2013年03月31日

2013年桜・代官町通り〜竹橋(千代田区)

千鳥ヶ淵交差点には交番がありますが 桜まつりの期間 案内のテーブルが置かれて係員がいました。
代官町通りも桜の名所。千鳥ケ淵全体を望める穴場スポットです。
道路沿い歩道から 土手の上に上がりました。
下の桜並木を上から見下ろせますし 土手の桜を楽しみながら千鳥ヶ淵を見渡すこともできます。
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ボート場が見えます。
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桜は満開、水の上には花びらが浮かんでいます。
桜を眺めながらしばし 歩くと近代美術館工芸館前に出ます。
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そこから道路沿いに少し行くと 北の丸公園入口に大きな紅枝垂れ桜があります。
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近寄ると大きすぎて全体写せません。
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土日は 人人人・・・で大変なスポットです。
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竹橋駅に向かいます。
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このあたりは 紀伊国坂といいます。竹橋から平河濠脇を東から西へ登る直線の坂道です。皇居東御苑の北方にあたります。坂道の北側には、国立近代美術館、国立公文書館があります
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【標 識】
説  明: この坂を紀伊国坂といいます。『紫の一本』という本には"紀伊国坂、松原小路より竹橋御門へ出る坂をもいう。今の灰小路の所、もと尾張紀伊候の御屋敷ありし故なり"とあり、『再校江戸砂子』には”紀伊国坂、竹橋御門へくだる小坂をいう。むかし此所に尾紀の両御殿ありしなり。今、赤坂に同名あり”とかかれています。設置者: 千代田区
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清水濠にかかるアーチ橋。写真では2径間にみえるが、実際は3径間。

「大正一五年五月竣工」、「千代田区 平成五年三月改修 施工(株)大林組」

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竹橋(たけばし)は東京都千代田区北の丸公園にある橋である。清水濠の上に架り、一ツ橋一丁目と北の丸公園とを結んでいる。
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正面に見えるのはパレスサイドビル。毎日新聞社です。

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2013年03月30日

千鳥ヶ淵公園・2013桜

昨日 3・29に花見に行ってきました。天気は曇り、花見にはいい日でした。
満開で風が吹くたび花びらが舞って とてもいい花見でした。
内堀通りと新宿通りの交差点 半蔵門の前に千鳥ヶ淵公園(ちどりがふちこうえん)入口があります。
「1919(大正8)年に明治期の市区改正事業の一環として開園した。内堀通りと皇居の半蔵濠に面し、半蔵門から千鳥ヶ淵交差点までの間が公園となっている。南北約450m、東西約20mと細長い形をしており、お堀側では皇居と、内堀通り側では駐日英国大使館と向かい合っている。」桜のきれいな公園です。
皇居前広場や北の丸公園が環境省の管理であるのに対して、ここは千代田区の管理する公園です。
この公園入口の案内板には、大正8年(1919年)に「都会の児童を交通禍から護る」という趣旨で作られたと書かれています。
しかし・・大正時代にも交通事故があったのか・・・と。
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北の丸公園に通じる道路によって、千鳥ヶ淵と半蔵濠に分けられたためか、半蔵濠に面していますが、名前は千鳥ヶ淵公園となっています。
千鳥ケ淵公園には、ソメイヨシノやヤマザクラなど約170本の桜があります。さくらまつり期間中は、花見客でにぎわいます。
入るとすぐに 「自由の群像」が」目につきます。
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マスコミ功労者の顕彰記念像のひとつ。広島・平和記念公園の「原爆の子の像」 の作家・菊地一雄の制作によるもので、昭和30年(1955)11月3日文化の日に除幕式が行われた。三人の男性ブロンズ像は「自由」「自尊」「進取」をあらわしているという。  
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対墨日本人移住百周年記念碑 
メキシコ国民より日本国民へ贈呈
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第一東京市立中学校発祥之地
千代田区立千鳥ケ淵公園の南端に「第一東京市立中学発祥之地」の碑があります。
  第一東京市立中学校は、大正13年(1924)に開校しました。昭和2年(1927)年九段上の移転。昭和18(1943)年都制施行に伴い都立九段中学校となり。昭和23年 (1928)学制改革によってを都立九段高等学校となりました。
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麹町小学校校舎跡碑
現在は麹町2丁目、アイルランド大使館近くにあります。
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消防練習所跡地
いろいろな石碑が目につきますが 今回の主役は桜です。
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ここは桜の根元を保護するため丸いガードが設置されています。
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紅枝垂れが美しい。
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展望台のようなものが設置されていていました。
濠が見渡せます。
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桜並木を北上します。
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さくらと菜の花のコントラストが美しい・・
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ここが 公園の終了の絶景ポイントです。
千鳥ケ淵交差点で右折、代官町通りへ むかいます。

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2013年03月29日

銀座・ヨネケイビルディング

都銀座2丁目の中央通りにあるメルサ銀座2の裏側の通りに都選定歴史的建造物 ヨネイビルディング があります。。
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ヨネイビルディング 旧米井商店本社ビル
都選定歴史的建造物

所在地    中央区銀座 二丁目8番20号
建 物    建設年 昭和 5 (1930)
設計者    設計者 森山松之助
構造・規模  木造一部 SRC造 6階
調和性を重視した「ストリートアーキテクチャー」の一例。
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「ヨネイビルディングは、震災後、銀座に林立したオフィスビルの中で現存し、当時の趣を維持しているビルの一つであり、建てられた頃は銀座が大きく発展し、モボ・モガが街を闊歩していた。
 1階の外壁は、建築当時の状態をよく残しており、中世ロマネスク風の意匠で、らせん模様の柱をとつつけた大小のアーチ窓が石張りの重厚な壁面に軽快な印象を与えている。全体に調和生を重視した意匠で、突出したー直線の帯状の装飾により輪郭をきっちり枠どっている。
 東京都生活文化局」
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1階部分は、竣工当時の状態を残していて、 中世ロマネスク風の螺旋模様の柱をもつアーチ窓が特徴的です。
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ちなみに、NHKの連続テレビドラマ「梅ちゃん先生」で梅子の姉・松子の勤務する会社が入居するビルとしてロケが行われたそうです。

銀座に A.レーモンドの設計したビルがあります。
教文館・聖書館ビルです。
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教文館・聖書館ビル
中央区銀座4-5-1 /1933年竣工
設計:A. レーモンド /SRC造9階・一部8階
1885年(明治18年)創業の老舗。現在の社屋は銀座通りと松屋通りとに面した場所に構える。2011年12月現在、路面店として営業している銀座で唯一の書店である。
改装が繰り返されたようで竣工当時の面影はあまりないそうです。
内部のエレベーターや床に面影が残っているらしいです。

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2013年03月28日

銀座・レトロな建物

大通りから一歩裏に入るとノスタルジックなレトロ建築があります。
1932(昭和7)年竣工の銀座アパートメント(現:奥野ビル)です。
九段会館や青山同潤会アパートを設計した川元良一の建築。
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現:奥野ビル
中央区銀座1-9-8 /1932年頃竣工 /設計:川元設計事務所/RC造
スクラッチタイル張りの雑居ビル。最上階は明らかに増築と思われます。
スクラッチタイル: 引っ掻いたような表面のタイルで、平らなタイルとは異なる独特の風合いをもつ。大正から昭和初期にかけて流行した。
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現在も入居者がいて 中に入れます。エレベーターに特徴があるそうですが 外観だけ見ました。
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1F玄関の丸窓がレトロな雰囲気です。
裏通りを歩くと 古い建物に気が付きます。
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昭和通りにある竹田ビルです。銀座2-11-6 1932( 昭和7年)施工 最上部は増築です。数少ない戦前派のビルのひとつです。
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銀座に残る戦前のビルですが建て替えになるのか 改装するのかシャッターが降ろされていました。 
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変わらぬ堅実な手仕事が評判を呼ぶ「むさしや足袋店

住所:東京都中央区銀座4-10-1
1874年創業、銀座の一角に静かに佇む老舗の足袋店。顧客には著名な演歌歌手や歌舞伎俳優、芸者衆がいるほか、日本舞踊や茶道の生徒さんが先生にすすめられて、訪ねてくることも多いそうです。
足にあわせたオーダーメイドも可能だそうです。
2月に写したものです。半世紀以上この地で営んでいました銀座むさしや足袋店は11月30日に移転のため閉店しました。
解体ですから 現在はもうこの建物はないかも・・・
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松屋東別館。中央区銀座3-7-9
1927年 設計者 不明 施工:清水組
銀座の松屋デパートの裏の駐車場のさらに裏に建っている古いビル。「震災復興〈大銀座〉の街並みから―清水組写真資料―」によると日本酸素株式会社が本社として建てたビルで、昭和2年に竣工している。清水組の施工である。
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アールデコ調なファザードが特徴。
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posted by うめのはな at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区

2013年03月27日

木場公園の桜2013

昨日26日、雨上がりに木場公園に桜を見に行きました。
木場公園大橋下の菜の花は終わったのかまだなのかわかりませんが 少しだけ咲いていました。
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仙台堀川沿いの桜です。
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深川桜まつりでは門前仲町から大横川を北上し小名木川〜隅田川へと動力船が運航します。
乗ったことがありますが 桜並木が続くいいクルージングでした。
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その向こうにスカイツリーが見えます。
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木場公園バーベキュー広場の桜です。
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枝垂桜も満開です。
木場公園大橋の向こうにスカイツリーが見えます。
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平日で花見客はほとんどいませんでしたが 保育園の子供たちがたくさん遊びに来ていました。
昨日の雨のせいか 花びらが散っていました。
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帰りに 紅白の桜を見かけました。
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2013年03月26日

錯覚美術館・神田淡路町

あんこう鍋のいせ源のそばの路地裏に出世稲荷があります。
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出世稲荷神社 千代田区神田須田町1−11
「青果を商う者が出世し、その奉賽として建立したとも言われます。
関東大震災の為、新宮・町家ともに灰燼に帰しました。幸いにも神璽は柳森神社とともに、偶然神田川いなり河岸に繋留してあった「稲荷丸」という船に奉遷し、猛火を潜り河口を脱出し難を逃れました。
その後戦火も免れ、町内に火災・災厄なく、遠地よりの参拝も多くあります。
火防・商売繁栄・学業成就の神として多大の崇敬を集めております。」
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神田須田町から地下鉄淡路町駅前に行く。
この駅近くに「錯覚」現象を体験できる「錯覚美術館」があります。土曜日だけの開館です。
小さなビルの中華やさんの2階です。
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明治大学/錯覚を数学で解明する新しい研究分野『計算錯覚学』の成果を作品主催しているそうです。
入館すると 丁寧に説明してくれました。
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真四角なのに歪んで見えたり、同じ色が違う色に見えたりと、物の本当の形や色を正確に把握できない人間の「錯覚」現象をテーマにした作品を約35点ほど展示。2010年にアメリカで開催された「世界錯視コンテスト」で最優秀賞を受賞した不可能立体「何でも吸引4方向すべり台」も公開している。
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実際に見たり触ったりできるので楽しいです。
「2枚の画像を重ね合わせると別のメッセージが浮かびあがる「視覚複合型暗号」、静止画なのに色の粒がまたたくように見える「ワープ」、正方形なのに膨らんで見える「膨らみの錯視」、文字を水平に並べているのに斜めに並んでいるように感じる「文字列傾斜錯視」など、さまざまな錯覚を体験できる。」
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へぇ〜とかああ!とか言いながら楽しく見ました。
「君もエッシャーになれる」コーナーなどもあり 錯視の効果をもちいた作品を数多く残したオランダの版画家エッシャーのようなだまし絵をCGで作成することもできます。
小規模ですが とてもいい体験美術館です。

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2013年03月25日

旧万世橋駅(千代田区)

中央線の御茶ノ水駅から神田駅にかけての緩やかなカーブにそってレンガ積みの構造物 が見られます。神田川に架かる昌平橋と万世橋との間に万世橋駅はありました。万世橋から神田駅間ではこのレンガ積みの下の空間は 飲み屋や倉庫のようにして利用されていました。
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旧万世橋駅は1912年(明治45年)に開業した。初代駅舎は、東京駅の赤れんが駅舎と同じ辰野金吾の設計。1923年(大正12年)の関東大震災で惜しくも焼失。
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JR東日本が、東京都千代田区に明治時代に造られた旧万世橋駅の遺構(駅舎跡)を、新商業施設や建設中の環境配慮型オフィスビル「JR神田万世橋ビル」と一体化した形で再開発中。JR中央線神田駅から御茶ノ水駅にかけて伸びる赤煉瓦の高架下にショップが入る他、旧万世橋駅のホーム部にはカフェを出店。2013年春以降、順次開業する予定だそうで、現在工事中でした。
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万世橋から昌平橋方面を写したものです。工事中のシートで覆われています。
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現在の 『万世橋』 は、昭和 5年(1930) に架けられた鉄筋コンクリートのアーチ橋で巨大な親柱を持つ、存在感のある立派な橋です。
神田と秋葉原をつないでいます。
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全長 : 26.0 m  全幅 : 36.0 m  構造 : 鉄筋コンクリート製 アーチ橋  完成 : 昭和 5年 (1930)
区間 : 千代田区 神田須田町 1丁目 - 千代田区 外神田 1丁目  (中央通り)
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【万世橋の変遷】
明治17年(1884) に上流の 『昌平橋』 が洪水で流されると、その代替えに 『めがね橋』 より下流の、現在の 『万世橋』 付近に 木橋 が架けられ、その 木橋 を 『昌平橋』 と呼んだ。
その後、本来の 『昌平橋』 が改架されると、代替えの木橋は 『新万世橋』 と名を変え、 明治36年(1903) に 鉄橋 に架け替えられた時に、正式に 『万世橋』 を名乗った。
これに伴なって、『めがね橋』 と呼ばれた石造の 『万世橋』 は 『元万世橋』 と呼ばれたというが、3年後の明治39年(1906) には解体されている。
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萬世橋停車場と廣瀬中佐銅像
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近くにある写真を見て 東京駅のような赤レンガの旧万世橋駅が見てみたいと思いました。

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2013年03月24日

神田界隈古い建築物・国登録有形文化財

戦災を免れた神田界隈には今も古い建物が散在しています。
外堀通りに東面して建っている国登録有形文化財第一KSビル。旧名を丸菱ビルといい、1925年(大正14年)に建設されたオフィスビルです。
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第一KSビル(旧丸菱ビル) 国登録有形文化財
千代田区神田淡路町2−3
構造:鉄筋コンクリート造地上5階地下1階建、建築面積68m2
建造年・1925(大正14年)
外堀通りに東面して建つ。鉄筋コンクリート造地上5階地下1階建で,多少の改造は見られるが,創建時の姿を良くとどめている。正面は,小口タイルを芋目地に張り,軒蛇腹,胴蛇腹,窓枠等を白く飾る。旧連雀町界隈の商工業発展の様子をよく伝える。
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靖国裏通り沿いに北面して建つのが山本歯科医院(国登録有形文化財)です。
山本歯科医院は2005(平成17)年2月に国の登録有形文化財になり、外観はきれいに保たれているし医院も続いている。
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山本歯科医院  国登録有形文化財
東京都千代田区神田須田町1-3-3
昭和前/1929
木造3階建、亜鉛メッキ鋼板葺、建築面積48u
明治30年以前に現在の神田須田町1-1あたりで創業しました。関東大震災で被災し、昭和3年(1928)に診療所兼住宅として新築されました。震災復興期に見られる看板建築3階建ての建物で、軒蛇腹、看板、菱形装飾などによる正面の外観意匠に、創建当時の特徴がよくでています。 
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当時の診療所併用住宅の基本的なつくりかたで待合室と診療室は2階。外観から見てもわかるが 診療室は天井が高い。、外壁は建設当時は洗い出し仕上げだったのを後に吹き付け材で覆った。平成18年に創建当時の仕上げにもどす工事をしているそうです。
指定文化財ではないけれど 古い看板建築が残っています。
多町大通り面しているのが 栄屋ミルクホール。昭和20年創業の老舗ラーメン店で、昔ながらの正統派東京中華そばを提供するお店として知られます。
屋号は、元々このお店が喫茶店だった事に由来しています。
昭和初期は、喫茶店は " ミルクホール " を名乗り、コーヒーや餡蜜、安倍川餅、カレーやハヤシライス等の軽食、そしてラーメン等を食べさせる店が多かったそうです。
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屋号は、元々このお店が喫茶店だった事に由来しています。
建物の壁面は「看板建築」と言われる銅板製の装飾が施されていますが、銅板が酸化し、青っぽく変色していて昭和の建物だとわかります。
銅板が酸化して青く変色している建物は この界隈ではところどころに見られます。
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万世橋近くのこの建物は 解体されるのでしょうか・・・工事用の塀でおおわれていました。
もうひとつ 気になる建物がありました。
「ぼたん」の前にある建物です。
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インド綿の工房らしいのですが 建物に特徴があるので目を引きます。
建物は関東大震災後、東京再生の時期、昭和3年建造の銅張りの看板建築です。東京周辺の繁華街で流行った建築方法で、パレットと呼ばれる看板が正面上部に付いています。銅張りは火災を防ぐため 流行ったそうです。
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外装は、元々の銅張りを生かして銅で対のライオン、ミナール、チャックラ、花びらなどの装飾を加えたとのことです。
手打ちの銅の装飾を加えても違和感がありません。
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角地の立ち食いソバやさん。
後ろの建物との対比が面白い。
この界隈は いろいろ古い建物が残っていますが 文化財でもないかぎり 建て替えられてしまう日もそう遠くないような気がします。

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2013年03月23日

松本家住宅主屋(国登録有形文化財)・神田青果市場発祥の地

神田駅から 神田多町にむかうと通りに面してビルの間に木造家屋がある。
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国登録有形文化財松本家住宅主屋である。
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松本家住宅主屋昭和前/1931

木造3階建、瓦葺、建築面積137u 1棟

東京都千代田区神田多町2-9
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昭和6年に建築された、神田多町問屋街に残る震災復興町家で、多町大通りに面した角地に東面して建つ。木造3階建、切妻造、平入で、正面は出桁造の構えをとり、北妻面は窓の少ない防火に配慮した造りとする。東京の下町における震災復興期の和風町家として貴重である。
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この松本家がある町名は神田多町2丁目ですが 「神田青物市場」があったところです。
神田青物市場は別名、多町市場とも言われました。
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神田多町市場
  「明暦大火(1657)の前には、青物問屋の数は八一軒にも増えたという。大火後に連雀町、佐柄木町の問屋は多町へ合併し多町と永富町の問屋が商いを続けたが多町の問屋集団が次第に盛況となり神田多町市場と呼ばれるようになった。起立時の多町の範囲(一丁目、二丁目)は厳密ではないが、おおよそ現在の多町二丁目全体の範囲である。現在の一八通りの北側(靖国通り側)が市場の二丁目。南側(神田駅側)が一丁目であった。多町一、二丁目の起立時の江戸古町の形は昭和8年の住居表示変更まで約330年続いた。 町名が「田町」から「多町」へいつ頃変わったのかは定かではないが、多町市場に住む人や出入りする人が多くなり、また流通する品物や物資が多くなった事など、町の繁栄とともに「多町」と呼ばれるようになったのではないかと言われている。 
 江戸市中の市場の中でも多町を中心とする神田市場が群を抜いて発展したのは徳川家御用達、江戸幕府御用市場の役目を勤めていたことが大きな要因である。正徳四年(1714)幕府は多町問屋に青物御用を命じた為に永富町の問屋の大半も多町市場に併合され問屋総数は九四軒になり亨保10年(1725)本白銀町に御納屋役所(青物役所)を設立したとある。また一方では、幕府が正徳四年(1714)に竪大工町に青物役所を設立して幕府御用としたという説もある。市場は多町周辺の連雀町、佐柄木町、須田町新石町へと拡大していき、神田多町市場神田青物市場、神田市場などと呼ばれるが、その中心は多町二丁目であった。
 関東大震災後の昭和3年、神田市場は秋葉原へ移転し相対取り引きの形は終わり現在の競り売りの取り引きとなった。その後、市場は現在の大田区東海に移転した。 多町二丁目説明書き」
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交差点近くに神田青果市場発祥の地 の石碑があります。
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神田青果市場発祥の地
千代田区神田須田町1-8付近
「 淡路町の交差点で、西側から靖国通り進み2本目の多町大通りを右に曲がってすぐ、ビルの前に「神田青果市場発祥之地」の碑があります。このあたり一帯は江戸・明治・大正時代を通して巨大な青果市場がありました。はじめは青物市が江戸中に分散していたのが、明暦の大火(1657)以降徐々にここに集まってきたといわれています。
徳川幕府の御用市場として 駒込, 千住と並び 江戸三大市場の随一だったといわれています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から他市場で見られない優秀な青物ガ荷揚げされ、約1万5千坪(約4万9500u)におよぶ広大な青物市場で商われていました。
当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。現在の市場のイメージと異なり、当時は市場の中に町があったのです。周辺の表通りには野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、威勢のいい商いが行われていました。青果市場の別名である「やっちゃ場」はそんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉だといわれています。
大正12年(1923)月関東大震災にあって 市場は全滅しましたが、 直ちに復興し 東洋一の大市場とうたわれました。その後、 昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。千代田区」

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2013年03月22日

神田須田町 都選定歴史的建造物

戦火を逃れたこの辺りには「いせ源本館」(あんこう料理)、「神田まつや」(蕎麦)、「竹むら」(汁粉)、「ぼたん」(鳥すきやき)など、都選定歴史的建造物に指定された老舗の食事処が集まっています。
大通りから一歩入った この一角だけが、昔ながらの雰囲気を保ち続けています。
神田藪蕎麦が焼けてしまって 休業中なためか 同じ蕎麦屋の神田まつやは 昼前というのにすでに行列でした。
麦を食べようと思ったけれど 諦めました。
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神田まつや 都選定歴史的建造物
「蕎麦」
所在地    千代田区神田須田町 一丁目13番地
建 物    建設年 大正 14 (1925)
設計者   不詳
構造・規模  木造2階
 大正14年(1925)。創業明治17年のそばの老舗。かんだやぶそば、いせ源、ぼたん、竹むらなどとともに奇跡的に戦災から焼け残り、連雀町といわれたこの地域に昔ながらの情緒を漂わせています。左右の出入り口の上部に松模様の欄間飾りを施してあります。平面を見れば、入口の部分が土間であったと考えられます。現在、コンクリートが敷いてあります。 【千代田区景観まちづくり重要物件】
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ぼたん 都選定歴史的建造物
「鳥のすきやき」
所在地    千代田区神田須田町 一丁目15番地
建 物    建設年 昭和 4 (1929)
 設計者     不詳
構造・規模  木造一部 RC造 3階
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 竣工は昭和4年(1929)。明治30年頃の創業の「鳥のすきやき」の専門の老舗。
 玄関の格式の高い式台が通りすがりに見えます。入母屋造りで、一部改修されていますが建設当時の界わいの雰囲気をよく伝えています。【千代田区景観まちづくり重要物件】
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いせ源本館 都選定歴史的建造物
「あんこう料理」
所在地    千代田区神田須田町 一丁目11番地
建 物    建設年 昭和 7 (1932)
設計者    不詳
構造・規模  木造3階
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 昭和7年(1937)の竣工。 「いせ源」は、徳川14代将軍家斉の治世、天保元年(1830)の創業。店舗は、創業時から神田連雀町(現在の神田須田町)にあります。関東大震災で家屋が全焼し、その後い、現在の建物で営業しています。
 入母屋造りと2階の欄干に施された、菱形模様の彫りが特徴。木製の看板は建築当時から使用(平成8年補修済)しているものです。
。【千代田区景観まちづくり重要物件】
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竹むら 都選定歴史的建造物
「汁粉」
所在地    千代田区神田須田町 一丁目19番地
建 物    建設年 昭和 5 (1930)
 設計者  不詳
構造・規模  木造3階。外観は屋根と庇で4層に見える。
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 昭和5年(1930)竣工し創業。作家池波正太郎も通ったことで知られる甘味の老舗
 入母屋造りで2階の欄干に竹と梅模様が彫られ、軒下に木製の提灯が下げられています。外観は屋根と庇で4層に見えます。 【千代田区景観まちづくり重要物件】
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この「竹むら」に入りました。
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席に座ると 出されるのが「桜湯」桜のはなびらがかわいいです。
蕎麦を食べ損ねておなかがすいていたので「おぞうに」を注文します。搗きたての餅、大きなかまぼこ、椎茸、三つ葉、海苔が入ります。「搗きたて」というだけでも美味しく感じます。750円
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次にゴマ油の風味が香ばしい 「揚げまんじゅう」を友人と1個ずつ食べました。450円
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手作りのまんじゅうに小麦粉の衣をつけて、カラリと揚げた「揚げまんじゅう」。ゴマ油で揚げたてを食べるので サクサクして美味しかったです。歴史的建造物で食べるのもまたオツなものです。

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2013年03月21日

神田藪蕎麦・ショパン

神田藪蕎麦が火事で焼けたので 神田に行ったついでに 現状を見てきました。(2013年(平成25年)2月19日夜の火災で、約600m2の店舗のうち約190m2を焼失している。)
まだ黄色いテープが張られていましたが、一見無事のような感じでした。しかし 奥のほうをみると 屋根も焼け落ちている建物がありました。
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藪蕎麦 千代田区神田淡路町 二丁目10番地
都選定歴史的建造物
建設年 大正12 (1923)木造2階
設計者    設計者 佐々木芳次郎
板塀で囲まれた、門から店舗まで独特の雰囲気を醸しだした数寄屋造りの建物である。
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1880年、幕末の蕎麦の名店として知られた「団子坂蔦屋」(藪蕎麦)の淡路町店を堀田七兵衛が譲り受けて創業。明治後期に団子坂蔦屋の本店が廃業し、「藪蕎麦本店」の看板を当店が引き継いだ。「江戸三大蕎麦」のひとつである藪系の本家に当たる店である。
現在の店舗は関東大震災後の1923年(大正12年)に建築された数寄屋造りの木造2階建ての建物で、2001年(平成12年)に東京都選定歴史的建造物の指定を受けた。
4代目の店主は「建物は解体することになると思うが、半年後には再開したい」と語っているそうです。
周辺は東京大空襲を免れ、バブル期の地上げにも耐えた歴史的建造物が数多く残る地域です。
東京都選定歴史的建造物を順にみていきますが その前に この藪蕎麦の目の前にある ショパンという喫茶店に入りました。
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東京都千代田区神田須田町1-19-9
昭和8(1933)年創業のこのお店は、もともとは、近くの靖国通り沿いの木造3階建ての1階にあったものが、立ち退きで昭和62(1987)年に現在地に移ったとのこと。店名が「ショパン」というだけあって、常にショパンがかけられています。
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店内は薄暗く 昭和の香りのするなつかしい喫茶店。真っ赤なベルベットの座席に腰掛けるだけでエレガントな気分。ショパンが心地よく流れていてまったりした気分え落ち着きます。ステンドグラスや灰皿などは、前の店から使っている戦前の品だそうです。
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木製の鳥の灰皿、アンティックな椅子・テーブル、家具です。マスターも黒いベストを着ています。
一般のお店の3倍の量の豆を使っているので 頑固な程昔の儘の濃い珈琲と深い香りだそうです。
シヨパンの珈琲は、焙煎は浅くして豆の量を増やしています。贅沢な味とのこと。コーヒーを頼もうと思ったのですがマスターに「濃いですよ」
と言われました。のども乾いていたし おすすめの季節もののいちごジュースを頼みました。
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いちごたっぷり使っているとのとこで 本当においしかったです。そして ホットサンド。これまた ハムとチーズとトマトときゅうりの 昔懐かしい味で美味しかったです。
まったりと音楽を楽しみたかったのですが ほかの客が たばこを吸っていたので 耐えられなくて出ました。
たばことコーヒー。これまた昭和の喫茶店です。また行ってみたくなる素敵なお店です。
posted by うめのはな at 07:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 千代田区

2013年03月20日

清水谷公園・紀尾井坂(千代田区)

清水谷公園は麹町区(現千代田区)清水谷に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、当時の東京市が明治22年(1861)5月都市計画を決定し、 明治23年3月に開園しました。 公園のある辺り一帯は、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあり 、この境が谷であったことと、 紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、 清水谷と呼ばれていました。
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説明板によると、周囲から清水が湧き出して通行人に喜ばれていたことが清水谷の由来らしい。
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谷底であることから地下水が湧出していたのであろうか。説明板の近くに湧水が復元されている。
「清水谷公園」の名は、 この地名から付けられました。
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公園を入った正面に「贈右大臣大久保公哀悼碑」があります。明治11年(1878)に時の参議兼内務卿の大久保利通がこの付近で暗殺されました。同僚の政府官僚により暗殺地に近いこの地に大久保の業績を称える石碑が建立されました。明治21年(1888)に完成した石碑は、高さ約6mにおよび、表面の碑文は太政大臣三条実美の揮毫によります。石碑は、千代田区の文化財に指定されています。
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中央入口から見て大久保公追悼碑の左側に池があります。 小さな滝もあり、 池面に映る周囲の樹木が心を癒します。
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池の左側には、偕香苑という茶室のような建物もあります。
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園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水石枡が展示されていて、水にゆかりの深いところだったことが分かります。
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麹町大通り拡幅工事の際に出土したそうです。
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紀尾井坂−大久保利通暗殺の地
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紀尾井坂は明治初年当時、付近に紀伊徳川家、尾張徳川家そして彦根井伊家の藩邸があったことから名付けられた。
明治11年5月14日。赤坂御所に向かう大久保利通の乗った馬車を島田一郎以下6名の石川県士族が襲った。馬車から引き摺り下ろそうと腕をつかんだ島田に対して、大久保は少しもうろたえず「無礼者!」と一喝した。大久保は斬殺され、これが大久保の最期の言葉となった。

posted by うめのはな at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 千代田区

2013年03月19日

千代田区紀尾井町

ニューオータニ美術館の最寄駅は地下鉄赤坂見附駅です。駅を出ると以前とは少し違う景色です。
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あの赤プリが解体中です。
旧赤坂プリンスホテルは丹下健三氏設計の地上40階の高層ホテル。まだ29年しかたっていませんが 諸事情で解体。現在半分くらいになっていました。新工法の「テコレップシステム」という工法だそうです。
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貴賓館は保存されるそうです。
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東京都千代田区紀尾井町1−2
ここは、江戸時代紀州藩徳川家55万石の上屋敷があった場所です。紀州徳川家は、尾張徳川家、水戸徳川家と並んで徳川家康の直系、徳川御三家のひとつです。歴代の将軍の中では8代将軍の吉宗、14代将軍の家茂の二人の将軍を輩出しています。
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弁慶橋。紀尾井町の東側から南側に水をたたえている弁慶堀に架かっている橋です。
明治22年(1889)に、それまで神田松枝町と岩本町との間にあった弁慶橋が不用になったため、ここに移されました。江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が作った橋であることから、弁慶橋と名付けられたといわれています。
現在の弁慶橋は、昭和60年(1985)11月に改架した、長さ44.75m、幅22.0mのコンクリ−ト橋です。
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赤坂見附から弁慶橋を渡り、ホテルニューオータニ ガーデンコートの前に参議院議員宿舎があります。
ちょうど清水谷公園のすぐ南隣ですが ここが老朽化し、手狭でもあるで、これを壊し、新しい宿舎を新築するという計画があったそうです。
どうなったのかよく知りませんが 清水谷公園は、大都会東京の中心部にある緑豊かな公園として、 貴重な存在です。 
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そんなに老朽化しているとは思えないのですが・・・・
紀州の徳川家、尾張の徳川家、それから、安政の大獄で有名な井伊直弼の井伊家屋敷が近所にあったことから名付けられた地名。それぞれから「紀」と「尾」と「井」を取った。清水谷公園は、小鳥も多く近隣の人のオアシスです。
posted by うめのはな at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 千代田区

2013年03月18日

ジャパン・ビューティー 描かれた日本美人 ニューオータニ美術館

3月16日からはじまった ニューオータニ美術館の「ジャパン・ビューティー 描かれた日本美人」を見に行きました。
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心惹かれる日本美人の競演ということで明治、大正、昭和初期に絶大な人気を博した「美人画」に注目し、三大巨匠と謳われる上村松園、鏑木清方、伊東深水の作品をはじめとする約80点を、前期・後期に分けて展観しています。
「四季の風情」、「雪月花」、「心の内と外(情念と装い)」、「技芸と遊び」の四章に分類して前期・後期に分けて展示しています。日本の四季、風俗、歴史、文学に着想を得た女性表現の多様性や理想美を堪能できます。
主な出品作家
池田蕉園、池田輝方、伊藤小坡、伊東深水、上村松園、岡本神草、甲斐庄楠音、鏑木清方、北野恒富、栗原玉葉、島成園、竹久夢二、寺島紫明、中村大三郎、山川秀峰
雑誌の表紙絵などに使用した絵などもありましたが やはり私は上村松園の絵が一番好きです。
posted by うめのはな at 08:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術館・博物館・芸術鑑賞

2013年03月17日

大横川の河津桜

昨日 木場公園脇の河津桜を見てきました。
横川沿いに咲いています。
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暖かで穏やかな日でしたので たくさんの人が見に来ていました。
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毎年きれいに咲くのですが今年は見ごろになるのが少し遅れました。
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少し色が薄い木もあります。
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急に暖かくなったので そろそろ葉桜になっていました。
そういえば 昨日はソメイヨシノも開花したようです。
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posted by うめのはな at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2013年03月16日

江戸歌舞伎発祥の地

京橋大根河岸青物市場跡の石碑のすぐそば 道路沿いに大型で凝ったデザインの記念碑が建っている。
江戸歌舞伎発祥の地 の石碑です。所在地 京橋3-4先
「江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)中村座の猿若勘三郎が中橋(日本橋と京橋の中間)で櫓をあげたのに始まります。まもなく、市村座がこれに続き、やがて森田座、山村座が上演を公認されました。
  明暦以後、人形浄瑠璃等も含めて芝居見物は堺町、葦屋町、木挽町の3町に限られたので、4座はここに集まり、この3町は魚河岸と並んで最も江戸っ子的な気風を育んだ地となりました。「役者の氏神」といわれた市川団十郎をはじめ、市川団蔵、岩井半四郎、尾上菊五郎などのスーパースターが絶大な人気を得、文化・文政期には『東海道四谷怪談』で名を残した鶴屋南北(四代目)が出現、また、長唄の杵屋六左衛門、囃子の田中伝左衛門なども輩出し、まさに江戸歌舞伎は大衆文化の項点に立つようになりました。山村座が取り潰される原因となった絵島・生島事件(1714)は、この頃すでに歌舞伎が庶民に限らずあらゆる階層の人々を熱狂させるものとなっていたことを示しています。 」
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碑の中央には 勘亭流の書体で「江戸歌舞伎発祥之地」とあり, 和文と英文で 碑文が書かれている。
碑文
「史跡 江戸歌舞伎発祥之地 大谷竹次郎題
寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め 国劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
昭和三十一年七月 江戸歌舞伎旧史保存会」
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中村座の始祖、猿若勘三郎は歌舞伎の「猿若」で、天下の名優とうたわれ、元和8年(1622年)、江戸に下り、「猿若座」(中村座)の櫓をあげました。この地に太鼓櫓を許されたのは寛永元年(1624年)ですが江戸城に近いという理由で長谷川町へ移転、のち境町へ転じています。
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中村座(なかむらざ)は、江戸にあった歌舞伎劇場で江戸三座のひとつ。座元は中村勘三郎代々。控櫓は都座。
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東京都江戸東京博物館に中村座の正面部分が原寸大で復元されています。
posted by うめのはな at 07:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区

2013年03月15日

京橋大根河岸青物市場跡

 銀座1丁目交番側の高速道路下あたりに、京橋大根河岸青物市場跡の石碑があります。
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京橋大根河岸青物市場跡

所在地 中央区京橋3-4先
 寛文4年(1664年)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年(1935年)に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えました。

 冬になると10本まとめにしたたくさんの大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、大根河岸といわれたといいます。
京橋大根河岸生誕350年記念行事のお知らせがありました。
「築地市場青果部の歴史は古くその源は徳川4代将軍家綱の時代、寛文の頃(1661〜1673年)まで遡ります。
平成26年(2014年)にはその源である「京橋大根河岸」の生誕350年を迎えます、
数寄屋橋から京橋に移転、昭和の始めまで「京橋大根河岸」と称し青果物を手広く扱い江戸庶民の台所を賄ってきました。
当時は亀戸大根・練馬大根・小松菜・東京うど・滝野川牛蒡・品川蕪・千寿葱・寺島茄子・馬込人参・内藤南瓜・早稲田茗荷等々の江戸野菜が所せましと商われておりました。
昭和10年(1935年)中央卸売市場が築地に開設されたのを機に当時の問屋集団が卸売会社を結成し入場し今日の市場取引の基礎を築きました。
築地市場は間も無く新設される豊洲市場に移転を致します、設備や取引は近代化をされますが古き良き伝統は守り続けたいと存じます。
その古き良き伝統を忘れない為と築地市場の青果部が日本一になることを祈願しこの行事を企画しました。
平成24年6月から2年間、大根を毎月1回350本を無料配布いたします。京橋大根河岸会 事務局」
毎月 大根を配布しています。今月は3月8日に配布されている様子がTVで放映されていました。
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京橋と京橋川の説明板があり 写真がありました。
大根河岸のにぎわい
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大根河岸
 「大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が火災にに遭った後、水運の便が良い京橋の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、大根河岸も昭和10年(1935)に移転した。
 なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は京橋大根河岸会会員により昭和34年(1959)に建立されたものである。」
京橋
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明治初期(井上安次・版画)中央区立京橋図書館蔵
 「名称の由来について「新撰東京名所図会」では「京橋川に架する橋にて。日本橋、江戸橋に対して名けたるものなり」とあり、また、日本橋から東海道を通って京へ向かう最初の橋にあたることから名付けられたともされる。
 橋の創架については様々な設があり明らかではないが、「京橋区史」によると京は古来より其の名著はる。
創架の年は慶長年間なるが如し」とある。また「新撰東京名所図会」には「創建は詳かならされとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、この橋は慶長年間(1596〜1615)に初めて架けられたと考えられる。京橋は、幾度か架け替えが行われ、明治8年(1875)には橋長11間(約19.8m)幅員8間(約14.4m)の石造りアーチに架け替えられた。その後、市区改正事業に伴い明治34年(1901)に橋長、幅員共に10(約18m)の鉄橋となった。この橋は大正11年(1923)の拡幅工事により架け替えられ、昭和4年(1929)にも架け替えが行われたが、昭和38〜40年の京橋川埋め立てに伴い撤去された。
 なお、京橋の親柱は明治8年のものが橋北詰め東側と橋南詰め西側に、大正11年のものが橋南詰め東側に保存されている。」
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明治40年頃・中央区立京橋図書館蔵
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大正・中央区立京橋図書館蔵
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大正初年・京橋 都電と市街  中央区立京橋図書館蔵
京橋川
 「外堀から北紺屋町(現在の八重洲二丁目)と南紺屋町(現在の銀座1丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で川、桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した。延長0,6Km。江戸時代には、比丘尼橋、中之橋、京橋、三年、白魚が架かる。
 その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596〜1615)に行われた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされる。比丘尼橋と中之橋間の左岸には新河岸、中之橋と京橋間の左岸には大根河岸、京橋と白魚橋間の左岸には、竹河岸、右岸には白魚河岸があった。
 京橋川は昭和38〜40年に埋め立てられて、屋上に東京高速道路株式会社の自動車道路がある細長いビルにかわった。現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。中央通りと交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋三丁目4番地先)、京橋の親柱(京橋三丁目5番地先・銀座一丁目2番地先・11番地先)と「煉瓦銀座の碑」(銀座一丁目11番地先)が建っている。」
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昭和2年・大根河岸の朝(川瀬巴水)
太田区立郷土博物館所蔵

竹河岸

 竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せられて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。
 青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。
白魚河岸

 京橋川の西沿岸に設けられた河岸で、享保年間(1716〜1736)南方に設けられた白魚屋敷にちなで白魚河岸と呼ばれていた。
新河岸

 京橋川の北西沿岸の比丘尻橋と中之橋との間にある河岸地で薪炭を扱う問屋が立ち並んでいたことから呼ばれていた。
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江戸名所百景 京橋竹河岸
中央区立京橋図書館所蔵
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昔は運河と河岸の問屋街

 「江戸の人口は中期以後100万とも110万ともいわれ、この膨大な人口を支える物質の供給は、大量輸送のできる海上、河川運輸に頼っていました。海に面した商業地である中央区域には、このための運河や河岸が幾つとなく設けられ、なかでも日本橋川、京橋川、三十間堀、八丁堀の河岸は水運の大動脈ともいえる要路でした。日本橋川につながる船入り堀には塩河岸・米河岸・小舟河岸・堀留河岸があり、米穀類や塩物・乾物類の問屋倉庫が白壁を見せて並び、京橋川に沿つては薪河岸・竹河岸等の名のとおり薪炭・竹木類を扱う問屋が並んでいました。
  また、海産物は室町1丁目から小舟町にかけての日本橋川に沿った一帯に魚市が立って、大いに賑わいました。
  このように商業活動が盛んになってくると、商人たちの間で組織がつくられるようになりました。日本橋では元禄7年(1694)大阪から上がってくる諸荷物の荷受け問屋たちが集まって、海難などの積荷の共同損害保障をはかる十組問屋が誕生。文化10年(1813)にはこれが発展、変化し一種の独占団体である株仲間となりました。なお、魚市場では、本町船組、本小田原組、本船町横店組、安針町組の四組問屋がつくられました京橋と京橋川の案内板より

posted by うめのはな at 08:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区

2013年03月14日

ホテル西洋銀座

京橋親柱の前にあるのが ホテル西洋銀座です。
東京都中央区銀座一丁目11番2号
江戸東京博物館と同じ菊竹清訓氏による設計
銀座テアトルビルの竣工に伴い、87年3月に開業した客室数77室の小規模ホテルであるホテル西洋銀座は、 スモール&ラグジュアリーという独自路線で日本を代表するセレブリティホテル。内装が品がよくゴージャスとのことです。
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2008年11月21日、「ミシュランガイド東京日本語版2009」の「快適なホテル格付け順」で、「黒い家マーク5つ」を獲得しました。
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日本で初めてコンシェルジュサービスを導入し更に全室に日本で唯一の24時間バトラー(執事)サービスを取り入れました。バトラーとは執事のこと。小規模ながら、品格があり、なおかつ温もりが感じられ海外や国内の有名企業のトップや著名人が、自宅のように寛いでいるということです、おもてなしの態勢が整っていて 居心地の良さにリピーターとなった人が多いそうです。“セレブなホテル”としてスケールではなく質で対抗したのがホテル西洋銀座です。
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しかし残念ながらホテルが入居する銀座テアトルビルが売却されることに伴い、「銀座テアトルシネマ」や「ル テアトル銀座 by PARCO」とともに、2013年5月31日をもって営業を終了し閉館することとなりました。
そのお隣にあるのが 警察博物館です。
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警察博物館
東京都中央区京橋3丁目5番1
入り口にピーポくんが見えます。
警察博物館(けいさつはくぶつかん)とは、警視庁の歴史と活動に関する資料を展示している日本の博物館で入場は無料。
1Fに実物の白バイなどが展示されているそうです。今回は外観だけの見学です。
posted by うめのはな at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央区

2013年03月13日

銀座一丁目交番/銀座煉瓦之碑・ガス灯

明治、大正の古い親柱が残る京橋跡に建つ銀座一丁目交番(警視庁築地警察署)は、絵本の中のおうちのようで かわいらしい。
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東京都中央区銀座1-2-4
これは 前出の大正11年(1922)の親柱の柱頭と同じデザインなのです。
1984(昭和59)年竣工 署員から募集したデザインを取り入れ、大成建設の桜井凱昌氏が設計してたのだそうです。
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交番は古い洋館風の煉瓦造りで明治の京橋と銀座煉瓦街を思い起こす雰囲気です。丸窓を中心に、全体に鋭角を排除し造りが温かく感じられます。
交番の前の道路反対側の大正の親柱の隣には「煉瓦銀座の碑」とガス灯が置かれています。
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煉瓦銀座之碑(れんがぎんざのひ)
 
中央区銀座1-11-2/東京メトロ・京橋駅、銀座1丁目駅
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明治5年(1872年)2月26日に発生した銀座大火は銀座全域を焼き尽くし、その猛威は築地方面までおよんだ。当時の東京府知事、由利公正(ゆりこうせい)は、羅災した銀座全地域を不燃の煉瓦造りの街にすることを計画し、煉瓦街が35戸造られた。また、街路照明はガス燈が採用された。
由利公正(1829-1909) 福井藩士の子として生まれる。藩主松平慶永の顧問、横井小楠の実学思想に影響を受け、当時、窮迫していた藩財政の再建に成功、優れた手腕を発揮した。明治政府の発足当初、新国家の基本方針を示した「五箇条の御誓文」の草稿を作成した。その後、東京府知事、元老院議官、貴族院議員などの要職を歴任した。
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明治5年(1872年)の大火の後、街の不燃化が計画されて銀座煉瓦街が建設され、以後この煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物となった。煉瓦街も柳も街の発展とともに姿を消したが、その後煉瓦が発掘されたのを契機に昭和31年(1956年)当時のままの「フランス積み」という方式で再現し、そこに煉瓦の碑が建てられた。
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 碑のそばには明治7年(1874年)のガス燈の実物が復元されており、さらにその隣には大正11年(1922)に造られた京橋の親柱が残されている。
明治7年に東京にガス灯が初めて点灯された時に、京橋から金杉橋の間に85基のガス灯が設置されたので、京橋は東京のガス灯発祥の地でもあります。
ガス灯は復元保存です。灯柱は当時のものを利用し、灯具は再現されたもので、古い上向きマントル一灯タイプのガス灯です。これは裸火ガス灯だった頃の名残。昭和62年に設置。
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これらの碑のある前の建物は「銀座テアトルビル」です。
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2013年03月12日

京橋の親柱

京橋から銀座へ向かう。中央通りの高速道路下に京橋の親柱が保存されている。
京橋の親柱
区民有形文化財・建造物
  所在地: 中央区京橋三丁目及び銀座一丁目(旧京橋橋詰)
  「京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和34年(1959年)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。

 橋北詰東側と南詰西側に残る2本の親柱は、明治8年(1875)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠(ぎばし)の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。
 一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正11年(1922年)にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。

 京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。」
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 「京橋は日本橋と同時代の慶長年間に架橋されたものです。東京市が区政をしいたとき、その名を採って区名としたほど市民に親しまれ江戸中期にはここの擬宝珠に縄を結んで願うと咳止めに効くといわれました。現在はちょうど高速道路の下となっていますが、橋畔南詰にその一部を残し、京橋記念碑となっています。
京橋は明治8年(1875)、江戸時代の木造の橋より、石造単アーチ橋へと架け替えられました。
 現在、その時の親柱2基と大正11年(1922)に設置された照明設備つき親柱1基が中央通りの歩道に建てられています。
 京橋川は昭和34年に埋め立てられ、京橋も撤去されましたが、明治・大正の京橋の姿をしのばせるものです。 」
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京橋記念碑
所在地 中央区京橋3-5先

 京橋は古来より其の名著しる。創架乃年は慶長年間(1596〜1614)なるの如し。明暦以降しばしば架換へらし大正11年(1922年)末現橋に改築せしる。この橋柱は明治8年(1875年)石造り架換へられたる時乃擬寶珠欄干の親柱をして橋名の書は明治の詩人 佐々木支陰乃揮毛す係るものなり。昭和13年(1938年)5月
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この親柱の形が 交番の建物になっています。

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2013年03月11日

明治屋京橋ビル(中央区)

京橋の中央通り沿いに建つ輸入食材や高級品などを扱うスーパー『明治屋』の京橋店は
民間建築として初めて建物の地下部分と地下鉄銀座線の京橋駅に直結するよう計画して建てられた現存最古のビルです。
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明治屋京橋ビルは明治屋の本社ビルとして昭和8(1933)年3月に建てられました。手掛けたのは辰野金吾などと並ぶ工部大学校(現東大工学部)造家学科一期生、曽禰達蔵の曽禰中条建築事務所です。
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曽禰の晩年(80歳)の作品であり 華美な装飾はないものの、昭和初期のハイレベルな建築技術とイタリア・ルネサンス様式による秀麗な細部装飾が施されたビルです。蛇腹や照明をよく見るととても凝った造りです。
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明治屋京橋ビル
  区指定有形文化財(建造物)
  所在地: 京橋二丁目2番8号
「明治屋京橋ビルは、昭和8(1933)年3月、株式会社明治屋の事務所と店舗を兼ねた本社社屋として建設されました。当ビルは、戦前期に日本で最大規模かつ最良の設計組織と称された曾禰中條建築事務所が設計した鉄骨鉄筋コンクリート造(地上8階・地下2階)のオフィスビルです。
 イタリア・ルネサンス様式による秀逸な建築デザインとともに、昭和初期の高度な建築技術を反映させた貴重な近代建築です。特に当ビルは、曾禰達蔵が手掛けた希少な現存作品で、虚飾を排しつつも繊細かつ華麗な装飾が随所に表現されています。
 また、民間建物では初めて建物地階部分と地下鉄駅とを連結させるように計画して造られており、地下鉄駅と一体化して建設された現存最古のビルとして、歴史的にも文化的にも価値のある建物となっています。
 東京大空襲や周辺の環境の変化を乗り越えて今日まで保存されてきた明治屋京橋ビルは、昭和史を語り継ぐ貴重な文化財であるとともに、近代建築史上重要な建造物といえます」
竣工 :1933年(昭和8年)
所在地:東京都中央区京橋2-2-8
設計 :曾禰中條建築事務所
施工 :竹中工務店
構造 :鉄骨鉄筋コンクリート造、地上8階、地下2階
備考 :平成21年 中央区民文化財、区指定有形文化財
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1・2階は他の古いデパートにも見られるファサード。竣工当初は6・7階がレストラン中央亭の客室、8階が調理場で、アーチ窓の上に「RESTAURANT CHUOTEI」のネオンがありました。
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「アメリカ型オフィスビル」とも言われ ニューヨークなんかもでよく見かける形です。
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地下鉄の入り口です。
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明治屋ビルは耐震化と修理工事を実施して保存されている。隣接地は再開発で大きなビルが建設中でした。出来上がったらあまり目立たなくなるかも・・・。
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2013年03月10日

池之端児童遊園/旧都電停留所(台東区)

不忍通りを歩いていると 動物園少し手前に 都電の電車が見えた。
かつて都電 20系統「池之端七軒町」停留所のあった場所に「池之端児童遊園」が作られたそうです。
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旧都電停留所

 「ここ、池之端児童公園は、かつて都電停留所(池之端七軒町)のあった場所です。
 昭和 30年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸橋-須田町)、37系統(三田-須田町)、40系統(明神町車庫前-銀座七丁目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和 42年(1967)12月に37、40系統が廃止、昭和 46年(1971)3月には 20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留所は姿を消しました。
 平成 20年(2008)3月、都電停留所だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童公園として整備しました。使用したレールは、東京都交通局荒川線で使われたものを再使用しました。台東区」
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都電 7500形(7506号)

 「ここに展示された都電は 7500形といわれる形式で、昭和 37年(1962)に製造された旧 7500形を車体更新したものです。
 旧 7500形は昭和 59年(1984)以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され現在の 7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成 20年(2008)1月まで都電荒川線(三ノ輪橋-早稲田)を走行し、平成 20年 2月 1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。」
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説明板がありました。

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展示目的なので乗車は出来ません。

posted by うめのはな at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 台東区

2013年03月09日

大名時計博物館.勝山藩下屋敷跡(台東区)

谷中小学校から大名時計博物館を目指します。
このあたりは ずいぶんと高台です。それらしきものを見つけました。
立派な壁に囲まれていて古そうですが 随分と広い敷地です。
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入り口に 「大名時計博物館」と書かれた木札が置かれ その横には「勝山藩下屋敷跡」の石標です。
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勝山藩は岡山県旧真島郡2万3千石の藩主とのこと。江戸の下屋敷跡が大名時計博物館になっているようです。
門を入ると“掟”は右の通り。という木札があります。入場料300円と書いてあります。
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広い敷地に樹木がうっそうと生い茂り 古い家屋や倉庫のような建物があります。
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亜熱帯植物が生えていたり 一方で日本庭園の名残もあってきちんと保存されている下屋敷跡の庭園とは思えません。
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奇妙な感じがしていると 庭先で声がして 博物館らしき建物のほうへ誘導します。庭仕事をしていたみたいです。
300円払って 靴を脱いで入ります。中は撮影禁止です。
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沿革と概要

「大名時計は、陶芸家・上口愚朗が生涯にわたり収集したものです。江戸時代の貴重な文化遺産を長く保存するために、昭和26年3月
{財団法人上口時計保存協会」を勝山藩の下屋敷跡に設立、初代の理事長になりました。
昭和45年{10月上口愚朗没後、二代目の上口氏などが昭和49年4月「大名時計博物館」を開館。親子に二代にわたり設立した博物館です。」
特色

「大名時計は、江戸時代に「大名のお抱えの御時計師達が、長い年月をかけて手ずくりしたものです。
制作技術・機構・材質などの優れた「大名時計」は美術工芸品で、
世界に類をみない日本独特の時計です。時刻は、ヨーロッパで使用された24時間の定時法の時刻とことなり、不定時法を用いています。
不定時法とは、夜明けから日暮れまでの昼を六等分した時計です。夜明けと日暮れは、季節によって変わるため昼の長さと夜の長さが変わり、いっときの長さが変わる時刻です。これらの江戸時代の大名時計を展示し博物館です。」
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大名時計のほかに外国製時計・明治・大正時代の日本製時計・参考文献
東京都指定の有形文化財88点。
掛時計・艪時計・台時計・尺時計・枕時計・印籠時計・御籠時計・置時計・和前時計・香盤時計。
大人:300円 大学生 高校生:200円 中小学生:100円 (団体割引20名以上一名50円割引)

休館日

月曜日   7月1日から9月30日   12月25日から1月14日
館内は30畳ほどの広さでワンフロアという感じ。櫓時計が多いですが、他にも和時計が数種類展示されています。少しかび臭い・・・
見学者は渡地たち2名だけ。あとから一人。大きなもの小さなもの珍しいものなどを見ますが どうにも落ち着かない。ここは耐震は大丈夫なのだろうか・・などと少し心配。
靴を履いて庭に出れば またうっそうとした庭があり、石像があり 廃車になった自動車があったりもして きつねにつままれたような 雰囲気で敷地をでます。
帰りは屋敷の東にある「三浦坂」を下ります。
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勝山藩主(幕末慶応の頃に藩名を真島藩と改めた)は三浦氏でこの名がついたそうです。
『御府内備考』は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政三年(一八五六)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
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三浦坂を下っていくと「ねんねこや」という猫だらけのお店があります。
全てが猫関連という“猫スポット”で飲食もできるようです。
言問通りに出て 根津駅をめざしました。

posted by うめのはな at 07:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 台東区

2013年03月08日

三崎坂/旧谷中三崎町

千駄木駅からさんさき坂を登る。
三崎坂千駄木駅に通じる三崎坂通りにあるせんべい屋さんです。
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「団子坂 菊見せんべい総本店」です。明治8年創業という老舗です。四角い堅焼き煎餅が名物で、文豪にも愛された味だそうです。
三崎坂(さんさきざか)
「三崎(さんさき)」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。
 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会」
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旧谷中三崎町という下町まちしるべの案内板がありました。
旧谷中三崎町
上野台と本郷台の間が入江だった頃、駒込、田端、谷中の三つの丘が岬のように見えたことに因んだ町名
江戸時代の元禄年間(1688-1704)には谷中とは別の町屋となっている。1871(明治4)年に谷中三崎町南側、谷中三崎町北側と2地区に分かれるが、1873(明治6)年には大円寺など六ヵ寺を合わせ江戸時代と同様の谷中三崎町となった

三崎坂下の文京区との区境には藍染川が流れていて、暗渠化した跡はクネクネと曲がった道となった。「へび道」という。
こんな要旨で書かれています。
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坂の途中にある いせ辰 谷中本店
千代紙で有名ないせ辰です。江戸後期の元治元年(1864)創業という老舗です。千代紙と和文具、おもちゃ、縁起物の張子などの江戸民芸小物が所狭しと並べられています。
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台東区立谷中小学校三崎坂の中ほどに位置している
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この学校の正門は何と入母屋式で瓦屋根という古風な作りになっている。しかも正門に続く壁は黒字に白の格子の入ったナマコ造りである。
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通りに面して大名時計のモニュメントがある。時代劇のセットのような感じです。谷中の町にふさわしい建物。同校は明治35年(1902)の創立で、この校舎は平成3年に完成した。
この大名時計のある前庭をすぎ右折して 「大名時計博物館」に向かいます。海外から来た時計(定時法)を和時計の不定時法に改造したものそんな和時計を集めた私設博物館です。

posted by うめのはな at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 台東区

2013年03月07日

旧安田楠雄邸見学(千駄木)

「台所」には 床下収納があり収納棚も当時としては画期的なもの。「鈴木式高等炊事台」と呼ばれ特許が取得されていた大正時代 当時のシステムキッチン。天窓がズラリと取られ明るい台所です。使用中で中に入ることはできませんでした。木の冷蔵庫が見えます。
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浴室のシャワーは珍しい。ボイラーで沸かされた。洗い場は広い。
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2階に行きます。
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2階書院
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障子が美しい。
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2階大広間、床の間
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二階からの眺めも美しく 目の前に枝垂れ桜の木があります。
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長い1本の丸太を使っています。
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二階の水屋の天袋のふすま紙は水ころもだそうです。
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1階に下り 明るい廊下を渡って玄関に向かいます。
玄関から奥へ建物が雁行しています。どの部屋も南向きで 明るいです。
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旧安田低はお庭も素晴らしくよく手入れされています。
藤田氏が建物や庭園に凝らした趣向の数々に魅了され、安田家の方々がそれらを守ったために、大正時代の意匠をそのまま見ることができます。いつまでも大切に保存していって欲しいものです。

開館日:水曜・土曜10:30〜16:00
維持修復協力金:500円
見学時 靴下着用のこと。持ち物は受付に預けます。
布の素敵な袋物が貸し出され 貴重品のみ入れます。
posted by うめのはな at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 文京区

2013年03月06日

旧安田楠雄邸庭園(東京都指定名勝)

旧安田楠雄邸庭園に行く。
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文京区千駄木にある大正の近代和風建築として、東京都名勝として一般公開されています。大正7年、豊島園の開園者として知られる藤田好三郎がこの地を取得し、邸宅を建設しました。
大正12年、安田財閥の創始者安田善次郎の娘婿善四郎が購入し、昭和12年に長男楠雄が相続した。関東大震災と第二次世界大戦の被災を免れほぼ完全な形で残され、庭を含めた屋敷の環境がよく保存されていました。平成7年楠雄氏他界の後、遺族から財団法人日本ナショナルトラストに寄贈され、歴史的建造物として修復管理されています。
■施工:清水組
■所在地:東京都文京区千駄木5-20-18
■用途:住宅
■竣工:1919年
■構造:木造   
<土地>1486.03平方メートル  
<建物床面積>599.56平方メートル                  
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建物は、伝統的な和風建築の書院造数寄屋造を継承しながらも、内部に洋風の応接間を設けるなど、和洋折衷のスタイルも取り入れた造りです。施工は現在の清水建設が当時の粋を尽くし、当時は珍しく高価であった国産「栂材」を多用しています。外観は室町時代の書院造りの意匠の「鵜形」、内部建築は、和室は備後たたみを敷き詰め、建具の組子は全て面取り漆の額、玄関の格天井など贅沢なつくり。
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玄関を入るとすぐ電話室があります。
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畳敷きの廊下が美しい。
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この建物は基本的に和館だが、応接室とサンルームだけは洋風となっている。
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蓄音機が見えます。ピアノも戦前の製品らしい。大正手漉きガラスです。
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いす用火鉢です。下は炭をいれるところ。
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大きな暖炉。造作材は「胡桃」漆喰の白が引き立つ。大正手漉きガラス、カーテンは大正8年そのまま。
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柱に施された動物の彫り物。
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凝った装飾の丸テーブル。
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サンルーム。
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約450坪の広々とした敷地にゆったりと建てられた本格的な木造建築で 庭園は美しいです。
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残月の間には雛飾りがありました。(前述)
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屋根のひさしが幅広く 日差しや風雨を防ぎます。
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格天井は決して華美ではないが、きれいな市松模様をえがいている。
残月の間の隣は:家族の生活空間である茶の間。
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三代のお写真が・・・
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このふすまの中は水屋です。
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廊下を隔てて 前は台所です。
posted by うめのはな at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 文京区

2013年03月05日

千駄木・団子坂

千駄木駅から 団子坂を上る。
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坂の途中に団子坂の由来という説明版がありました。
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  団子坂      文京区千駄木2と3の間
「潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」(御府内備考)
 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 文京区教育委員会 平成10年3月」
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 坂の途中の 立派な石垣が気になります。 
団子坂を上り切った右側に今も古い石垣塀が残る。戦前は岡本銀行頭取岡本善治邸であったとのことです。
現在は日本中にある「薮そば」の元祖は団子坂に江戸時代開業したそうです。堀田七兵衛が「幕末の名舗、団子坂の蔦屋の連雀町店を明治13年に譲りうけました。「団子坂蔦屋」(蔦屋の周りは、竹やぶが多く、何時しか客が屋号を言わず「藪蕎麦」と呼ばれるようになったそうです。
団子坂は『菊人形』発祥の地でもあります。秋になると団子坂の両側には菊人形の小屋がたちならんだということです。
旧安田邸・島薗邸は団子坂を上がり1つ目の信号を右折します。するとそこはお屋敷町です。
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倉のあるような大きなお屋敷が点在します。
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マンションも多く見られますが閑静な高級住宅街です。
千駄木3丁目は、林町と呼ばれ、高級住宅街として有名な街です。
「お屋敷町」は、明治末期には銀行の頭取たちが多く住み、銀行通りと呼ばれていた。安田邸もその1つで、実業家藤田好三郎氏(遊園地豊島園の創設者)が建て、後に安田財閥の安田家が譲り受けて住んでいました。
その旧安田邸をすこしすぎると 文京区教育委員会の文化財表示板があり作家の宮本百合子さんの生家跡と書かれていました。
現在は中條邸の門柱が残っているだけです。
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旧安田邸に入る前に腹ごしらえ。フレンチレストラン「ブラッスリー・ペルル」でのランチをいただきました。
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まわりに飲食店などないこの高級住宅地では貴重なお店ですので 予約席が多くて早く行かないと席がありません。
本格派のプチフレンチ店ですがカジュアルレストランと称して気軽に利用してもらいたいとの店の意向が、、価格も安く、味も良く、感じのいいお店でした。ランチは1900円のコースです。紅茶か珈琲つき。美味しかったです!
満足してお店を出れば 順番待ちの人がいました。
旧安田邸に向かいます。
posted by うめのはな at 07:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 文京区

2013年03月04日

横山大観記念館(台東区)

上野・池之端にある横山大観記念館に行きました。
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横山大観記念館
東京都台東区池之端1−4−24
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台東区の史跡にも指定されている京風数寄屋造りの記念館は、大観が生前暮らしていた客間・アトリエなどを、そのまま展示スペースとして公開しており、建物の随所に大観ならではの工夫が凝らされています。
門の前には横山大観顕彰碑があります。
横山大観顕彰碑

「横山大観先生は近代日本画壇の代表的巨匠である 明治元年水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸に生れ 本名を秀麿 母方の横山の姓を継ぐ。明治26年東京美術学校卒業 校長岡倉天心に愛されて 終生大きな感化を受けた 明治30年東京美術学校助教授となったが1年で職を辞し岡倉天心が創設した日本美術院に下村観山 菱田春草とともに日本画の革新運動を起こした その後美術研究のためインド ヨーロッパ各地及び中国などを視察し 師天心の思想である東洋の理想をうけつぎ 新しい日本画を創造した。
明治45年からこの地に居し 画筆をとる 昭和10年帝国美術院会員 昭和12年第1回文化勲章受章
代表作に「無我」「瀟湘八景」「生々流転」の他多くの水墨山水 富士山などがある
昭和32年5月台東区名誉区民に推載された 昭和33年2月歿 90歳

昭和43年10月 東京百年を記念し建立する 東京都台東区長 上條貢」
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ここをくぐると受付があります。
開館日:木・金・土・日曜日 
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紅梅が咲いていました。
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玄関前です。
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ここが玄関です。
靴を脱ぎます。この先は 撮影禁止です。
「西洋画の画法を取り入れた新しい画風の研究を重ね、「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる線描を抑えた独自の没線描法の絵画を次々に発表していった、近代日本画壇の巨匠と呼ばれる横山大観。彼が生前に語っていたのは「私の死後はこの土地を財団法人に寄付し、公的資産として、日本美術界のために役立てて欲しい」。という思いでした。この思いを受け遺族や日本美術院同人・関係者らが大観の作品や遺品、画稿、習作、スケッチ帳を寄贈し、1976年9月1日に「財団法人横山大観記念館」が設立されました。」
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企画展「富士づくし
2013年1月10日(木)〜3月31日(日)
「大観は富士をこよなく愛し、特に後半生は多彩な富士を描いたことでも有名です。 横山大観すなわち富士という印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか。 企画展「富士づくし」では、「霊峰飛鶴」を始めとする富士を主題とした作品を中心に富士、筑波、日本アルプスの山々を描いた27mにもおよぶ絵巻作品「四時山水」なども展示。大観の心がとらえた美しい日本の風景を存分に堪能することができます。 」
建物の構造や内装のデザインには、大観の画家ならではの工夫が凝らされており、見どころのひとつとなっています。
客間の柱などは節の残る丸太をそのまま使用しています。晩年は2階に上がることができず 一階の第二客間を画室として使用しました。

先日訪問した世田谷の旧小坂邸に疎開していたこともありますが 昭和20年の東京大空襲により旧住居が焼失したため、大観はしばらく熱海伊豆山の別荘に移り住みました。また角間温泉(長野県) 安代館別館 嶽心荘は昭和初期に 横山大観の別荘として建てられたものです。名付けたのは大観自身で、今も「嶽心荘」と直筆で書かれた書が大広間に飾られている。四棟からなる建物は百十坪、庭園は千五百坪で、囲炉裏、アトリエ、居間、浴室などがある。現在は旅館として使用されています。

和風建築の邸宅と 日本庭園。撮影ができず残念ですが 案内の人が丁寧に説明してくれました。習作・スケッチや陶磁器、着物の絵付けなども展示されていますし 交流のあった画家たちの写真もあります。作品は 各部屋に溶け込むように展示されていて 違和感無く建物と作品を楽しむことができました。

posted by うめのはな at 08:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 台東区

2013年03月03日

台東区立下町風俗資料館(上野)

上野公園 不忍池のほとりにある台東区立下町風俗資料館に行きました。
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台東区立下町風俗資料館は、昭和55年(1980)10月1日に、不忍池畔に開館いたしました。
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台東区立下町風俗資料館 台東区上野公園2番1号
主に、江戸時代から昭和時代中期くらいにおいて育まれた東京下町の文化的資料を扱う。「庶民の歴史である下町の大切な記憶を次の世代へ伝える目的で開館しました。
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3月3日はひな祭り。この日、古くから女の子のいる家ではひな人形を飾りました。
館内に再現された商家は表通りに面した大店(おおたな)なので、ここに飾ったひな人形は、壇飾りの立派なものです。
長屋の銅壺屋には、紙びなを展示しています。
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1階部分は、大正時代の下町の街並みを再現している。駄菓子屋、銅壷(どうこ)屋の長屋、向かい側の商家で構成される。
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駄菓子屋
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長屋
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紙ひながあります。
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1階には当時の電話ボックスや人力車も展示されている。
2階部分は、時折企画展示も行われる。ベーゴマ、けん玉など、昔の遊びが体験できるコーナーや、銭湯の番台やカフェがある。
台東区を中心とした下町地域にゆかりの資料や写真も展示していますが 2階部分は撮影禁止でした。
ここだけではなく 同じような資料館は江東区に 江戸深川資料館があります。大規模なものは江戸東京博物館、昭和館などがあります。そして各区にも郷土資料館があって 江戸東京の移り変わりを学ぶことができるようになっています。

posted by うめのはな at 09:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術館・博物館・芸術鑑賞

2013年03月02日

旧安田楠雄邸のひなまつり(文京区千駄木)

前から一度行ってみたかった 旧安田楠雄邸のひなまつりに行ってきました。
なにせ5日間だけなので 今年こそは!と予定に入れていました。
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旧安田楠雄邸[東京都文京区千駄木5-20-18] 安田楠雄氏は、安田財閥の創始者・安田善次郎の孫.
旧安田邸歳時記:上巳の節句(旧安田楠雄邸のひなまつり) 2月27日(水)〜3月3日(日) 5日間連続公開
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「旧安田楠雄邸では、五節句行事を定番として行っています。人日の節句に続いて、今年も上巳の節句(ひなまつり)を行います。安田家から寄贈された七段の雛飾りは、昭和7年生まれのご長女のために誂えられたもので、昭和16年生まれの次女の内裏雛も最上段に並びます。三代永徳斎作の人形の美をお楽しみください。」
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残月の間に飾られています。
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七五三のときの可愛い着物もありました。
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日本橋・ 三代目永徳斉の作
これらの見事な人形を作った三代永徳斎は彼は1904年のセントルイスで行なわれた万国博覧会のために渡米し、日本展示館の茶業組合の陳列装飾担当者として御殿風の部屋の中に、茶の湯の式に臨む等身大の生き人形(生きた人間のように見える人形)2体を制作しました。それらが目に留まり20年もの間アメリカで、博物館の産業館用の作品を作り続けました。
その後60歳を越えてから日本に戻り、明治から昭和初期に三代にわたって、皇族や財界人らに愛された人形師「永徳斎」(えいとくさい)一族の第三代目となります。日本の伝統的な巧みの技が、100年以上も前にアメリカに持たらされたことは驚きですが アメリカでの作品はほとんどが失われており長い間アメリカにいたのに どうやって人形つくりの技術を磨いたのか謎でした。旧安田邸ボランティアの渡米調査が始まりました。少しずつ謎が解けていっただけでなく、三代永徳斎が100年前に作った作品を「チャイナ」と書かれた箱の中から発見しました。それは日本の茶摘みから箱詰めまでの作業を表現したもので、里帰りさせ、日本で修理しました。日本で展示したのち 再びアメリカに戻されました。(その写真もみせていただきました。)アメリカでは 精巧なジオラマのようなものを作っていたのでしょう。まさに日本の技です。100年前に単身渡米し、その卓越した技でアメリカの博物館展示に新しい息吹を吹き込んだ一人の職人が 三代目永徳なのです。
というような話をボランティアの人が話してくれました。
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残月の間にはお茶席が設けられていました。
旧安田楠雄邸内の様子は後日書くことにします。
まずは 雛飾りだけ。
posted by うめのはな at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 台東区