2013年02月28日

岩崎家玉川廟(岡本静嘉堂緑地内)世田谷区

カテゴリーは 歴史的建造物に変わりますが 前日までの世田谷区街歩きの続きになります。
民家園に隣り合わせて、静嘉堂緑地があります。旧小坂家住宅脇の馬坂の正面に門があります。
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岡本静嘉堂緑地、国分寺崖線の一画にあり、もとは岩崎家が所有する庭園であったものです。昭和20年頃までは庭園として維持管理がなされていましたが、その後、人の出入りもなく、ほぼ自然状態のままにあったため貴重な自然が残されています。
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岡本静嘉堂緑地には、 三菱財閥ゆかりの岩崎家玉川廟もあります。車でいくなだらかな坂道もあり静嘉堂文庫にいけますが、まずは 自然の残る山道のほうから入り岩崎家玉川廟に向かいます。
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急な木の階段を登ると霊廟の建立と同じ明治43年の銘が入った巨大な灯籠が一対あります。
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岩崎家廟堂案内(案内板)
「この奥にある青銅色のドームを戴く白亜の建物は、静嘉堂文庫を建設した岩崎彌之助の霊廟として建てられ、岩崎彌之助、小彌太をはじめ岩崎家代々の墓である。
明治四十三年三月、わが国西洋建築の始祖ともいうべきジョサイア・コンドルによって立てられた。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館なども設計している。
 青銅の扉に刻まれている中国二十四季のレリーフならびに全面の大香炉は岡崎 雪聲(おかざき せっせい)の作である。また、森の奥には、松方正義の文と書による男爵岩崎君墓碑がある。この霊廟は平成十一年四月東京都により歴史的建造物に選定された。平成二十四年九月 世田谷区教育委員会」
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岩崎家玉川廟 都・選定歴史的建造物

竣工 1910年(明治43年)
所在地 東京都世田谷区岡本2-23-1
岡本静嘉堂緑地内
設計 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)
構造 煉瓦造石積み平屋建て
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この霊廟は、 三菱財閥の二代目・岩崎弥之助(いわさき・やのすけ 1851-1908)が死去したとき、 岩崎家の納骨堂として弥之助の嫡男で、 四代目の岩崎小弥太(いわさき・こやた 1879-1945)によって建てられました。
ドームを中心にして、突起部が四方にある形。ギリシャ正教風十字プランといって、建物は上から見ると十字架になっている。
コンドルが実施設計を担当したニコライ堂が、これと同じ形式です。どこかでみたことがあると思ったらニコライ堂のミニチュアという感じです。
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青銅の扉に刻まれている中国二十四季のレリーフ装飾
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大香炉は岡崎 雪聲 作
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一対の狛犬が霊廟を守っている。
静嘉堂文庫が造られる前まではこの丘には岩崎家の玉川廟しかありませんでした。でも いくつかの灯篭や 庭石などもあって 一体これらはどういういわれのものでいつの時代のものなのか 知りたかったのですが何もわかりません。
平成天皇行幸の碑とお手植えの木だけはわかりました。
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岡本静嘉堂緑地には、 三菱財閥ゆかりの静嘉堂文庫もあります。
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ここを出ると 静嘉堂文庫です。そちらに向かいます。

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2013年02月27日

岡本公園民家園(世田谷区)

旧小坂家住宅を出て 馬坂を下ると静嘉堂緑地です。
隣り合わせて岡本民家園があります。隣り合わせてとは言っても高低差があってなかなか大変です。
まずは 民家園。
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静嘉堂緑地の崖線の途中に 岡本八幡神社があります。階段を見ただけで本殿に行く気力がなくなりましたので 鳥居だけ・・・
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昭和55年12月に開園した岡本公園民家園には、区の有形文化財第1号に指定された旧長崎家住宅主屋と土蔵1棟椀木(うでぎ)門を復元し、江戸時代後期の典型的な農家の屋敷環境を再現しています。
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旧横尾家住宅椀木門
大正13年に建てられた数寄屋風の門この門は民家や土蔵よりも時代が新しく、建築様式や趣旨が異なるため、裏門として配置されたようです。農家の門ではない。
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岡本公園民家園旧長崎家主屋
東京都世田谷区岡本2-19-1
「岡本民家園 萱葺きの家は、瀬田にあった旧長崎家住宅主屋・旧浦野家住宅土蔵を移築・復元したものである。古民家には、囲炉裏が切られ、ボランティアがの人たちが昔ながらの生活風景を再現し、また季節の行事等が行われてもいる。
世田谷区指定有形文化財第1号。延べ床面積約30坪の「喰(く)い違い四ツ間取り形式」と呼ばれる同建物は、「江戸時代中期18世紀末頃に建てられたと推定」され、「江戸時代の世田谷の農民や庶民の生活を体験できる施設」として復元されたもの。もともと同区瀬田2丁目にあった。「生きている古民家」をテーマに、囲炉裏には毎日火がたかれ、家の中や軒下には民具が置かれています。主屋内にも自由に入ることができ、民具などに触れることもできます。また、農村に伝わる行事等も行っており、昔ながらの生活や風習を体験することができます。世田谷区」
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農具が並んでいます。
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囲炉裏。
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旧浦野家住宅土蔵
土蔵は区指定有形民俗文化財に指定されていて、江戸時代末期に建てられたようです。
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ちょうど 大正時代と昭和初期のひな人形が展示されていた。
展示されるひな人形は大正時代(15体)と昭和初期(16体)のもの。
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それぞれ7段飾りに設置し、時代による男びなと女びなの並びや人形のサイズ、時代による男びなと女びなの並びや人形のサイズ、表情の違いが確認できる。25日からは、ひし餅、貝のお吸い物、ちらしずしなどのお供えをする。
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開園時間は9時30分〜16時30分。月曜定休(月曜が祝日の場合は翌日)。ひな飾りは3月3日まで。

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2013年02月26日

旧小坂家住宅(世田谷区)

旧小坂家住宅(別邸)は、木造和風平屋建(一部2階建)で、茅葺き風の古民家を思わせる外観を持っています。間取りは、南面して建つ主屋棟を中心に、西側に応接棟、東側に台所や浴室などの生活棟、南東側に渡り廊下を介して内倉、その奥に2階建の寝室棟を建てた雁行型の配置となっています。
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濡れ縁。庭園から登ってくるとこのあたりからも出入りできるようになっています。
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玄関右手が茶室がになり、昭和20年東京空襲を案じて日本画家の横山大観夫妻が池之端の本宅から、小坂家の茶室に移り住まわれていた時期があったそうです。
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茶室前の水屋です。茶の用意をするために設けられたもので 普段は扉が閉めてあるので普通の棚に見えます。本格的な造りです。
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7.5畳の書斎。床は寄木のフローリング。マントルピースが北側にありその上に大きな飾り棚があります。
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書斎天井は山小屋風の丸太が使われ壁もなた削りという荒々しい模様がみられます。
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寝室に向かう廊下には二階建ての内倉があります。防火金庫の役目で扉は鉄製の防火扉。
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寝室の手前に 奥様の着替え部屋がありますが これは今で言う ウォークインクローゼット。
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ちゃんとワードロープもあります。
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階段は二階の令息室への階段。
ハイカラ好きだったようで 当時には珍しいGEの冷蔵庫もありました。
洗面室は石の研ぎ出し流し。
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サンルームの椅子は 金華山織です、この部屋から正面に富士山が見えるそうです。
どの部屋からでも冨士山が見える設計で現在も晴れた日には見えるとのこと。
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書棚の扉も凝っています。
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寝室のシャンデリアと中心飾りや天井の漆喰。
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寝室は約9畳の洋室でマントルピースがある。
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昭和の家電製品、ビクターのステレオ も残されています。
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各部屋の壁には押しボタンの呼び鈴があり女中部屋と繋がっています。
述べ床面積:1階 331.5m2 2階 46.0m2
敷地面積:9466.25m2
敷地も含めて、現在の管理は世田谷トラスト(HPに間取り図あり)によって管理がなされいて見学ができます。
開園時間 9:30〜16:30
 休演日   毎週月曜日(月曜が祝日の時は翌日)
 入園料   無料 
事前に予約したわけでもないのに とても丁寧に案内していただきました。

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2013年02月25日

旧小坂家住宅・雛飾り(世田谷区)

武家屋敷門から 少し戻ると瀬田四丁目広場の旧小坂家住宅です。このあたりは丸子川からの傾斜地(国分寺崖線沿い)に位置しかっての財界人や華族の別邸が数多く建てられていましたがら現存するのは、瀬田四丁目広場の旧小坂家住宅のみとなってしまいました。 
国分寺崖線を上手く使った斜面をうまく利用しています。 3000坪の敷地に竹林・多くの樹木・湧水と自然が残り、この敷地の最上部の見晴らしの良いところに住宅が建っています。
平成11年11月に世田谷区の有形文化財に指定され、「瀬田四丁目広場」として公開しています。
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表門
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旧小坂家住宅世田谷区指定有形文化財(建造物)   
世田谷区瀬田四丁目四十一番
所 有 者  世田谷区
昭和12年7月起工、昭和12年10月上棟、昭和13年9月竣工
面積:9,466.25u
旧小坂家住宅は、信濃銀行取締役、信濃毎日新聞社長で、後に貴族院議員、枢密顧問官を務めた小坂順造(1881年〜1960年)が、昭和12年に別邸として建てた屋敷で、戦時中は 日本画家の横山大観も空襲を避けるため、樹林地の中にあった茶室に一時期移り住んでいました。

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中門(腕木門)
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中門を入ると、この道標があります。是より山道」
この道標は区内野沢の個人宅にあったものを世田谷区が譲り受けたもので、旧所有者が長野の石屋ぁら購入したもののようです。たしかに是より下が 崖線の斜面地です。
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玄関
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庭から見た主屋
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玄関の天井は古民家風。
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ちょうど居間には 雛飾りがありました。
床の間と書院がついている12畳半の和室です。
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茶の間境は桐の1枚板に「五三の桐」模様を刻んだ欄間。
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入側のつるし雛。使用されている縁桁は10.6mもある京都北山杉の磨き丸太。
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昭和12年10月2日上棟、清水組と書かれています。
お雛様をみたあとにボランティアの方と各部屋を廻ります。
国分寺崖線
「立川面と武蔵野面とは国分寺崖線(こくぶんじがいせん)によって分けられている。国分寺崖線は武蔵村山市緑が丘付近に始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅付近を通り、JR中央線を国立駅の東側で横切り、国分寺市・小金井市と国立市・府中市の市境に沿って東に進む。さらに野川の北に沿いながら調布市に入って深大寺付近を通り、つつじヶ丘などの舌状台地を作りながら世田谷区の砧地域、玉川地域南部を通り、大田区の田園調布を経て同区の嶺町付近に至る。世田谷区の等々力渓谷は国分寺崖線の一部である。高低差は20メートル近くになる。」

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2013年02月24日

武家屋敷門(世田谷区岡本)

馬坂とは 静嘉堂緑地の正門前から北西に上る坂道です。 (国分寺崖線の坂) 世田谷区瀬田4丁目と岡本1丁目の間 の坂それまでの坂道があまりにも勾配が急なため、人は上り下りできても馬はどうすることもできなかったことから 新たに勾配の弱い道をつく、馬も楽に往復出来るようにしたのでこの名がついたそうです。
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馬坂沿いの旧小坂家屋敷地は、坂の傾斜に合わせて大谷石を積んで築かれた外構に囲まれています。当時のままだそうです。
馬坂を上がると右側には「瀬田四丁目広場(旧小坂邸)」があります。
その少し先 多摩川テラスという集合住宅が3棟あります。多摩川テラスは鮎川義介氏の邸宅跡地となります。そこには、彼が移築し邸宅の門とした「武家屋敷門」が残されています。(角に石標があります。)
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武家屋敷門(岡本1丁目)
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伊木家武家屋敷門 世田谷区指定有形文化財
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門前に掲げられていた掲示には次のように書かれている。
世田谷区指定有形文化財(建造物)「武家屋敷門

所在地:世田谷区岡本1−3 多摩川テラス敷地内
指 定:昭和54年10月25日
建築形式:一重 切妻造 本瓦葺 背面一間下屋付
規 模:桁行69尺(20.9メートル):梁間22.4尺(6.79メートル)
 「この武家屋敷門は、元岡山藩池田家筆頭家老を代々勤めた、伊木家の下屋敷の表門であった。この下屋敷は、荒手屋敷とも呼ばれ、後楽園の下手の中州にあった。屋敷内には茶室も多く、十四代伊木忠澄は三猿斉と称し、茶人としても名高い。
 昭和12年、河川改修工事のため水没する屋敷地内の門及び茶室を、鮎川義介氏が譲り受け、千代田区紀尾井町の自宅内に移築した。その後、昭和38年屋敷を現在地に移し、その表門として使用されていたが、昭和53年多摩川テラス建設にあたり、場所を移動して復元保存された。
 門の形式は長屋門で、屋根を切妻造、本河原葺とし、外壁は腰が海鼠壁で、他は漆喰の塗壁造りとなっている。間取りは、向かって右手が番所、左手が納戸部屋となっており、番所は正面に出格子、門扉に向かっては与力窓がそれぞれ付き、格式の高さを示す。
 中央には両開きの扉が入り、また、向かって右手にには片開き戸(潜り戸)、左手は板壁となっている。両開扉の親柱の柱間寸法は10.05尺(3.05メートル)、材質はは杉材、親柱及び冠木・出桁はいずれも松材が使用されている。門扉には吊り元に八双金物饅頭金物、菱形の釘隠しも付けられている。

 建築年代は不詳であるが、部材の風触、各部の仕様、下屋敷の造営史等から、江戸時代中期(18世紀末期)頃と推定される。当門は、大藩の家老屋敷の表門としての格式を示す遺構とし貴重である。昭和59年3月・世田谷区教育委員会」
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長屋門。(住居になっている)
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現在岡山の伊木家本邸にも同等の武家屋敷門が現存するそうです。
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「武家屋敷門」の所有者は「テラス管理組合」と書いてあったので、居住者全員の共有財産なのでしょうか・・・
鮎川義介氏
1880年〈明治13年〉11月6日 〜1967年〈昭和42年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者。

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2013年02月23日

歴史と文化の散歩道(世田谷玉川)

砧線跡から離れても遊歩道は続きます。
高級住宅街らしい凝った大きな家並みが続きます。
このあたりの遊歩道は 歴史と文化の散歩道だそうです。
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谷川(やがわ)

「谷川は、かってここより北に流れる谷戸川下流部であったのが、丸子川(六郷用水)の開削により立て切られたものと言われています。大蔵田園と呼ばれた広い水田を潤してきた谷川の細い流れも、街の様子の変化とともにその使命を追え、やむなく姿を消しました。この遊歩道は埋め立てられた谷川の路地です。今も谷川は、地面の下で下水道に姿を変えて生きています。」
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億ションと言われる高級マンションがありその前にはめ込まれていた石材です。
ここは 「幽篁堂庭園」という有名な庭園の跡。当時の面影を残す樹木がマンションを囲み石垣があり 大きな庭石なども見られます。
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幽篁堂(ゆうこうどう)庭園は、昭和初期につくられた池泉廻遊式庭園で、文化的遺産としても高く評価された名園でした。
当時は、岩手石の塀に囲まれた中に、京風の庭園があり、竜神様が夜な夜な水を呑む音になぞられて池を作り、竜頭を形作る庭石を添えて鱗に小石を配するなど贅をつくした庭園だったそうです。
幽篁堂庭園は、骨董屋を営んでいた本山豐實氏が昭和初期に田圃地を借り上げ築造しました。その後数度にわたり所有者が変わりながら、企業の迎賓館建設や作庭が行われた。庭園内には、他から移築した和風建築物が配されていたそうです。添景として多数の石造物が所在したが、平成十三年に庭園が廃止された際、石造物の多くは他に引き取られた。しかし マンションの周りが遊歩道になりに木々や石類などがいくつか残されています。散策路として公開され自由に通行できます。
散策路で見つけた石標です。
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この石標、万葉仮名でゑのしま道と刻まれている様に見える。
左右の側面にはそれぞれ“一切衆生”、“二世安楽”と刻まれている。
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これと同じものが江ノ島にもある。藤沢市の解説板には、「江の島弁財天道標」とあり、江戸時代初期の管鍼術師・杉山検校が寄進したものとある。江戸時代、藤沢宿から江の島へ参詣する人々が歩いた江の島道。この道の岐路に道しるべとして立てられた道標で、藤沢宿から江ノ島までの約四キロの道に寄進により四十八基が建てられたという。十一基が現存し、いずれも藤沢市の指定重要文化財だそうですが なぜそれがこの地にあるのか・・・・。藤沢市が玉川のものを調査をし、大きさ形が藤沢市内で発見されたものとほぼ同じで、書面も刻まれていていたことから、江の島道標に間違いないとされた。いつ誰が この地に持ち込んだのかは謎だそうです。

そこからまもなく 下山橋の交差点になる。
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説明板や写真などがあります。
丸子川親水公園
「ここから、西約900mにある仙川の水神橋際にはじまる丸子川は、国分寺崖線に沿って大田区へと流れています。丸子川は、江戸時代初期に、小泉次太夫と多くの農民の手により、開削された六郷用水の一部で、世田谷では俗に「次太夫堀」とも呼ばれてきました。丸子親水公園は、水神橋から下山橋までの区間で、水辺の遊歩道に沿って岡本公園民家園や静嘉掌緑地が続きます。」
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橋を渡ると旧小坂邸の裏門があります。旧小坂邸の 敷地は国分寺崖線上の縁辺部にあり、敷地の約半分は斜面地となっています。国分寺崖線の姿をよく残し、湧水も見られ、自然と建物が一体となった緑地空間を形成しています。
裏門を入るとすぐ 庚申塔がありました。
案内板によると、二基ある庚申塔はもともと、ここから近い玉川四丁目の幽篁堂庭園というところにあったそうだ。庭園が平成十三年(2001)に廃止された際、世田谷区に寄贈されたので、ここに置かれたとのことです。
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笠のある一基には青面金剛と三匹の猿が彫られている。もう一基には一体の猿が大きく彫られている。
ここから 屋敷までは 竹林から崖線を上る道。とても登れそうも無くて諦めて 坂上から入ることにし 馬坂にまわりました。

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2013年02月22日

二子玉川〜玉川電鉄砧線跡(世田谷区)

二子玉川駅を出ると目の前は玉川高島屋。
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まずは昼食をというわけで 高島屋内のカフェに入る。
フランスの高級食料品店「フォション」のお店Cafe de FAUCHON のランチを注文。
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キッシュとクラブハウスサンド。サラダと珈琲か紅茶がついて 2100円。
薫り高いフレーバーティが選べて ポットの美味しい紅茶を楽しめます。
まったりと紅茶を楽しみ 美味しい昼食を終えていざ砧線跡へと向かいました。
二子玉川商店街を通ります。
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しばらくして右折し 砧線跡の遊歩道に入ります。
道路と平行に走っていますが 歩道の部分が、線路のあった場所です。
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歩道には 砧線のイラストがあります。
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「砧線軌道跡」彫像
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 路面電車用のレールを使って作ったガードレールとベンチ。
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歩道に、線路の模様が続きます。
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きしべの道、砧線跡遊歩道の標識。
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古い写真と地図と説明書きがあります。
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「砧線」は、東急電鉄の軌道線「玉川線」の支線として1924年(大正13年)3月に開通した、わずか2.2kmの単線路線。砂利の運搬を目的として誕生し、その後住民の足となって、玉川線が廃線となる1969年(昭和44年)5月まで、45年間にわたって活躍しました。
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東急玉川線の支線であった砧線は、1924年に開通。二子玉川園から砧本村まで単線で途中、中耕地・吉沢・大蔵の3駅があり終点砧本村まで2.2キロの行程でした。1969年に廃止。
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遊歩道途中にコンクリート工場などもありました。
砧線跡遊歩道は最後まで歩かず 途中で右に曲がり離れました。
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2013年02月21日

旧成瀬証券(近代建築)

山二証券に隣接して建っています。以前は正面玄関上に「成瀬証券」という金色のネームが掲げられていました。現在はシンガポールの財閥系証券会社「フィリップ証券」と商号を変えています。
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旧成瀬証券 1935(昭和10)年
設計 : 西村好時
施工 : 清水組
東京都中央区日本橋兜町4-2
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正面ファサードは左右対称を基調にしたもので、白い石の飾り柱に挟まれた、黒い窓部がありシンプルです。
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正面入口にはレトロ感を漂わす外灯があります。
鉄筋コンクリート造り、3階建てで 全体的には現代的な印象ですが昭和10年竣工です。
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建物全体は御影石を積み重ねた重厚感のあるどっしりとした造りです。

レトロな建物がだんだん少なくなる兜町ですが 永代通りの兜町バス停前にひときわ目を引く建物があります。
光世証券 兜町ビル 東京都中央区日本橋兜町9-9
設計 : 永田・北野建築研究所
竣工 : 1999年
用途 : オフィスビル
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新しいビルですが 細長く段々になっている外観で、外壁にはレンガを用いています。頂上には時計塔があります。
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入り口には細かい装飾が施されています。
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外壁のレンガも凸凹に取り付けてありディテールがすばらしいです。コンクリートの塊のようなビルが多いのでとても目立ちます。後世に残る建物になって欲しいです。
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2013年02月20日

山二証券(近代建築)

東京証券取引所(東証アローズ)の西側 見学者受付がある角にレトロな建物が2つ並んでいる。
この界隈には多くの証券会社が集中していますが 戦前の建物ということでこの二つの建物は貴重なものです。
山二証券旧成瀬証券の建物は どちらも同じ設計者(西村好時)だそうです。
角地にある 山二証券の建物から見て行きます。
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山二証券 東京都中央区日本橋兜町4-1
旧山二片岡商店 1920年代(大正末期)
設計 : 西村好時
施工 : 清水組
鉄筋コンクリート造4階建て
西村好時は第一銀行の営繕部に長い間籍を置き、この当時の銀行建築の第一人者でした
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外壁は、1階部分が石貼り、上層部はタイル貼りの仕上げ。屋根はスペイン瓦を用い、煙突があり、丸窓や飾りのあるアーチ窓を部分的に配したスパニッシュで。鉄筋コンクリート造り、見る方向によって3階建て、又は2階建てに見えますが奥にもう1階あるので実は4階建てという建物です。
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1階は石造りで2階から上はタイル貼りになっています。
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丸窓にアーチ窓。凝った装飾がされています。
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建物全体を覆う屋根瓦は適度な傾斜をもち ヨーロッパの旧市街の建物の様です。
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北側の出入り口にも装飾があります。
兜町の周囲の高層のビルの谷間に昭和初期の 古き時代を思い起こさせる建物があり 現在もきちんと営業をしているということに感激しました。
そのお隣もまた 同じ時期に作られた建物です。
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2013年02月19日

兜神社(中央区日本橋)

兜町の日証館のすぐとなり、首都高速道路の高架下で、見落としがちな場所に (そこだけ木立があります)兜神社があります。
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兜神社  中央区日本橋兜町1-8
兜町」は平将門の兜を埋めて塚にした所を兜山と云ったところから由来しているという。その地に祀られたのが兜神社である。兜神社の縁起は平將門の兜が一番古い(伝承の中での起源)縁起であるが、他に兜神社の由来は源義家が奥州往きの途中に暴風に出会い鎧を沈めて竜神に祈って無事を祈った場所に、都への帰途兜を埋めて塚を築き埋めて神を祭ったという故事を縁起とするものもある。」

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江戸時代、弘化2年(1845年)版の「楓川鎧の渡古跡考」の地図に、牧野亭の東北隅鎧の渡附近に鎧稲荷(平将門を祭ったのが起源ともいわれている。)と兜塚が描かれており、この頃既に当地の鎮守として又魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた。
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 明治4年(1871年)、東京商社(三井物産の前身にあたる商事会社)の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は鎧の渡と兜橋の中間に遷された。この時兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、兜神社として社を創建して祀り、更にこの神社は鎧稲荷と合併して、新たに兜町の鎮守・兜神社として定められた。
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夜には門が閉められるのでしょう。真新しい門があります。
「世話人会」の手で兜神社」の由来というパンフレットも設置されており、信仰厚い神社だと伺えます。
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境内には兜岩があります。
兜岩(兜塚)
所在地 中央区日本橋兜町1-8 (兜神社)
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兜岩の由来
  現在社前左にある兜岩の由来には、左記の諸説があるが、その裏付となるものは何も残っていない。
(1)源義家奥州より凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一塊の塚となし、これを兜塚といつた。

(2)前九年の役の頃、源義家が東征のみぎり岩に兜を縣けて戦勝を祈願したことからこの岩を兜岩と呼ぶようになった。

(3)俵藤太秀郷(藤原秀郷)、平親王(平将門の尊称、天慶3年(940年)2月14日戦死)の首を打って兜に添へて是まで持来れるが、兜をば弦に埋めて塚となし兜山と云う。
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奥の石碑は明治27年と刻まれていますが何の石碑かよくわかりませんでした。

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2013年02月18日

日証館(旧東京株式取引所)

東京証券取引所の裏側、日本橋川沿いにある大きな白いビルが日証館です。日証館は1階部分にロマネスク風の大きな半円アーチがならぶ重厚な建物です。後ろの日本橋川側も同じように半円アーチが並んでいます。
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日証館 東京都中央区日本橋兜町1 -10
旧東京株式取引所貸ビルディング 1928(昭和3)年
設計 : 横河工務所
施工 : 清水組
鉄骨・鉄筋コンクリート造り、地上7階、地下1階、塔屋1階
当初は6階建てで、後にもう1階追加されたようです。
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外観はすっきりしたデザインですが、内部は、天井や梁にまで、緻密な装飾が施され豪華だそうです。
「日証館」は東京証券取引所の付属施設として昭和3年(1928年)9月に竣工しました。中小の証券会社のための貸しビルとして造られ、現在も貸しオフィスとして使用されていますから 機会があれば中をみれるかもしれません。
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明治時代、この敷地には辰野金吾設計による、六連アーチの華麗なる渋沢栄一邸(明治21年竣工)がありました。
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兜町歴史地図のパネルにあった写真です。渋沢栄一邸はかつては旧国立銀行敷地内(現・みずほ銀行兜町支店付近)にあったそうですが、
明治10年に移転しました。その後こちらに邸宅を新築し移転。現在の建物1階の10連アーチは邸宅の名残のようです。
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古い写真を見ると上の階の窓の中央部6箇所に半円形のバルコニーが突き出ている。

渋沢栄一邸写真の左の木立は兜神社で、現日証館のすぐ隣です。
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2013年02月17日

兜町歴史地図/発祥の地紹介

永代通りの 兜町バス停すぐ、千代田橋すぐの路地を入ると 角にみずほ銀行兜町支店がある。
東京証券取引所の 南隣のブロックに.なりますがこの 西側壁面に兜町歴史地図というパネルがある。パネルの内容は、兜町地区の往時の様子を示す歴史地図や写真です。ひとつずつ拡大してみていきます。
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地図の現在地が わが国銀行発祥の地です。
みずほ銀行兜町支店南側の壁面に 銀行発祥の地のプレートが(昭和38(1963)年製作)嵌め込まれています。kyoubasi2119.JPG
東京都中央区日本橋兜町4丁目 みずほ銀行兜町支店

碑文 銀行発祥の地

「この地は明治6年6月11日(1879年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります。昭和38年6月建立」
明治6年, この地にわが国初の国立銀行「第一国立銀行」が創設された。
後に「株式会社第一銀行」となり(初代頭取は 渋沢栄一), 更に 第一勧業銀行 を経て, 現在は みずほ銀行となっている。
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パネルには証券取引発祥の地という写真があります。
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すぐ近くにあるの大きなたてものが 現在の東京証券取引所です。
東京証券取引所

所在地 東京都中央区日本橋兜町2-1

 東京証券取引所の前身、東京株式取引所は明治11年(1878年)の開所。東京証券取引所を名乗ったのは昭和24年(1949年)のこと。
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外灯のような監視カメラもあって警備は厳重のようです。
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1ブロック全部という大きな建物です。
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昭和通りに面しているのが 日本橋郵便局です。
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ここは郵便発祥の地 です。
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郵便発祥の地
 「日本の近代的な郵便制度は、明治4年(1871年)前島密の創意により、まず、東京-大阪間で始まりました。ここは新制度発足当時、駅逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれたところで、昭和37年、前島密の胸像と記念碑が建てられました。 日本橋1丁目18-1 日本橋郵便局」
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「日本近代郵便の父」として知られる前島密の銅像が設置されている。またこのことから、日本橋郵便局の風景印には、前島が描かれている。
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日本橋郵便局前のポストです。
パネルにはもうひとつ 渋沢栄一邸という写真があります。次はそこへ行きます。

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2013年02月16日

三菱倉庫(旧江戸橋倉庫)/日本橋野村ビル

先日、見に行った三菱倉庫株式会社の本社ビル『江戸橋倉庫ビル』は ただいま工事中です。すっぽりとシートで覆われています。隙間からみると 中身はすっかり解体されて 外壁のみが残されている状態です。
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老朽化を理由に1930年竣工の東京都選定歴的建築物「江戸橋倉庫ビル」の外観を保存しながら建替え 18階の「日本橋ダイヤビルディング」になるそうです。既存建物は外壁と躯体半分を保存し、外観と内部機能の一部を残します。
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三菱倉庫(旧江戸橋倉庫)
所在地: 中央区日本橋1
建築年: 昭和5年(1930)
設  計: 三菱倉庫建築課
構  造: 鉄筋コンクリート造6F
特  徴:  船のブリッジをイメージした 倉庫型建築物
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壊される前の姿ですが 建物で屋上のファンネルや船首を思わせる曲線など船体を感じさせる個性的な外観のビルで 日本橋川に面し、かつては川上の船から直接、クレーンで荷を積み上げていたそうです。三層構造で、下階部分は重厚な石張り中層は明るい色合いの壁に 窓が規則的に並びます。最上部には円形の小窓が並んで客船のイメージです。日本で最初の近代的倉庫ビルとして建てられ今では当たり前になっているトランクルームのような役割のビルでした。
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丸の内によく見られる 外観だけを保存して建替える ハリボテ方式にするにはなんとももったいない気がしました。

昭和通りをはさんで 対面は野村證券本社・日本橋野村ビルです。このビルは横に長く、江戸橋側が増築されたこともあって、非常に細長い外観を呈しています。
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野村證券本社・日本橋野村ビル
所在地: 中央区日本橋1−9−1
建築年: 昭和5年(1930)
設  計: 安井武雄
施  工: 大林組
構  造: 鉄筋鉄骨コンクリート造7F
特  徴: 石張りの基層部を持つ3層構造の建築物
安井武雄は、大正末から昭和の初頭にかけて活躍した建築家。当時の時流にとらわれず、自由様式と称して、大胆な造形を生み出しました。
当時の野村財閥。三井や三菱にまけないくらいの大きく目立つ建物です。
1Fは砂岩張り、2〜6階は茶色の磁器質タイル、7階は白色セメントの仕上げの化粧が施されています。
派手な装飾性はほとんど排除し全体的に量感を強調しています。
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高速道路から 三菱倉庫も野村證券本社ビルもよく見えます。
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2013年02月15日

平和の鐘/ヤン・ヨーステン記念碑 (八重洲)

八重洲地下街23番出口を地上に出ると 目の前に大きなキリンのモニュメントがある。
現在はスターツ八重洲中央ビルとなっていますが このビルは昭和63年(1988)に、中将湯やバスクリンで有名な津村順天堂が建てた「中将湯ビル」。キリンの像は竣工翌年(1989)に彫刻家安藤泉が製作した。ビルの入り口の上部へ光を当てるためにライトを設置する案があり背の高いキリンになったという話があります。
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作者:安藤泉 東京都中央区日本橋3-4-10
この方の作品にはキリンや像、そして馬や牛などと大きな動物が目立ち、それは「人と自然をつないでくれるもの」というコンセプトだそうです。キリンの王冠部分はライトがあり、この作品に当てるためのライトもあります。大きさはホンモノのキリンくらいある大きなものです。
交差点にあるので かなり目立ちます。顔はとても優しい顔です。
このキリンを眺めていたら 少し音程がはずれた 鐘の音がなった。
中央分離帯にある平和の鐘の音でした。
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平和の鐘  日本橋3-4 京橋1-1先間 八重洲通り中央分離帯内

この鐘はカロヨンの鐘の技術では世界的に定評のあるオランダのロイヤル・アイスバウツ社によって製作されました
【全体】
高さ:7m 幅:最大2.4m 最小1.34m 奥行:7.3m
【ピラミッド部分】
高さ:1.7m 幅:1.8m 奥行:1.8m
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午前9:00〜午後21:00の間、
平和の鐘毎時0分になると自動演奏されます。

四季折々のメロディーを自動演奏。冬ですから「雪の降る町を・・」でした。
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平成元年3月15日 設置

「平和都市宣言一周年を記念して、中央区の陸の玄関に相当する東京駅八重洲口に近い八重洲通りに同宣言を記念するモニュメントとして設置しました。中央区」
中央分離帯の入り口、平和の鐘の前には ヤン・ヨーステン記念碑もあります。
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ヤン・ヨーステン記念碑 
中央区日本橋3丁目・京橋1丁目先

 日蘭修好380周年記念碑

「日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。慶長14年(1609年)平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。
とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好380年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。 1989年4月20日  東京都中央区」
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   ヤン・ヨーステン像:オランダ人 L.P.プラート作
「二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、また天球儀は”時”の象徴でもあります。
左がヤン・ヨーステンの像、右側の帆船が日本漂着の際、彼が乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号です。中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが置かれています。中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしています。四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得ています。」
 ヤン・ヨーステン(1557頃〜1623) 

「 慶長5年(1600年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の江戸屋敷現在の和田倉門〜日比谷公園間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。」

ヤン・ヨーステンの活動により、長崎に出島が作られるなど、日本の国際化の基礎を築いた人です。
陸の玄関に相当する「八重洲(ヤエス)」の地名は、ヤン・ヨーステンの名前にちなんで付けられたそうです。  

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2013年02月14日

旧川崎銀行本店(現三菱UFJ信託銀行)

高島屋日本橋店の斜め前には 斜め前には旧川崎銀行本店(現在は三菱UFJ信託銀行)があります。
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川崎定徳本館
1927(昭和2)年に矢部又吉の設計
でたてられたましたが 1989年に建替えられました。
竣工年:1989年 高さ:9階
建築主:川崎定徳・日本信託銀行(川崎定徳とは川崎財閥の流れをくむ不動産会社)
設計:坂倉建築研究所株式会社・坂倉インターナショナル・三菱地所
所在地:東京都中央区日本橋3-1-8
日本信託銀行の旧本店ビル。現在は三菱UFJ信託銀行日本橋支店となっている。
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の文字が判る。
旧川崎銀行本店は、ネオ・ルネッサンス様式で本格的銀行建築であった。関東大震災以前の大正10年に起工され、6年間の工期を費やして昭和2年に竣工した。設計者の矢部又吉は、ドイツのベルリン工科大学に学び、帰国後多くの銀行建築を設計した。
川崎銀行は、江戸時代、水戸藩の勘定方をつとめた川崎八右衛門翁が明治13年に設立した銀行。川崎財閥の信託部門として設立された川崎信託株式会社が昭和11年からこの建物を共同使用していたが、同社はその後日本信託銀行と改称、昭和28年から同建物を使用していた。
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昭和61年ビル立て替えのため取り壊され、正面左側角の外壁部分が明治村へ移築された。
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日本橋に建て替えられた新ビルは、旧建物の中央玄関部分や柱のキャピタル部分などを保存再利用し、旧建物の面影を活かしたポストモダーンのデザインとなっている。
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復元保存されているのは 1F正面入り口部分くらいですが とても目立ちます。
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2013年02月13日

高島屋東京店(中央区日本橋)

昨年行った時は 外装修理中なのか全体がシートで覆われていましたが 11日に行ったらきれいになっていました。
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建国記念日でしたから 国旗が掲げられていました。
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国指定重要文化財   高島屋東京店
所在地    中央区日本橋 二丁目4番1号
建 物    建設年 昭和 8 (1933)
設計者    設計者 高橋貞太郎・前田健二郎・片岡安
構造・規模  SRC造 8階(2)
概 要     昭和初期に建設された大規模な百貨店。古典様式の建築物の細部に東洋的なモティーフが散りばめられている。軒先廻りにテラコッタによる化粧樽木が付き、1階ホールには大理石の柱が支える格(ごう)天井が見られる。 
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百貨店建築では始めて重要文化財に指定された。
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角の曲線が美しい。
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玄関部分の装飾は細部にわたって凝っています。
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玄関部分とエレベーターは2012年09月29日のブログ日本橋高島屋に写真があります。

http://umeno87.sblo.jp/article/58607704.html
正面口の 跡花をモチーフにした装飾が施された、アーチ型の水飲み場跡。
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重要文化財の詳細のパンフレットはコンシェルジュの所に置かれていて誰でももらえます。
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大切に保存して守っていきたい建物です。

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2013年02月12日

日本銀行本店本館(東京都中央区)

日本銀行本店本館は明治中期の西洋式建築物としては、東京・赤坂にある「迎賓館(旧・赤坂離宮)と並ぶ傑作で日本の建築の宝といわれています。1974年に、国の重要文化財に指定されました。
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現在も現役で使用中です。警備は厳しく 外観だけを遠くから見るだけで中はうかがい知れませんが 申し込み制での内部や大金庫の見学があるそうです。
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日本銀行本店本館 国・重要文化財(1974.02.05)
竣工 1896年(明治29年)2月
所在地 東京都中央区日本橋本石町2-1-1
設計 辰野金吾
施工 直営
構造 石積み煉瓦造3階建て、地下1階、鉄板及び銅板葺
建築面積 2,684.6m2

「明治29年(1896)竣工の石造及び煉瓦造,地上三階地下一階建の建築。屋根は鉄板及び銅板葺。正面に回廊を廻す。外装は石積。窓は両開き硝子戸欄間付(サッシュ使用)。ネオ・バロック様式にルネッサンス意匠を加味する。辰野金吾の設計による明治洋風建築中最重要な遺構。 辰野金吾は日本銀行を設計するにあたり、明治21年から明治22年にかけて位一年余り、欧米に出張し、各国の中央銀行を研究したそうです。日本銀行本店は、 ベルギーの中央銀行を模範に設計されたといわれています。

当初は総石造りの予定でしたが、 1891年(明治24年)の濃尾地震の被害状況から、 建物上部を軽量化することにより耐震性を高めるため、1階は石造り、 2,3階は石を貼り付けた煉瓦造りに変更されました。 エレベーターや水洗便所、防火シャッターなど当時としては珍しい設備を備えていました。
東側の建物は、 長野宇平治により昭和初期に増築されたものです。」
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建物の様式は、柱やドーム(丸屋根)などのバロック様式に、規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス様式を取り入れた「ネオバロック建築」花崗岩の列柱を配した、石積みのれんが造りです。
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この建物、真上から見ると、「円」の文字の形になっています。航空写真でみればわかります。
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開業当時は永代橋のたもと(現・箱崎町)にあり、職員わずか55人、建物も借り物だったそうです。
明治29年(1896年)、現在地の日本橋本石町(ほんごくちょう)に移転しました。この地は古くからお金に縁のある場所で、江戸時代は小判を造る「金座(きんざ)」がありました。(銀座は銀貨の製造をしていた場所)
金座跡
 「現在、日本銀行となっている場所は江戸時代、金貨鋳造所の「金座」のあったところです。文禄4年(1595年)徳川家康が後藤光次(金工)を江戸に招いて小判鋳造を始めたのが金座の始まりです。金座は江戸時代を通じて、勘定奉行の支配下にあって、金貨(小判および一分金)の鋳造・鑑定・地金類の買収・監察などをしていたところで、江戸・駿河・佐渡・京都の4ヵ所に置かれていました。駿河は慶長年間に、佐渡は享保年間に廃され、京都金座も規模が小さくなって鋳造はほとんど江戸金座で行われていましたが、明治2年に廃止されました。 」
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明治44年写真:日本銀行
 「徳川幕府の昔、後藤庄三郎が金貨鋳造の事に従いたる金座の址にして明治15年に業務を開始し、帝國の中央銀行たり。現在の建物は明治23年工を起こし29年に成りしものにして市内屈指の大建築なり。 」

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2013年02月11日

三井本館(東京都中央区)

三越本店のお隣は 三井本館です。
オフィスビルとして初めて国の重要文化財に指定された鉄骨鉄筋コンクリート造7階建て、地下2階、屋上塔屋付。

かつてはその名の通り三井財閥の本拠があり、三井合名会社本社、三井銀行本店、三井物産本社、三井鉱山本店などが使用していました。現在も三井系が入居しています。
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国重要文化財 三井本館 1929(昭和4)年
設計 : トローブリッジ & リヴィングストン事務所 (Trowbridge & Livingston)
施工 : ジェームス・スチュアート社 (James Stewart & Co.)
東京都中央区日本橋室町2-1-1
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 「日本橋の北方に位置する三井本館は,旧三井財閥の拠点的な建物として,昭和4年3月に竣工した。鉄骨鉄筋コンクリート造,地上5階地下2階建の東西に長い形の建物で,コリント式の柱が並ぶ外観に特徴がある。
 アメリカ・ニューヨークの各社が設計や施工を手がけており,アメリカの技術と生産システムを導入した最初期の大規模建物として,歴史的意義が認められる。また,團琢磨(三井合名会社理事長/当時)が掲げた壮麗,品位,簡素の3要素をあらわした内外各部の意匠は優秀で完成度が高く,昭和初期を代表する建築物のひとつとして貴重である。」
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関東大震災のため被害を受けた旧ビルを建て替えたため、耐震構造で設計されています。外観はベネチア産大理石などを使用した重厚な雰囲気と、巨大なコリント式の列柱が圧倒するようなギリシャ・ローマ風の意匠を採用した。

團琢磨(三井合名会社理事長/当時)が掲げた壮麗(Grandeur),品位(Dignity),簡素(Simplicity)の3要素を具現化した建物。重要文化財日本銀行本店本館と並び日本橋界隈の歴史的景観を形成する。内外各部の意匠は優秀で完成度が高く,昭和初期を代表する建築物のひとつとして貴重である。
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外部は、各部を花崗岩で仕上げ、道路に面した三方に1階と2階を通したコンクリート式の大オーダーの列柱(両脇2本が角柱で、その他はフルーティング付の円柱)を立てる点に特徴がある。3階の上部にコーニスを廻し列柱上のエンタブレチュア風に扱い、同階壁面に主要各社の業務内容を表現した浮き彫りを起き、4階のパラペットに連続した花形の彫刻を巡らす等、要所には華やかな装飾が用いられている。また、5階を4階以上よりわずかにセットバックして建て、重圧感を軽減させ安定感をもたせる等、全体の比例にも気配りがある。
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古代ギリシャ及び ローマのコリント式建築で、柱頭部分の装飾用に図案化されています。
アカンサス模様は 地中海沿岸地方に多く分布する多年草の低木で6,7月に白・淡紅色の花が咲きます。
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仕上げ 外装:茨城県稲田産花崗石積、東西南3面に合計22本の「コリンシャン」 丸柱を並列
内装:玄関・営業場は壁面柱とも全部イタリア産大理石を使用
特別室の高羽目、腰羽目は楢、胡桃、樺、桜、「マホガニー」、「チーク」を使用

三井記念美術館は重要文化財建造物である三井本館7階にあります。その室内のドアや造作もとても豪華です。

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2013年02月10日

日本橋三越本店

常磐橋界隈には 重要な建造物が並んでいます。
その一つが 日本橋三越本店です。
東京都選定歴史的建造物
「ルネッサンス様式の威容を誇る日本橋三越本店の現在の建物は、昭和10年(1935)、6年の歳月を費やし増築改修されたもので、完成当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築でした。
なかでも、採光天井の下にフランス産赤斑大理石とイタリア産卵黄色大理石を張りつめた中央ホールは花園のような美しさです。完成以後60年以上が経過し、平成11年(1999)4月には日本橋地区の顔として東京都から「東京都選定歴史的建造物」に選ばれました。」
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三越本店東京都中央区日本橋室町1-4-1
建物建設年大正3(1914)、昭和2(1927)
設計者横河工務所(横河民輔、中村傳冶)構造・規模(地下)SRC造 7階  
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日本のデパートメントストア(デパート)発祥の地
お子様ランチ発祥の地
日本のエスカレーター発祥の地
わが国初の大規模SRC造の百貨店建築。近代東京の都市文化のシンボル的存在
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 「三越は、延宝元年(1673)に三井高利が「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、大正3年(1914年)には、鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。
 当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で、5階建一部6階、中央部に5階まで吹き抜けのバロック的大空間をもっていた。関東大震災で損傷、昭和2年に復興したが、昭和10年(1935年)全館の増改築が行われた。 建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐっていて、アール・デコ風のデザイン。吹き抜け部分 中央ホールの天女像は巨大で見事です。
屋上建造物に関しては 以前のブログ日本橋三越屋上に書きました。

http://umeno87.sblo.jp/article/43029742.html
三越の店舗入り口にはライオン像があります。
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三越ライオン像
「 日本橋三越本店の入口を守るライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像を模し鋳造されたものです。”気品と勇気と度量”の象徴として、また、ご来店のお客様の守護神として大正3年(1914)本店のルネッサンス様式建築の本館ライオン口に設置されました。以来、東京名所の一つとして親しまれ、待ち合わせの場所としても有名です。
 このライオン像は、”必勝祈願の像”として、誰にも見られずに背にまたがると念願がかなうと言い伝えられ、特に受験生の間に人気があります。」

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2013年02月09日

常盤橋公園・常磐橋(千代田区)

常盤橋公園は千代田区の説明によれば
「地下鉄半蔵門線三越前駅の西、徒歩2分。面積はわずか1420uの千代田区立の小公園だが、歴史的には大きな意味のある場所にある。江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年(1875年)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。園内には渋沢栄一の銅像が建っているほか、常盤橋門跡の石垣が残っている。」
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澁澤栄一像(常盤橋公園)

所在地 千代田区大手町2-7 (常盤橋公園)

「青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり。後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり。爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百。常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
 また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。 昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社」

昼時は近隣のオフィス街で働く人たちの憩いの場となっていますが 現在常盤橋公園は工事中で 半分はフェンスで囲まれていました。
ですから 常盤橋門跡は見ることができませんでした。
常盤橋門跡 日本橋本石町3-1
 「江戸城外濠の表正面で、現在は枡形門の石垣だけが残っています。この門は、浅草・千住を経て行く奥州街道の出口であったので、浅草口と呼ばれ、江戸五門のひとつにも数えられています。昭和3年(1928年)国の史跡に指定されました。 」
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公園の石垣や 常磐橋が見えます。
常磐橋 所在地:東京都千代田区大手町2丁目(常盤橋公園)と中央 区日本橋本石 町2丁目(日本銀行)の間
用途:橋(人通専用)
着竣工:(竣工)1877年(明治10年)
面積:(長さ)32.7m (幅)11.4m
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「現常磐橋は江戸城外郭の正門の一つ江戸城常盤橋門が在ったところ(現常盤橋公園)に付設されていた木造橋を長崎から召集された石工達によって1877年(明治10年)に洋式石橋(アーチ式)に架け替えられたもの。
その際「皿」では縁起が悪いということで「石」に変えたと伝聞されている。江戸から明治にかけて江戸城外郭にあった橋の多くは石橋に架け替えられたがこの常磐橋以外は需要変化や関東大震災のためその後再度架け替えられたため、庭園などの石橋を除いて東京で最も古い石造洋式橋となっている。」
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右のほうに見えるのが防災船着場です。
常磐橋防災船着場
「阪神大震災の時の港湾や河川の舟運の有効性から、東京都が進めている防災桟橋の1号で2000年7月(平成12年)に竣工。
干潮区間であるため構造材として国内初のステンレスを使用し、水没する部分にはステンレスの中でも特に耐腐食性に優れたSUS316を使用している。施行は(株)アロイ。又干満差(潮位の影響(AP±0.0m〜+2.1m))に対応できるよう桟橋を2段式(全長43m)としている。」
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常盤橋
「関東大震災の復興計画の一環として1926年(昭和元年)に再度に架け替えられたもので、常磐橋のデザインを踏襲したような石造2連アーチ橋である。直ぐ上流にある新常盤橋は路面電車の開通に合わせて1920年(大正9年)に架けられたコンクリート製の3連アーチ橋であったが、1988年(昭和63年)東北新幹線の高架建設に合わせて再度架け替えられた鋼製桁橋である。」
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常盤橋(ときわばし)は、東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川にかかる橋。別名は常磐橋(読み方は同じ)。ただし、現在は上流にある人通専用の旧橋を常磐橋、その後造られた新橋を常盤橋と称する。」
常盤橋・大手町〜中央区日本橋   
建造年・1926年(大正15年)
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常磐橋は江戸城外郭の正門の一つ江戸城常盤橋門が在ったところで現在人専用。
常盤橋は 大手町と日本橋を繋ぐ新しい橋。
どちらも「トキワバシ」であるが「盤」と「磐」と漢字表記が違ってややこしい。
しかも 新常盤橋もあってよけいにややこしいです。
公園の工事が終わったら 一番古い 常磐橋を歩いてみることにします。

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2013年02月08日

一石橋.迷子しらせ石標

東京メトロ 三越前駅すぐの日本橋川にかかる一石橋のたもとに 一石橋迷子しらせ石標があります。
こんな石標が建てられた所をみると いつの世も 人出の多いところに迷子はつきものだったらしく 迷子や尋ね人がある人は、特徴(年齢,面体,格好,履物,衣類など)を書いた紙を貼り、それを見て思い当たりのある人が迷子や尋ね人を知らせたそうです。
このあたりが 江戸時代相当にぎわっていたことがうかがえます。
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一石橋迷子しらせ石標
 中央区八重洲1-11先(東京都指定有形文化財

 「江戸時代も後期に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政4年(1858年)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満(ま)よい子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には、「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。」

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一石橋ですが この橋の東側は日本橋です。
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一石橋

 中央区八重洲・中央区日本橋本石町
 「一石橋は寛永年間(1624〜1647)またはそれ以前から存在した橋である。下の写真に見られる一石橋の姿は、大正11年(1922年)に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な意志の高欄や親柱、証明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。

 一石橋の上流半分は、昭和48年(1973年)にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成11年(1999年)には下流側半分についても架け替え麹が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成11年(1999年)の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに作り替えられている。」
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一石橋の親柱
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 中央区八重洲1-11先

 (中央区民文化財

 「皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
木橋としては最後となった明治6年(1873年)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正11年(1922年)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成9年(1997年)には大正11年(1922年)の橋本体は全て撤去されましたが。威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています。平成14年(2002年)に中央区民文化財に登録されました。」
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昭和初期頃の一石橋
迷子しらせ石碑から大手町のほうに行くと 大手町の三越大手町別館前に立つ「銭瓶橋跡」という説明板があります。
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銭瓶橋跡  千代田区大手町2-6

 「昔ここに堀があり、そこに架かっていた橋を銭瓶橋といいました。堀(道三堀)を掘った時、地中より銭の入った瓶を掘出したので橋の名となったともいい、又一説には、この辺で永楽銭の引換えをしたので、銭替橋といったとの説もあり、あるいはここで両替をするものが市をなしていましたが、あまりに多くなり仲間をきめて、両替をしたので銭買橋といったともいわれています。又夜中、江戸城の奥女中が城外に出るには通行切手がなくては外に出られなかったが、”銭かいばしを玉曼ぬけ”という句があるように、この橋の下からは切手なしで船でぬけ出られたので、この名がついたという説もあり、『そぞろもの語』(寛文18年〔1664〕印本)に天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋の近くで風呂屋を開業、永楽1銭の代金をとったとかかれています。明治42年(1909)に埋立てられ今は濠もなく橋もなくなり銭瓶の名だけ残っています。昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会」
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今はこんな感じで 木の根元ににポツンと立て札だけがありました。

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2013年02月07日

深川不動尊/三十三間堂跡

深川不動尊の新本堂4F宝蔵大日堂の中島千波画伯作 天井画「大日如来蓮池図」を見に行ってきました。
「さくらの画家」として有名な中島千波氏の絵とあっては一度は見ておきたい。
護摩修行がはじまったばかりで 読経と太鼓の乱打の中 エレベーターで直接4Fにいきました。
4Fに中島千波画伯の「風神雷神屏風」があって そのお顔はどことなくユーモラスでした。
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風神雷神図は俵屋宗達の屏風と比較しても現代的な絵でした。
それから下絵らしい 蓮の絵なども壁に展示してあって 中島氏らしい絵をみることができました。
さて宝蔵大日堂に入り 天井を見上げると巨大な大日様が見下ろしていました。
これもなかなか現代的なお顔でした。仏様をかこむ蓮の花の繊細に描かれていて 色も美しい。さすがさくら画家だと思いました。
誰でも入場できます。
他は以前なんどか拝見しているので 天井画を見て出ましたが 熱心にお参りしている人もいるので行動には注意が必要です。
不動尊を出て 富岡八幡宮に行きます。
こちらも 2012年5月のブログの深川散歩4〜9で詳しく書いているので今回は省略です。

すぐ近くに 三十三間堂跡があるというので そこを見に行きました。
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三十三間堂跡 江東区富岡2-4地先
「このモニュメントは、以前からあった三十三間堂史跡の石柱を移築し、その右側に当時の三十三間堂のレリーフが置かれています。このレリーフはブロンズ製で文政4年(1821年)堂守、鹿塩久右衛門の元にあった深川三十三間堂での通し矢の記録を本として出版した「深川江戸三十三間堂矢數帳」の中の絵のページが開かれ、三十三間堂がみごとに浮き上がって描かれています。
また、白御影石の台座には史跡としての説明文が書かれたブロンズがはめ込まれており、コンクリートの台座には陶板による一間(約1.8メートル)の「矢」が描かれています。
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江戸三十三間堂は、京都蓮華王院に模して、寛永19年(1642年)に浅草において建立されました。深川に移されたのは元禄14年(1701年)のことです。深川における三十三間堂は、南北六十六間・東西四間の堂舎であり、本尊は千手観音であったといわれています。

現在でも、京都の三十三間堂において、通し矢が行われています。江戸時代は、江戸の三十三間堂においても、諸士の弓術稽古のために通し矢が行われていました。深川三十三間堂は、明治5年(1872年)に廃棄解体され、本尊は正覚寺(深川2−22−5)に移されました。江東区」
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広重「名所江戸百景」より「深川三十三間堂」
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2013年02月05日

心行寺/深川七福神 福禄寿

えんま堂のお隣は深川七福神 福禄寿の「心行寺」です。
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所在地 江東区深川2-16-7

  浄土宗 双修山 心行寺 深川七福神 福禄寿

由来
 「心行寺は雙修山養源院と号し、開山は、光蓮社団誉一露屋道で、養源院は開基です。元和2年(1616)に、八丁堀に創建され、寛永10年(1633)に現在地に移りました。
 養源院は岩国藩主吉川広嘉(1621〜1680)の妻で、承応3年(1654)に没しました。広嘉は岩国藩主として2代目で、延宝元年(1673)には、錦帯橋を架橋しています。
 深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています

双修山養源院と号し、元和2年(1616)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主 吉川監物の室 養源院殿の発願に開基による。
 寛永10年(1633)現在地に移転、当時境内地は、間口42間奥行42間総坪数1764坪、影窓院 正寿院の二末寺があった。
 大正12年関東大震災の厄にかかり、昭和7年(1932)再建された本堂庫裡も昭和20年(1945)戦災のため再度烏有に帰した。
 現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味し、昭和43年(1968)に落慶した。
 本堂両脇間に観無量寿経変相図(曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。」
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福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されています。
福禄寿は星宿の神、南十字星の化身といわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。
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【六角堂】深川七福神の福禄寿を安置
  「 不求自得    自然にとくがそなわる
 この福禄寿の尊像の中には当寺書院移築の際に土中より発見された戦災前の福禄寿土偶が収蔵されています。手にする宝珠にふれて円満な人格をいただくようおねがいいたしましょう。福徳は自然に身についてくるものです。  福寿海無量  是故應頂礼 」
石造地蔵菩薩立像(影窓院地蔵)(江東区登録文化財)
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   影窓院(ようそういん)地蔵
 
「御府内備考続編」によると、この石造地蔵菩薩立像は、当寺に影窓院と正壽院の二つの塔頭(たっちゅう)があり、影窓院にあったので、この呼称がある。
 結緑地蔵として縁結び、願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々で大いに賑わった。
 宝篋印咒塔(北州塚)
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宝筺印咒塔(川口直供養塔)
直は文化文政の頃の名妓、清元節の名人で、のちに『川口』という料亭を開いた。夫の忠七は笛の名手であった。
川口直は、大田蜀山人作詩の清元「北州」に、あの甲高い節付けをしたので有名。
五重層石塔
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五重石塔
突風火水地五層の石塔で、「元亨4年(1324)」の銘がある。
 元亨4年は1324年で、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録している。
このほか 心行寺には五世鶴屋南北墓  松本交山墓  工藤琳甫墓 悟道軒円玉墓 などがあります。

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2013年02月04日

法乗院(深川えんま堂)

深川モダン館を出て 葛西橋通りと清澄通りの交差点から清澄通りのほうに少し行くと、赤い塀がある。
そこが法乗院(深川えんま堂。
 「法乗院は、寛永6年(1629)の創立で、江戸時代から「深川の閻魔さん」と親しまれてきました。近年復興した閻魔さまは、高さ3.5m、幅4.5mの巨大な座像にハイテク技術を内臓、光や音とともに閻魔さまの声で仏の教えが語られます。また、左手には金色の地蔵菩薩をいただいています。江東区」
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「正式名称は「真言宗豊山派の賢台山賢法寺法乗院」といい、1629(寛永6)年に当時の深川富吉町に創建され、1641(寛永18)年に現在の場所に移転した。「江戸三えんま」として古くから人々に親しまれてきた「深川ゑんま堂」の閻魔様の座像の大きさは日本最大。左手の上には地蔵菩薩(閻魔様と表裏一体の仏様)が乗っており、日本で唯一の特殊な閻魔大王像である。寺の説明文」
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閻魔堂ですが その日ハイテク閻魔様は ご開帳していませんでした。
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寺の案内板の写真です。
ゑんま堂
日本最大の閻魔大王座像 (全高3.5m 全幅4.5m 重量1.5t 寄木造り)
平成元年 現在のゑんま座像を建立
19のご祈願に対しお賽銭を投入すると、仏様より様々な説法を聞くことが出来るシステムを日本で初めて採用したゑんま像。
寺には「地獄極楽絵」「曽我五郎の足跡石」「初代豊田鳳憬の墓(尺八奏者)」「初代市川八百蔵の墓(歌舞伎役者)」などがある。
初代市川八百蔵墓(江東区登録文化財)
豊田古童墓(江東区登録文化財)
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初代豊田鳳憬の墓
 「寛永4年(1851年)没 尺八琴古流宗家の豊田鳳憬は、傑出した虚無僧の高徳と尺八の伝統技能を大成した中興の人であり、当山はその累代菩提所として歌舞伎音曲に縁の深い事でも知られています。」
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曽我五郎の足跡石
「曽我五郎は、日本三大仇討ちの一つである曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)で、兄 曾我十郎と共に父親の敵である工藤祐経を討ったことで知られています。また、歌舞伎「曽我物語」の主人公として、庶民の支持を受けています。足跡石は、歌舞伎に縁深い当山に移されたもので、若くして一生を父の仇に終始した曽我兄弟の五郎が老母を背負い、工藤祐経の菩提と老母父の仇の報告をした帰りに残されたものと言い伝えられています。」
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コンクリートの足跡でもないのに どうやってこんな固そうな石に足跡がつくのだろうか・・と、素朴な疑問。
溶岩のようなものなのかしら・・でも素足だし。
足跡石というのはあちこち 伝説のものとして存在しているようです。

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2013年02月03日

旧東京市深川食堂(現深川東京モダン館)

国登録有形文化財建造物「旧東京市深川食堂」をリノベーションし。深川東京モダン館として 観光案内・情報発信スペースになっているということで 立ち寄ってみました。
清澄通りから少し入るので 初めての人には地図でもないかぎりわかりにくいです。同じ場所を2度迷った経験からせめて 矢印でも 清澄通りにあれば・・と思った。
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深川東京モダン館
昭和7年竣工の旧東京市営の深川食堂を再生活用させたものである。
江東区門前仲町1−19−15
1 観光案内ゾーン(1階)
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2 文化発信ゾーン(2階)多目的スペース
3 保存ゾーン(階段室部分)
1階と2階をつなぐ階段室部分(建物西側)は建築当時の雰囲気を残す保存ゾーンです。使われているタイルの多くは当時のもので、近代東京の建物の特徴、歴史を身近に感じることができます。
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街歩きや案内のボランティアの方が常駐していてとても親切に応対してくれました。
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旧東京市深川食堂(現深川東京モダン館)
 ◎設計:東京市
 ◎施工:藍城淺次郎
 ◎竣工:昭和7(1932)年3月
 ◎構造:鉄筋コンクリート造2階建て
 ◎所在地:東京都江東区門前仲町1-19-15
国登録有形文化財

「 東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正9年(1920)から順次設置した16ヵ所の市設食堂のひとつです。延床面積は106坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和6年(1931)に着工、翌昭和7年(1932)に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。昭和11年(1936)に閉鎖されましたが、昭和13年(1938)に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬgれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、昭和32年(1957)には授産機能、昭和36年(1961)には福祉機能が追加されました。昭和54年(1979)に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成18年(2006)に閉鎖されるまで利用されました。
 構造は2階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、2階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建造物としての稀少性が認められ、平成20年(2008)に国登録文化財に登録されました。平成21年(2009)9月 江東区教育委員会」

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案内板の当時の写真をみると 、南面の6箇所の丸窓や、その左隣りの吹き抜けの階段の縦長の窓、2階のカーテンウォールなど、当時の姿のまま修繕されていることがわかります。
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まわりの新しい建物と比較しても 遜色がないデザインの建物です。
開館日および開館時間
10:00-18:00(金・土曜日は19時まで)休館日:月曜日
時々 食堂やカフェがオープンするとのことで 又の機会に食堂を利用してみたいと思いました。

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2013年02月02日

採茶庵跡/二代目中村芝翫宅跡/小津安二郎誕生の地

深川神明宮を出て 清澄通りを清澄白河駅のほうへと歩く。
すぐに 石造りの建物に気が付いた。一番上に装飾もあって 文化財的近代建築か?と思いつつ写真に撮る。
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調べてみると 山和証券   深川支店でした。
「近隣の「清澄庭園」やドイツ・ケルンの大吊橋を範とした「清洲橋」、北斎の「富嶽三十六景」や広重の「名所江戸百景」に描かれた「万年橋」などの文化・伝統・歴史ある町並みにとけこめるよう、深川支店は、石造りの外装で重厚感あふれる6階建ビルの1階に店舗を構えました。」ということで 2006年築でしたが 伝統・文化を考慮した建物で好感が持てました。
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そこからすぐが 小名木川にかかる高橋。
橋の手前にあるのが 二代目中村芝翫宅跡 の説明板。
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二代目中村芝翫宅跡

所在地 江東区常盤2-12〜14
 <二代目中村芝翫(しかん)宅跡>江東区登録史跡

 「歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政8年(1796)江戸下谷に生まれ、嘉永5年(1852)2月17日に57歳で没しました。
 はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち養子)になり、藤間亀三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の三代目歌右衛門の弟子になり、文化10年(1813)に中村鶴助と改名、文政8年(1825)には二代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役(たちやく)、実悪(じつあく)、女方(おんながた)、武道(ぶどう)、荒事(あらごと)など、さまざまな場面で活躍し、天保7年(1836)には、四代目中村歌右衛門を襲名しています。
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二代目中村芝翫は、天保のころこの辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫河岸」と呼ばれました。天保2年(1831)に江戸の中村座で「六歌仙(ろっかせん)」を演じた時、喜撰法師(きせんほうし)(六歌仙の一人)の歌詞をひねって、
「我が庵は芝居の辰巳常磐町、而も浮世を放れ里」
と住居付近の様子をおりこんでいます。

  平成14年(2002)11月 江東区教育委員会」
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高橋の船着場あたりの堤防にずらりと植えられているのは 江東区の木の黒松です。
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清澄白河駅に向かって歩くと 海辺橋があります。
その橋を渡ると橋のふもとが 採茶庵跡です。
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採荼庵(さいとあん)跡
東京都江東区深川1-9付近、海辺橋南詰
「芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建てみずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり元禄2年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出点した
     昭和33年(1958)10月1日    江東区第7号」
「 元禄2年(1689)に芭蕉は、ここ採荼庵(さいとあん)から「奥の細道」に旅立ちました。
 採荼庵は、芭蕉の門人鯉屋杉山杉風(さんぷう)の別荘であります。その地点は明らかではありませんが、仙台堀川にかかる海辺橋付近であるといわれています。杉山家の記録には、元木場平野町北角で、間口27m、奥行36mの屋敷でありました。 江東区」
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出発前には、長年住みなれた芭蕉庵は手放しています。
この庵の右側、仙台堀川沿いの「水辺の散歩道」は 芭蕉俳句の散歩道と言われ 芭蕉が奥の細道の旅先で詠んだ句、十八句が掲示してあります。
隅田川沿いには 芭蕉記念館や公園 神社などもありますが 以前行ったので今回は行きませんでした。
そのまま清澄白河駅から 門前仲町駅に向かいます。
葛西橋通りと交差する手前に小津安二郎誕生の地 があります。
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小津安二郎誕生の地

所在地 江東区深川1-8-8

 「江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治36年(1903)12月12日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が10歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を1年間勤めた後、大正12年(1923)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。
 昭和2年(1927)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。
 その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。
 昭和37年(1962)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和38年(1963)60歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。
 平成7年(1995)3月  江東区教育委員会」
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古石場文化センター には小津安二郎紹介展示コーナーがあります。

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2013年02月01日

深川神明宮(深川発祥の地 )

森下駅の近く、深川神明宮の前に 伊東深水誕生の地 という説明板がある。
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伊東深水誕生の地
所在地 江東区森下1

 「伊東深水は、明治31年(1898)2月4日、深川西森下町の深川神明宮門前で生まれました。本名は一。深川尋常高等小学校に入学後、2年生のときに父が失職し、深川の地を離れました。しかし、深川との縁は深く、明治41年(1908)には深川東大工町の東京印刷株式会社(白河4-9)に勤務。ここで画才が認められ、明治44年(1911)に日本画家の鏑木清方に入門しました。深水の雅号は、深川の水にちなむもので、清方がつけたものです。
 入門の翌年、巽画会展出品作「のどか」が初入選。大正3年(1914)に「桟敷の女」、翌年には「十六の女」がそれぞれ院展、文展で入選し、その後も高い評価をうけました。また、大正中ごろには、新版画運動に共鳴し、木版画「対鏡」を制作。雑誌や新聞小説の挿絵、口絵なども手がけました。
 深水は、江渡の浮世絵の伝統を受け継ぎ、女性の美しさを創出する日本画家として、日本の近代美術史に大きな功績を残しました。その功績から、昭和33年(1958)5月には日本芸術院会員になり、昭和47年(1972)5月8日に74歳で没しました。
 平成15年(2003)10月  江東区教育委員会」
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森下文化センターで パネルや絵を見てきたばかり。なるほどここが生誕の地かと・・・
そしてすぐ隣にも説明板があります。
深川発祥の地  江東みちしるべ
   深川神明宮 (寿老人)
由来
「 この辺一帯は, 慶長年間(1596〜1614)に摂津国(大阪府) の深川八郎右衛門ほか6人が新田を開拓し, 八郎右衛門の姓をとり深川村と名付けられた。深川村発祥の地です。八郎右衛門は持地内の小祠に神明を勧請したと伝えられ, これが深川神明宮です。
 のち, 現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み, 八郎右衛門は代々名主をつとめました。
 深川七福神のひとつ(寿老人)として親しまれています。」
すぐ前は 深川神明宮です。
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大きな由来記の石碑があります。
漢字とカタカナで難解なのですが 要約すれば次のようなことだそうです。
 「今からおよそ四百年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人もまだいませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられる)が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手しました。八郎右衛門は神さまを敬う心が篤く、屋敷のうちに小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の大神さまのご分霊をお祀りし、開拓民の幸せと、深川の地の発展を祈念しました。
 これが、深川神明宮の起源です。そして深川の地の発展とともに、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮と称せられ、多くの崇敬を集めるようになり、今日に至りました。 深川神明宮」
鳥居をくぐると 神輿庫が両側に並んでいます。12基の扉にはそれぞれの神輿の絵が描かれています。
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例祭 8月17日に近い日曜日(水掛け祭り)
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深川神明宮(ふかがわしんめいぐう)
 東京都江東区森下一丁目3−17 
創建年代 慶長年間(1596〜1615)以前
慶長元年(1596)江戸に入った徳川家康がこの地を訪れ、八郎右衛門に地名を尋ねたところ、未だ人も少なく地名のないと答えたので、八郎右衛門の姓をとって「深川」とするよう命じたという。
後、江戸の繁栄に伴って深川も発展し、神明宮は深川の総鎮守として崇敬を集めた。
天照大神をお祀りする神社は主に神明社や神明宮、天祖神社と称されています。
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深川七福神 寿老人
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深川神明宮末社 和合稲荷神社
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寿老神社と和倉稲荷神社の間に石がある。
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竪川 五拾五貫目の石 と彫られている。力石でしょう。
本殿の前は 幼稚園になっていて 子供たちのにぎやかな声が聞こえていました。
深川発祥の地ということで 感慨深く思いながら この地をあとにしました。

posted by うめのはな at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区