇には 筏を操る川並の像があります。
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2013年01月07日

砂町運河跡

仙台堀川公園を歩いていると 砂町運河跡という説明版を見つけた。
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所在地 江東区南砂1-1〜北砂6-19 (仙台堀川公園)

  砂町運河跡
 「区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かつて砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。
 砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正8年(1919)に東京運河河土地株式会社が創立されました。大正11年(1922)に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7-19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和8年(1933)までに完成しました。
昭和23年(1948)、東京都に移管された砂町川と名勝を改め、昭和40年(1965)、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。 
 昭和30年(1955)ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和55年(1980)に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。
 平成10年(1998)3月 江東区教育委員会」
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正面は福島橋と書いてあります。その名残の橋柱が公園内に置かれていました。
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旧福島橋
仙台堀川公園内水路(暗渠)
昭和24年(1949) 長40.1m、幅4.5m 4径間鋼製桁橋
昭和34年(1959) 長40.4m、幅8.0m 4径間鋼製桁橋(全面改修)
昭和57年(1982) 仙台堀川の埋立事業(公園化)により撤去
東、西側は仙台堀川公園
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仙台堀川公園は いくつもの通りをくぐっています。
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仙台堀川公園は区内を流れている仙台堀川の多く部分を埋め立てて造られた親水公園で、総延長は3700メートルになり、都内最大の規模を持つ親水公園である。
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桜並木のきれいなところですが 昨日は寒くて霜柱や氷がありました。

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2013年01月06日

旧大石家住宅

今日 前から気になっていた旧大石家住宅に行ってきた。仙台堀川親水公園にあります。
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正月の飾りつけがしてありました。
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江戸時代に建てられた江東区内最古の民家建築。
江東区の有形文化財に指定されているこちらでは、1850年頃に建てられた民家を保存し当時の暮らしぶりを展示しています。今から160年前の雰囲気を残す屋内は土日に見学可能。当時、大石家の生業は農業と漁業だったそうです。
半農半漁。
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所在地 江東区南砂5-24 (仙台堀川公園)

江東区指定有形文化財(建造物)
 旧大石家住宅
     平成6年(1994)3月指定

 「旧大石家住宅は、平入り寄棟造りで、木造茅葺きの区内最古の民家です。規模は、梁桁が三間半、桁行が五間半です。江戸時代後期、舟入川(四十丁川)南端の掘留に面して建てられた、半農半漁の典型的な住宅建築です。
 大石家の伝えによれば、安政2年(1855)の大地震でも倒壊しなかったといわれています。その後も大正6年(1917)の大津波、関東大震災、戦災をまぬがれました。戦後増改築がおこなわれましたが、基本的な構造に変化はありません。
 区内で戦後取り壊しを行っていない木造茅葺きの民家は、旧大石家住宅が唯一の例であり、江戸時代の関東南部ないしは江戸近郊農村における農家の母屋の姿を残す、たいへん貴重な住宅といえます。その文化的・歴史的価値を守り伝えるため、平成6年(1994)3月に区の有形文化財(建造物)に指定するととものい、解体工事を行い、平成8年(1996)9月、当地に移築復元しました。
 平成8年(1996)9月 江東区教育委員会」
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「安政の大地震」(安政2年、1855)でも倒れなかったという言い伝えや、信仰の証として残された150枚以上もの成田山の御札は、築後150年以上もの長い時間が経過したことを物語っています。安政の大地震のみならず、関東大震災、戦災、あるいは繰り返し発生した水害など、数多くの災害をくぐりぬけ、大石家の暮らしを支えてきました。広く造られた屋根裏は、水害時の緊急避難場所で、水が引くまでの数日間、家族が生活する場として使われました。
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江戸時代は二階が許可されなかったそうですが この大石家には床張りの屋根裏部屋があります。はしごで上り下りします。万一のときの備えだそうです。
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そのため囲炉裏は真ん中ではなく 入り口にあります。2階があるため煙の逃げ場がないので換気のため入り口にあるそうです。
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大石家では、砂村前面に広がる干潟の海で海苔養殖を手がけていました。養殖は、漁業権の放棄により、昭和30年代中ころで終わりましたが、実際に使用された道具が残されており、この辺りに多く見られた海苔生産者の暮らしぶりの一端を伝えています。
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土間には海苔養殖の道具などが展示されていました。
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建築当初の姿を現在に伝える旧大石家住宅は、文化的・歴史的価値を守り伝えるため、平成6年3月に江東区の指定有形文化財(建造物)となり、解体調査を経て、平成8年、仙台堀川公園内ふれあいの森に移築復元されました。
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旧大石家住宅所在地:東京都江東区南砂5-24地先 (仙台堀川公園内)
営業時間:10:00〜16:00 休館日:月曜日〜金曜日、年末年始(12月27日〜1月5日)

posted by うめのはな at 14:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2013年01月05日

木場散歩・鶴歩町跡

木場公園界隈を少し散歩した。
葛西橋通りのビルの敷地内に小さな赤い鳥居を見つけた。
鶴歩稲荷大明神 東京都江東区木場3-9-2
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小祠である。大切に守られているという感じです。
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このあたりは鶴歩町跡(かくほちょうあと)と言う。木場3丁目1〜14番の一帯は平野新田の一部だった。
開発者の平野甚四郎が隠居して鶴歩と号していたところから、享保十四年(1729)から呼ばれるようになった。
平野新田の土地は、元禄十一年(1698)に町人持ちから幕府雇用地となり、大名屋敷となったが、湿地帯のために建物が建てられず、宝永六年(1709)と享保七年(1717)に分けて、甚四郎へ預地となった。甚四郎は享保七年(1722)に伊奈半左衛門へ願い出て新田開発を行い、自分の姓を以て新田名とした。同十一年(1726)に検地を受け、6町3反1畝24歩のところ、土手や掘割などを差引き4町9反3畝3歩とし、反当たり永32文づつを上納していた。その後全面積に対して100文を納めることに緩和された。
鶴歩町の名残として大横川(平久川)に鶴歩橋と名付けられたトラス鋼橋が架かかっている。
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鶴歩橋 かくほばし
木場から冬木町にかかる鶴歩橋は、やはりこのあたり(木場1,2丁目あたりで昭和6年まで島田町、入船町、鶴歩町と呼ばれていた)を埋め立て開発した平野甚四郎忠重の俳号鶴歩からつけられた。
○近辺を埋立、開発した平野甚四郎忠重の俳号「鶴歩」が橋名となった。
○昭和3年(1928) 長40.1m、幅11.0m 1径間鋼製トラス橋 震災復興橋梁
現橋架設年 昭和57年(1982)小改修
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平野新田銭というのがある。
親水公園の遊歩道に寛永通宝のプレートがあるのを見つけた。
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平野新田銭
元文4年 江戸深川平野新田において鋳造した寛永通宝銅・鉄銭。
鶴歩稲荷大明神も当時の鶴歩町の守り神だったのでしょうか・・・
稲荷神:五穀豊穣の神 ご利益: 商売繁盛
ふと 葛西橋通りの反対側を見れば ビルの前に おおきな大黒様の像があるのを見つけた。
これは新しいものでしょうが なんとなく面白くて写真に撮りました。
なぜ 置いてあるのかは不明ですが 商売繁盛祈願なのでしょうね。
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江戸深川 木場というのはなかなか粋で面白い町です。
少し戻り 仙台堀川公園の入り口に行きました。
千石地蔵尊があります。
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所在地 江東区千石1-6 (仙台堀川公園)

 千石地蔵尊
 「昭和20年(1945)3月10日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、堀割や路傍、学校などで、尊い瀬名が数多く奪われ殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。
 劫火に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた。杉岡桂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年5月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。
 この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工致しました。茲にみ霊のご冥福を祈り二度と無残な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。
 昭和62年(1987)3月10日 千石長寿会 会長 山岡英太郎」
戦災 震災 洪水の災害で多くの命が奪われたこの地には あちこちにこうした供養のための地蔵尊があります。

posted by うめのはな at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2013年01月04日

年明けスカイツリー

天気がいいので 散歩してきました。
年末年始と引きこもっていたので少々体が重くて トボトボという感じの歩きです。
本日の木場公園大橋とスカイツリーです。
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風が強くて気温も低く寒かったです。
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橋の上から見れば とてもよく見えます。
あのクレーンはなんだろうか・・・・何か高い建物が建てば 邪魔で見えなくなるかも・・と心配しました。
実は近くに住んでいるのにまだ上まで行ったことはありません。
混んでいるだろうし 値段も高いしで なんとなくその気にはなれません。
親戚でも上京してくれば 案内がてらいくかも知れませんが あんな高いところへ好き好んで行こうとは思いません。
眺めるだけでも なかなかいいものです。
posted by うめのはな at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年01月03日

清泉女子大学(3号館)品川区

旧島津公爵邸(清泉女子大学本館)東側に 赤レンガの建物がある。
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近くに行くと その建築の時代が見えてきた。
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こちらもジョサイア・コンドルによる設計との説明版がありました。
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赤煉瓦造りで 現在は事務所として使われているようでした。
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床下の換気口もおしゃれです。
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旧事務棟(現3号館)についても、設計施工は同時期と推察され、コンドルの邸宅以外の建物として貴重であることから東京都指定有形文化財(建造物)附(つけたり・指定物件の価値を補完するもの)とされている。
posted by うめのはな at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 品川区

2013年01月02日

旧島津公爵邸(清泉女子大学本館)6

2階の南側 公爵夫妻の寝室などは教室として使われていますので 室内の照明は蛍光灯になっていました。
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机が並び 黒板があり 当時の華やかさはありませんでしたが 暖炉や天井の装飾はそのまま残っていました。
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暖炉の枠は1階が大理石であるのに対して、2階は木製です。
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ベランダに出ることはできませんでした。居室からの眺めです。
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1階と同様の円弧状の窓のある夫人客室の暖炉だけが白い大理石製である。残念ながら黒板で見えなかったです。
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これは 大正天皇皇后の行幸啓時に眺めの良いこの部屋を便殿(休憩所)として使用する予定があったからではないかと推測されます。
北側にあった2室の男子 子供部屋は 真ん中のしきりを取り払い 大会議室となっていました。
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模様の異なる青いタイル張りの暖炉が残されていました。
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貝の模様など 4人の男子の部屋らしい装飾です。
華族の中でも最高位の公爵だった島津家の栄華が伺われる貴賓ある建物です。
コンドルが設計した華族最高位の邸宅です。
1915年の竣工から100年を迎えようとしています。
保存 維持は大変だと思いますがJ・コンドルの設計による数少ない現存住宅建築の遺作として、大切に残していって欲しいと思います。

次は 東京都指定有形文化財 附として指定された3号館を見ます。

posted by うめのはな at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 品川区