2013年08月31日

小学館ビルなど(神保町駅界隈)

3日ほど前 神保町に行った。 話題になった「小学館ビル」の前を通りました。
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小学館本社(小学館ビル)東京都千代田区一ツ橋二丁目3番1号
竣工年:1967年
高さ:9階
今の小学館ビルは老朽化や現在の建築基準に合致していないという理由で建て直すことになりました。
9月に解体されてしまうということで 8月9日に名残惜しんで漫画家たちが1Fの壁や窓に漫画を描きました。それがまた25人の豪華メンバーの生絵ということで 噂になり人がが集まり 報道され とうとう整理券をくばり 内部公開をしたあの「小学館ビル」です。
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今月26日には白いカバーをして内部が見えないようにしてしまいました。
翌日に通りかかったので すでに白いカバーがガラス窓にかけられていました。
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それでも 女子高生らしき制服を着た団体さんが2〜30人出てきたので 特別に見せているんだろうなぁ・・と。
新社屋は2016年春に完成するそうです。みかけはまだまだ 大丈夫そうなんですけどね・・・
隣は集英社ビルです。
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集英社神保町ビル(集英社本社)東京都千代田区一ツ橋2-5-10
竣工年:1990年
高さ:10階
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その並びには救世軍日本本営のビルがあります。
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神田神保町ビル 東京都千代田区神田神保町2-17
竣工年:1985年
高さ:10階
キリスト教の教派団体「救世軍」の日本本営/神田小隊がおかれている。
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この3つのビルは神保町の駅のすぐそばです。

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2013年08月30日

平井聖天・燈明寺4(江戸川区)

山門正面にあるのが聖天堂です。
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聖天堂は燈明寺の別堂で妻沼聖天(埼玉県)待乳山聖天(浅草)と並ぶ関東三聖天と呼ばれています。
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文字が読めません・・・
この聖天堂は、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、昔から多くの人の信仰を集めているそうです。
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聖天堂下の左に手水舎があります。
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水は出ていませんでした。
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平井聖天堂:安政年間再建
「社前に鳥居3基を立。頗荘厳の社宇なり。都下及近郷の人平井聖天とよび崇尊の輩多しされど、本社以下の造営中興、恵祐が時なりといへば、その繁栄するも古きことにはあらざるべし。新編武蔵風土記稿による縁起」
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向拝竜
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 水引虹梁
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木鼻の獅子
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本堂も聖天堂石段を上った高いところにあります。
眺めがいいです。
石段の上からは 隣の諏訪神社の屋根が見えます。
次回は 諏訪神社に行ってみます。

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2013年08月29日

平井聖天・燈明寺3(江戸川区)

山門を入ると 左側に燈明寺鐘楼堂があります。
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鐘楼堂
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そして右側に 石段を上った高いところに本堂があります。
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平井聖天燈明寺
正式名 : 明雅山 明王院 燈明寺
本尊 : 不動明王
宗派 : 新義真言宗
創建は平安時代と伝えられますが、江戸時代中期には荒廃し享保年間(1716〜35)に京都から赴任した恵祐法印によって再興されました。安政の地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災渦にあいまたが、当時の関澄道貫主(二十六世)によって京都宇治平等院風の三屋根造りの優雅な本堂が建立されました。
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本堂 三屋根造り 軒ぞりの優雅な佇まい
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外部は宇治平等院や京都東寺金堂の様式を取り入れた格調高いものである。
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燈明寺金堂

「この寺は明雅山明王院燈明寺と称し新義真言宗で、弘法大師(空海)を高祖と仰ぎ宗祖興 教大師(覚鑁)の教旨を汲む寺である。本尊は弘法大師一刀三礼の一寸五分(3.6cm) の不動明王を御内佛として一丈三尺(3m)余りの大不動明王を安置して世に出世不動と して数多の尊信者を受けている。
徳川時代成田不動尊参拝の方一夜の宿霊所として殷賑を極めていた。堂は金堂造りで澄道 大僧正の発願により、元宮内技師中里清五郎氏の設計によって昭和4年に起工・昭和49 年に実に45年間の歳月を費して完成したのである。総高さ14.4メートル巾17.1 メートル 奥行27.0メートルで外陣は入母屋造りで奥院は寄棟宝形造りである。

奥院の内部は飛鳥朝風に造りで天井は法隆寺夢殿にみられる雄大な折上格天井である。 外部の屋根は重層にして二重(たるき)の 扇で豪華なものである。また上層の肘木桝 組は唐様詰組下層同様二重で天平風の肘木 が付けられ三方盲詰組である中棟は左右に楽部屋があり中央は平安朝風の総折上げ格天井 で格調高い唐様詰が施工されている。ここには4枚にわたる橋本高昇る作の半肉彫の「釈 迦一代記」の彫刻がある。
外陣は折上げ格天井で中央には明治初年より鹿鳴館に使用したイタリー製シャンデリアが 寄贈されている。宇治平等院、京都東寺金堂と同様外部はわが国でも珍しい三ッ屋根造り である。堂の用材は総欅造りである。 境内 案内板より 」
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もともとの本堂は関東大震災で倒壊したため、15年の歳月をかけて昭和19年に完成したのが現在のお堂です。
金堂の柱は石の台座に置かれただけのものだが日がs日本大震災3.11の地震の時も何も問題はなかったそうです。
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金堂の2階。高い天井の中央に『鹿鳴館』の大広間を照らしていたメインのシャンデリアがあるとのこと。
昭和15年に『鹿鳴館』が解体された折、調度品類が競売にかけられ、その際に何かの縁でこのお寺に引き取られたとのこと。
本堂にシャンデリア。一度見てみたいです。

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2013年08月28日

平井聖天・燈明寺2(江戸川区)

平井聖天・燈明寺がこの地に建立されたのは1000年ほど前で、当時辺りは「平江」と呼ばれていた。徳川八代将軍ほか歴代将軍が鷹たか狩りに訪れたとき御膳所として使用された格式ある寺で「白鷹の聖天」とも呼ばれたという。
江戸図会名所にも描かれ、数多くの文人墨客が訪れていたようです。
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『江戸名所図会 7巻』より「平井聖天宮(ひらいしょうてんぐう)」
長谷川雪旦(はせがわせったん)画 天保5〜7年(1834〜1836)刊
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「新義真言宗で、明雅山明王院と号します。山門を入った正面に見える聖天堂は燈明寺の別堂で、妻沼聖天、浅草待乳山聖天とならぶ関東三聖天の一つとして知られています。
草創は平安時代と伝えられますが、江戸時代中期には荒廃し享保年間(1716〜1735)に京都から赴任した恵祐法印によって再興されました。
歴代将軍が鷹狩りのときに御膳所に使用したほか「江戸名所図会」にも描かれ、文人墨客も多く参詣しています。
 その後、安政の地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災禍にあいましたが、当時の関澄道貫主(26世)によって京都宇治平等院風の三屋根造りの優雅な本堂が建立されました。
 澄道貫主は文人としても知られ、正岡子規や伊藤左千夫らと親交が深く、境内の茶室は左千夫の設計によるものです。
 平成5年(1993)3月 江戸川区教育委員会」
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弘法大師の文字が見えますが・・この像でしょうか・・・
入口入ったところにあります。
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百度石
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その隣の石塔
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南葛八十八ヶ所霊場の65番札所像
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赤い帽子をかぶった稚児を抱くお地蔵様
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茶室の説明板なのですが この板のそばに茶室らしきものがないのです。
後ろを振り返ると それらしきものがありました。
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たぶんこれだとは思うのですが・・・新しそうなんです。
当寺の先代澄道大僧正は明治の歌人・小説家として知られている「伊藤左千夫(いとうさちお)と親交が深く、その縁で左千夫自身が茶室を設計したものだそうです。伊藤左千夫は茶道にも通じており、同時代に活躍した正岡子規から「茶博士」と呼ばれるほどだったようです。
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伊藤左千夫はこの寺にたびたび訪れていたたそうです。
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2013年08月27日

平井聖天・燈明寺 1(江戸川区)

錦糸町駅からJR総武線に乗り平井駅に行く。
旧中川を渡ると 江戸川区です。
平井駅は1899年(明治32年)開業。南口の平井駅前通りには商店街がある。 北口はかなり広いロータリーになっている。
JR「平井駅」北口から150mほど歩くと蔵前橋通りがあり、信号を渡りそのまま150mほど直進すると 目の前に天空にそびえているような燈明寺のご本堂が見えてきます。
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平井聖天・燈明寺です。
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石柱に「燈明寺」と刻まれています
 区指定史跡
  江戸川区平井6−17−30
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山門に丸彫りの石造仁王一対がある。
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小柄で堅太りの金剛力士像です。
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立派な山門に「聖天宮」の文字
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平井聖天の歴史を感じる山門です。
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内側からみた山門です。
中に入ります。
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2013年08月26日

伊藤左千夫牧舎兼住居跡・歌碑(錦糸町)

JR錦糸町駅南口バスターミナルのある辺りは、歌人伊藤左千夫の牧場と牧舎、及び住居のあった所です。
晩年、亀戸へ移るまで26年間暮らしました。
この場所にかつて牧舎付き住居があったとは 現在の錦糸町からは想像できません。驚きです。
この地に牧場を開き、牛乳の搾取業「デボン舎」を始めました。25歳の時です。
錦糸町駅南口には歌碑と説明板があります。
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 伊藤左千夫牧舎兼住居跡・歌碑
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伊藤左千夫牧舎兼住居跡
所在地 墨田区江東橋3-13 

「この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
 左千夫、本名幸次郎は、元治元年(1864)8月18日に上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家の四男として生まれました.
明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。
明治二十二年二十五歳のとき本所茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て。乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想「家庭小言」には開業当時の様子について。毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
 左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳のころには正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌「馬酔木」を創刊。
明治四十一年には後継誌「阿羅々木」(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲運を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
 
この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移設)を残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。
隣に建つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月「阿羅々木第一巻第一號」の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月  墨田区教育委員会」
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 左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)(山武市歴史民俗資料館所蔵)
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本所茅場町の牛舎(左から3人目が左千夫)(山武市歴史民俗資料館所蔵)
  岡麗 撮影 明治41年(1908)頃

伊藤 左千夫、1864年9月18日(元治元年8月18日) - 1913年(大正2年)7月30日)は日本の歌人、小説家。本名 幸次郎。
上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。
1913年7月30日、転居先の江東区大島で脳溢血のため急逝し、亀戸の普門院に葬られました。
大正2年(1913)7月30日50歳没。
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よき日には
  庭にゆさぶり
    雨の日は
  家とよもして 
    児等が遊ぶも

                    左千夫
明治43年の大水で本所は壊滅的な打撃を受けました。
本所は水浸しとなり小舟で二階家などに避難したといいます。
伊藤左千夫の牧場も20頭の牛を避難させたそうです。
この時の水害の様子が「水害雑録」に描かれています。
青空文庫
水害雑録 伊藤左千夫

http://www.aozora.gr.jp/cards/000058/files/1036_20585.html
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2013年08月25日

錦糸町駅南口

JR錦糸町駅南口のバスターミナルのあたりは 越前鞠山(まるやま)藩下屋敷のあったところです。
福井県ゆかりの地と知りました。
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藩名  越前鞠山藩(まるやまはん) 別名敦賀藩 一万石(譜代)
初代藩主 酒井忠稠(ただしげ)
安政三年時 藩主(1856年)
七代 忠毘(ただます)
官名 右京亮(うきょうのすけ
居城地(陣屋)
福井県敦賀市鞠山
江戸上屋敷 大名小路(皇居外苑)
江戸中屋敷 高輪南町(港区高輪四町目)
江戸下屋敷
四ッ目通り(墨田区江東橋3丁目 錦糸町南口駅前)3,810坪

JR錦糸町駅ホームです。
ホームからスカイツリーが見えます。電車が入ってきて おもしろい絵になりました。
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階段には 東京スカイツリーは北口から徒歩20分!というポップが貼ってありました。
バスでも 地下鉄でもいいわけですが 錦糸公園を右に見てぶらりと歩くのもいいのかもね。
名所旧跡いろいろあるので 涼しくなったら 行ってみます。
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JR錦糸町駅南口駅前です。テルミナ(駅ビル)
錦糸町駅北口は錦糸、南口は江東橋の街が広がっています。
JR中央・総武緩行線と総武快速線の他にも、地下には東京メトロ半蔵門線の駅もあります。
都バスのターミナル駅でもあり 交通の便はいいです。
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モニュメントを中心に、カラータイルで円が描かれた駅前広場があり、その先にはバスターミナルがあります。
難を言えば このまわりにホームレスらしき人たちが円陣を組んで集まっているのを時折みかけます。
写真の袋は ゴミか 空き缶か・・・・交番が目の前なんですけどね。
この時期は暑いので ガード下あたりにいるのでしょうか・・・
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駅右側の商店街入口です。
もっとも駅前や駅ビルにはさまざまな形態のお店がたくさんあるのでこの商店街は古くからあるものなのでしょうね。
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錦糸町駅前広場に設置してある8鐘タイプのカリヨン時計です。
30分おき?か時報かさだかではないですが キンコンと音楽が流れてきます。
現在の錦糸町は 競馬JRA ウインズ錦糸町町駅前がありますし、 外国人が多いことで 飲食店なども多い街です。
夜は少し危険な場所だそうです。
しかし その昔この辺りは大名・旗本・御家人の屋敷の密集していたところであり、商家は無く、全く森閑としたところだったようです。
明治期には、この場所で伊藤左千夫が牛舎を構え牛乳の製造・販売を行なうとともに、主宰誌『馬酔木』を創刊・発行したそうです。このことを記念して、錦糸町南口前には歌碑が建てられています。

posted by うめのはな at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 墨田区

2013年08月24日

福井三国サンセットビーチの写真

春五月に一通のメールが届いた。ふるさとにある温泉施設ゆあぽーとの運営会社からでした。
このブログに載せてあった 写真を宣伝用パンフレットに使いたいと 使用許可を求めたものでした。
何より驚いたのはこの温泉施設は 町の施設だったはずなのにいつの間にか 民間会社のものになっていたことでした。
ネットで調べたら ちゃんとした会社のようでHPもありました。
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福井三国のサンセットビーチです。使用希望は これ!!
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サンセットビーチの夕日と三国町
http://umeno87.sblo.jp/article/41862769.html
このブログの中にある写真です。
断る理由もないし こんなものでよければ・・とフルサイズの写真3枚添付で パンフレットに使用していいですよと返事をしました。
ただし 著作権は放棄しません。の一文を添えています。
ありがとうございますの メールは来ましたがその後がないんですねぇ。
もうパンフレットはできあがっているはずなのに 使用したのか 使用しなかったのか全く連絡がなくて 事後が不明です。
使用したのならその旨 一言 見本でも添えて。使用しなかったのなら しなかったの一言。
会社組織なら 連絡があってもいいと思うのですが。。。。。
著作権は放棄していないのですけどねぇ〜〜そこも あいまいなまま。
どなたか福井・三国温泉ゆあぽーとのパンフレット見かけたら 教えてくださいな・・・・
ちゃんとした会社なら やはり連絡欲しかったなぁ。。。って無理な要求なんでしょうかね。
私も絵を描いてみたいと思う写真があったとき ちゃんとそれを写した人に お願いしてから絵をかきます。
できあがったら こんな絵が描けましたと 見本を添えてお礼の報告をしていました。
それが 当然のマナーだと思っていたわけです。
昔なら手紙や電話で直接やりとりをしたから そんな一方通行的なことはなかったのでしょうね。
ネットというの相手の顔がみえないだけに 注意しなければならないことたくさんあります。
情報倫理ーネチケットといいます。
とまぁ・・・我が写真のことが こんな風に気になっているわけです。
posted by うめのはな at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと記事

2013年08月23日

紅梅坂・ 御茶ノ水駅

御茶ノ水駅聖橋口です。
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JR御茶ノ水駅  千代田区神田駿河台四丁目
駅舎は、昭和7年に建てられた鉄筋コンクリート造の建物で、元は2階建てで近年に3階部分を増築しました。
ホームが擁壁と神田川に挟まれていること、駅舎がホームより高い位置にありかなり狭隘な場所にあることなど、構造上・立地上の問題からバリアフリー対応が十分に行われず、車椅子用のリフトはあるが、エレベーターやエスカレーターは設置されていない。
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ホームから見た聖橋。大がかりな工事中です。
「2010年度末からバリアフリー整備を行うことがJR東日本より発表された。線路上空に人工地盤を設置し、改札内に自由通路を新設し、御茶ノ水橋口駅舎および聖橋口の駅前広場機能の整備を行う。また、聖橋口駅舎を移設してエレベーターやエスカレーターなどを設置することによりバリアフリー整備を行う。」
ということで その工事なのかも。
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御茶ノ水橋から見た聖橋と駅ホーム。
 御茶ノ水 聖橋 ( ブログ参照)

http://umeno87.sblo.jp/article/55925427.html
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これは御茶ノ水橋から水道橋方向を写したものです。

聖橋改札口から本郷通りに出て ニコライ堂に行く坂は紅梅坂 です。
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右に井上眼科病院、左はニコライ堂の石垣。
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昔、ニコライ堂は石垣を積まれた高台の敷地に建っているので遠くからでも見る事が出来たので 近代都市となりゆく東京の新しいランドマークでした。
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紅梅坂(こうばいざか)  所在地 千代田区神田駿河台4
「この坂を紅梅坂(こうばいざか)といいます。 このあたりは紅梅町とよんでいたので、この坂名がつきました。 淡路町に下る幽霊坂(ゆうれいざか)とつながっていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際本郷通りができたため、二つに分かれた形になりました。 『東京名所図絵』には 「東紅梅町の中間より淡路町2丁目に下る坂あり、もと埃坂(ごみざか)と唱えしに、 維新以後、 淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり」とかかれています。

 昭和50年(1975)3月 千代田区」
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明治地図(明治40年)を見ると、ニコライ堂のあたりは東紅梅町となっている.
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「江戸時代からの通称である紅梅坂」に由来するとの説明がある.
八月 暑い中所用で 数日間御茶ノ水に通い 合間を見て街歩きをしました。
今回は これにて終了ですが 神田駿河台界隈はまだまだ見て回るところが多いので次の機会に歩いてみます。

posted by うめのはな at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 千代田区

2013年08月22日

東京復活大聖堂(ニコライ堂)

御茶ノ水といえばニコライ堂です。
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東京復活大聖堂(ニコライ堂)
所在地 千代田区神田駿河台4-1-3
重要文化財  昭和37年(1962)6月21日文部省指定

 「この聖堂は明治17年(1884)3月に起工し工期七年を以って明治24年(1891)2月完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は、英国人コンドル博士です。

 頂上までの高さ  35m
 建坪  318坪
 壁厚  1 ~ 1.63m

 日本最大のビザンチン式建造物として知られております。
 日本ハリストス正教会は、キリスト教の旧教で(東方正教会・The Orthodox Church)全世界各国にある正教会のなかのひとつの独立した教会です。正教会はキリスト教のなかの本家ともいうべき立場を保ち、初代からの伝承を守り今日に至っています。

古代に存在した五つの独立教会の四つの総主教区、コンスタンチノープル、エルサレム、アンティオケ、アレキサンドリアの総主教区を中心としギリシャやバルカン半島の国々の国教であり、現在ではヨーロッパや南北アメリカにも分布しています。
 各正教会は国単位でまとまっていますので、本山は各国の首府にあります。したがって日本正教会の本山は、当地東京復活大聖堂(ニコライ堂)です。全世界の正教会は、お互いが密接に結びつき信仰生活を分かち合うことによって、ひとつの共同体となっています。
 全世界には約3億余りの集りです。 日本ハリストス正教会教団」
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正門です。ニコライ堂は以前のブログ参照。
御茶ノ水 ニコライ堂
http://umeno87.sblo.jp/article/55946009.html
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正門をすぎ明大通りのほうに歩きます。
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聖堂とは別の建物が見えてきます。
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西のほうの門です。
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敷地内には神学校、信徒会館であるニコライ会館、伝道会などに使われる旧ニコライ学院、東京大主教(日本府主教を兼任)館、亜使徒聖ニコライ記念聖堂があります。
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ニコライ学院は、日本にロシア正教を伝えた宣教師ニコライ(1836〜1912)に由来するロシア語学校でした。
経営していたのは「ニコライ堂」を本山とする宗教法人「日本ハリスト正教会教団」でした。
ニコライが1872年、本拠地をこの地に構え、間もなく「ニコライ学院」を開設しました。
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「ニコライ学院」は、気軽にロシア語を学べる学校として人気があり、多くの著名人も通ったそうです。
リトアニア領事館領事代理としてユダヤ人にビザを発行したことで知られる杉原千畝(聖名:パーウェル)は正教徒であり、ニコライ堂敷地内にあったニコライ学院で教鞭をとったことがあるそうです。
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残念ながら1996年に120年の歴史に幕をおろし閉校しました。
聖堂から紅梅坂に沿って西門に行くと この建物を見ることができますが たいてい聖堂だけ見学する人が多いです。

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2013年08月21日

先人達の銅像・御茶ノ水

甲賀坂の標識がある日本大学歯学部 総合歯学研究所 1号館前には銅像があります。
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東京都 千代田区 日本大学大学院歯科研究部1号館
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川合渉先生胸像
生没年 明治18年(1885)〜昭和34年(1959) 分類 歯科医学者
略歴  シカゴ大卒。大正10年日大専門部歯科教授となる。日大歯科医学校校長などをへて昭和24年日大歯学部長に就任。
このあたり池田坂の通りでもいくつかの銅像が目につきます。
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池田坂の途中日本大学歯科病院 脇です。
佐藤運雄先生像
生没年 明治12年1879)〜昭和39年(1964) 分類 歯科医
略歴  東京に生まれる。アメリカに留学し、ラッシュ医大卒。南満州鉄道大連病院医長兼南満医学堂教授などをへて、大正11年日大専門部歯科長。昭和18年日大学長、20年日大理事長。また日本歯科医師会会長などをつとめた。著作に「医学歯学辞典」。
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その隣日本大学歯学部2号館には鈴木勝先生像
生没年 明治36年(1903)〜昭和62年(1987) 分類 歯科医
略歴  福島県柳津町大成沢に生まれた。昭和2年(1927)日本大学専門部歯科を卒業。昭和7年日本大学専門部歯科助教授、歯学部長、理事学長を経て、昭和44年日本大学第6代総長、昭和46年松戸歯科大学初代学長(現在の日本大学松戸歯学部)、昭和48年勲一等瑞宝章受賞、昭和59年日本大学名誉総長となる。その他日本歯科医学会会長、大学設置審議会会長、医道審議会委員、日本学術会議会員、私学研修福祉会理事長など多くの役職を努めた。
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対面日本大学歯学部3号館には中川大介先生胸像。
生没年 明治20年(1887)〜昭和29年(1954) 分類 歯科医学者
略歴  山口県萩市に生まれる。明治41年東京歯科医専(現東京歯大)卒。東洋歯科医専、日大専門部の教授をへて、昭和18年日大歯科科長。歯科教育審議会委員などをつとめた。昭和29年日大名誉教授。
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大正14年(1925)11月神田区駿河台北甲賀町13番地(2号館の現在地)に日本大学専門部歯科校舎及び付属病院が建設されたが、昭和10年(1935)9月付属病院を分離することとなり、道路を隔てた向い側に歯科付属病院が設置された。
日本大学100周年記念植樹のプレートがありました。
この辺は 銅像があちこちにあります。目についたものだけ写真に撮りました。

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2013年08月20日

甲賀坂〔こうがざか〕御茶ノ水

池田坂の坂下から明大通りに向けて西方に登る緩やかな坂は甲賀坂です。
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甲賀坂(こうがざか)
所在地: 千代田区神田駿河台一丁目 
「この坂を甲賀坂といいます。「東京名所図会」には「南北甲賀町の間に坂あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町と呼ばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和八年(一九三三)から駿河台一、三丁目となりました。
設置者: 千代田区 設置日: 昭和五十年三月」
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日本大学大学院 歯学研究所のすぐ前の通りにこの坂の標識があります。
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この坂道のある通りを「甲賀通り」といいます。坂を上りさらに明大通りを越えたところに吉郎坂があります。
「お茶の水仲通り」にあるNTT駿河台の前から、「明大通り」の明大前交差点を通って山の上ホテル前にいたる坂です。
 『新編江戸志』には「往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、また、光感寺の旧地をも記されたるが、一説に、往古、馬場昌宇という御医師の屋舗ありし故、戯れに世俗これを甲賀坂というよし里諺なり」とあります。 千代田区観光協会」
甲賀組(こうがぐみ)は江戸幕府における百人組の一つ。百人組は鉄砲足軽百人が配属されたことから鉄砲百人組とも称される。
江戸幕府が成立すると千駄ヶ谷に組屋敷、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。
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皇居東御苑内に 百人組の詰めていた百人番所が復元されています。
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2013年08月19日

池田坂(お茶の水仲通り)

駿河台一丁目と同三丁目の境界を南から北上する坂道は「池田坂」です。
西側は日大病院です。 坂上で雁木坂、坂下で甲賀坂と交わっています。
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周辺の地図です。
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池田坂〔 いけだざか〕別 名:  唐犬坂、仲坂
所在地: 千代田区神田駿河台一丁目と駿河台三丁目の境界
元禄の頃、坂を上りつめた日大病院の所に池田市之丞の屋敷があったので池田坂といわれました。ま た、その屋敷で唐犬(闘犬)が行われていたことから唐犬坂の別名もありました。
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「この坂 を池田坂といいます。名称の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。『新撰東 京名所図解』には「池田坂は、北甲賀町の中央にあり、駿河台より小川町に通ずる坂路なり、其昔坂の際に 、池田氏の邸宅がありしより以て名とす、」名を唐犬坂といふとぞ。『新編江戸志』には、「池田坂 唐犬 坂とありて、むかし池田市之丞殿屋舗に唐犬ありし故、坂名とすと見えたり。」とかかれています。
 大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば、この家は池田政長という人物に始まる九百石の旗 本と考えられます。
  平成17年8月 千代田区教育委員会」
元禄(一六八八〜一七〇三)の 図には「池田市之丞」、文化(一八〇四〜一八一七)の図には「池田吉十郎」という旗本の名がみえます  。
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坂下にあ る石標。「お茶の水 仲坂」とある。新しいもので裏に昭和50年駿河台西町会が設置したものとの文字。
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この名は 、お茶の水仲通りにある坂道だからだと思われます。
御茶ノ水仲通りです。この通りは靖国通りまで続きます。
途中に太田姫稲荷神社があります。
太田姫稲荷神社修復工事中で白いフェンスに覆われていて見えませんでした。
9月末には修復工事が完了とのことです。

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太田姫稲荷神社前(千代田区区神田駿河台駿河台1-2)
ケヤキの木です。
この太田姫稲荷神社、
古名が「一口(いもあらい)稲荷神社」だそうで、江戸城内から、一口坂(神保町の交差点付近)に移され、その後、明治5年(1872年)現在の場所に移ったそうです。
この木も巨木ですから その当時からあったのでしょうか・・詳細はわかりません。

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2013年08月18日

雁木坂(がんぎざか)・御茶ノ水

前回は 駿河台から猿楽町、西神田 神保町と歩きましたが 今度は御茶ノ水橋口改札から聖橋口の間、 明大通りと本郷通りの間を歩いてみた。
明大通りから杏雲堂病院前を左に曲がります。
 杏雲堂病院敷地内には『大久保彦左衛門屋敷跡碑』があります。
http://umeno87.sblo.jp/article/66394828.html
駿河台〜御茶ノ水 のブログ参照
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杏雲堂病院 公益財団法人佐々木研究所
東京都千代田区神田駿河台2-2
「杏雲堂」という名前の由来は昔中国ある名医が治療費の代わりに杏の木を、重傷者には5株、軽症者には1株植えさせ、それが後に大きな杏の林になったというお話です。この故事から、医家・医師のことを「杏林」と言うようになりましたが、初代佐々木東洋は「杏花雲の如く」に感じて、明治15年(1882)6月1日の開院時に、「杏雲堂病院」と命名したと伝えられています。
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佐々木隆興胸像 (御茶ノ水杏雲ビル)
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佐々木隆興(1878〜1966)
明治11年(1878)、東京本所生まれ。養祖父は杏雲堂病院創立者である佐々木東洋、養父は2代目院長の佐々木政吉
昭和14年(1939)、私財を投じて佐々木研究所を創設し、理事長兼所長に就く。
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お向かいは 駿河台日大病院です。東京都災害拠点病院
東京都千代田区神田駿河台1-8-13
1963年6月に、現在の病院建物が竣工したが老朽化のため現在 御茶ノ水スクエア・カルザスホール隣接地に新病院建設中です。
http://umeno87.sblo.jp/article/66316685.html
御茶ノ水スクエア(旧主婦の友ビル)千代田区 参照
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小桜通りの名称があります。昔は急坂で雁木(丸太でつくった階段)が多く使われていたそうで雁木坂というそうです。
南側は日大病院です。標識の説明にあるように、かつての急坂の面影はありません。
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雁木坂(がんきざか)
所在地 千代田区神田駿河台1,2
説 明: この坂を雁木坂といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木がくまれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登り やすくしたもので、登山道などに見られます。『新撰東京名所図会』には「駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるされたり」と書かれています。
設置者: 千代田区教育委員会
設置日: 昭和五十年三月(平成十九年三月補修)
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明大通りから西に上る別の坂道にも「雁木坂」の石製の標識が置かれています。
裏面には「昭和五十年一月 駿河台西町会 山田盛三郎」と彫られている 。
神田駿河台はその名のとおり台地となっており、周囲には多くの坂があります。
歩いていると 坂の名の標識が目につきます。

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2013年08月17日

女坂(とちの木通り・神田駿河台)

とちの木通り、アテネフランセの少し手前に蔦に覆われた 「主婦の友社別館」があります。
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その対面 反対側の歩道に「女坂」の標識があります。
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奥にちいさく見えるのが石標です。
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女坂 千代田区神田駿河台2〜猿楽町2
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説明:  この坂を女坂といいます。駿河台一丁目七番地の端から猿楽町に下る坂「男坂」に対して名付けられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので、「女坂」と呼ばれています。この坂のできたのは、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。
設置者: 千代田区  設置日: 昭和五十年三月
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途中で曲がっています。 男坂が一直線の急坂であるのに比べ、 こちらは坂の途中で一休みできるようになっています。
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でも やはり上るのはきつそうです。
千代田区によれば、この階段(坂)ができたのは意外に新しく、1924(大正13)年の区画整理がきっかけという。男坂は73段、女坂は82段あるとのこと。
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男坂は 「とちの木通り」から、明治大学付属明治中高等学校(男子校)の東側を下る階段状の坂ですが。急こう配の一直線の階段です。
上から眺めるだけにしました。
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女坂を下った先には、神田女学園があります。
正面に見えるのが 神田教会です。

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2013年08月16日

第15回 旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流し

8月15日 夜 第15回 旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流しが行われました。
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旧中川での灯籠流しは、東京大空襲の犠牲者の慰霊を目的に平成11年から行われ、今年で15回目となりました。
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毎年8月15日の夜、旧中川のふれあい橋付近で行われ、白い舟灯籠に文字や絵を描き、鎮魂の思いを込めて流します。
開催場所 ふれあい橋たもと(江東区亀戸9−34先)
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ふれあい橋は東京スカイツリーの絶景ポイントです。
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暗くなってきました。
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準備が整います。
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18時30分 式典
19時00分 とうろう流し
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灯籠の販売 1個 500円・当日 1個 600円
自分で文字を書きます。
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橋の上も見物客でいっぱいです。 灯篭を流す人もたくさんいます。
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東京大空襲(昭和20年)での小松川平井地区の罹災者は約40,000人、旧中川での死者は約2,800人と伝えられています。
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恒久平和を願い、毎年さまざまな思いの込められた灯籠が旧中川へ流されます。
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今年は天気もよく 何よりでした。
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六ツ目地蔵尊 は亀戸浅間神社境内にあります。
http://umeno87.sblo.jp/article/69718010.html
以前ブログで書きました。
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報道のひとたちも来ていて 首都圏ニュースで映像が流れていました。

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2013年08月15日

皀角坂(さいかちざか)

神田上水掛樋跡の案内板がある線路沿いの坂は皀角坂(さいかちざか)といいます。
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千代田区神田駿河台2-9先

 「この坂を皀角坂(さいかちざか)といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河臺鈴木町の西端より土堤に沿いて、三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については、『新編江戸志』に、「むかし皀角樹多くある故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」とかかれています。「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ています。
 平成18年(2006)3月 千代田区教育委員会」
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皀角(さいかち)坂。江戸時代はサイカチの木が生えていたという。サイカチはまめ科の植物で、幹に鋭い棘をもち、20~30センチほどのねじれたさや(実)をつける。
サイカチは「落葉高木で枝にとげが多く、葉は羽状形で、実はサポニンを多く含みこれを石鹸の代わりに利用した。
 昭和35年(1960)、当時千代田区土木課に勤務していた新堀栄一さんは、坂の名に因んでサイカチを3本植えたとのことです。
「このあたりは幕末まで旗本の屋敷があったところです。『御宿かわせみ』を書いた平岩弓枝の『はやぶさ新八御用帳』は、南町奉行所の内与力、隼新八郎の活躍を描いた時代小説ですが、そのなかの一篇『さいかち坂上の恋人』はここが舞台となっています。
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千代田区神田駿河台2丁目11 さいかち坂ビル
東京倶楽部という老舗のジャズ・ライブ・バーの入口付近の植え込みに石碑があります。
ビルを新築した際にオーナーが植え込みに句碑とともに設置したという。
「皀角の実はそのままの落葉哉」と刻まれています。
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「この坂は「さいかち坂」 坂の名に因んで坂の上、北側に、さいかち(さいかし)の木が三本植えてあります。
碑の句は「芭蕉らしい」といわれていますが、定かではありません。」
説明書きがありました。
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地図です。黄色が歩いた道です。
次は 少々戻って 女坂を下ります。


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2013年08月14日

神田上水掛樋跡

アテネフランセから中央線沿いの道を行きます。
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坂を下った真ん中あたりに「神田上水懸樋跡」と説明板が立てられている。
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神田上水懸樋[かけひ](掛樋)跡
江戸時代、神田川に木製の樋[とい]を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。
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神田上水掛樋跡

所在地 千代田区神田駿河台2-11先

 「江戸時代この辺りには、江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための懸樋が設けられていました。
 神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれます。徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開鑿を命じ、大久保藤五郎は慶長年間(1596〜1615)に神田上水の整備に着手します。井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの水を集めて現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流しました。
 上水は、小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達します。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から、この辺りへ懸樋で渡したといいます。
 上水は、この先は埋樋で供給されました。供給範囲は、南は京橋川、東は永代橋より大川(隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋外までといわれます。この一帯は埋め立てられた場所が多く、井戸を掘っても良い水が得られなかったようです。
 懸樋は、万治年間(1658〜1661)に架け替えられたため、俗に万年樋と呼ばれました。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会」
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線路向こうが神田川です。
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広重「東京名所」「御茶之水之図」
御茶ノ水の渓谷美を描いている。橋のように見えるのが神田上水懸樋で この中を上水が流れている。
懸樋の中央にちいさく見える橋は 水道橋です。
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御茶の水旧水道万年橋 明治のころ
江戸市中に上水として飲み水を提供した地。歴史的に重要な地である。
明治三十四年(一九〇一)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。

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2013年08月13日

アテネ・フランセ

文化学院前の道をしばらく歩きます。
明大通りから西へ延びる並木道は「とちのき通り」という名称で トチノキとプラタナスの並木が美しい(かつては「マロニエ通り」と呼ばれたが、現在は「とちのき通り」となった。マロニエはトチノキの近縁種)。
マロニエ通り、アテネフランセ、文化学院はとてもオシャレな雰囲気でした。
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東京都千代田区神田駿河台1〜4丁目
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ピンク色の建物 アテネフランセ前から明大前の通りが「とちの木通り」です。
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アテネフランセ 千代田区神田駿河台2-11
アテネ・フランセは、1913年(大正2年)創立の言語の「各種学校」
近衛文麿・谷崎潤一郎・中原中也・竹久夢二・坂口安吾・淡谷のり子…などが通ったといいます。
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1954年 現在のアテネ所在地に分教場を建て、現在の校舎を新築、建築学会賞受賞。
1970年 5月 四階と塔の増築が完成し、文化センターが誕生。
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アテネ・フランセは同じく1950-52年に吉阪隆正(1917-80)が設計を手がけた。現在の校舎は、昭和37年に竣工。
1962年の開館時には地上3階、地下1階だったが、その後、1980年の8期工事までに、天にそびえる塔、鉄骨構造の4階、入口左手のステンレスの外壁などを追加した。
アテネ・フランセの外壁に用いられたピンクや紫といった色は、当時の日本人を驚かせた。この建物は、コルビュジエの弟子、吉阪隆正の設計。街が灰色になる未来を予想し、目立つ色にしたとのことです。
設計: 吉阪隆正+U研究室
吉阪隆正氏」はル・コルビュジエの「弟子」1950-52年にアトリエで働いた。
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サーモンピンクの壁はよく見るとアルファベットが・・・
アルファベットを拾うと、学校の名前になります。

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2013年08月12日

文化学院 2

複合施設となった近代設備を誇る新校舎ですが 校舎の周囲は緑の木々を配してちょっとした木陰 憩いの場です。
ベンチで読書する人の姿もあり昔の雰囲気を残した落ち着いたつくりです。
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西村伊作が設計した旧校舎のエントランス部分イメージを極力踏襲するよう坂倉建築研究所によって建て替えられました。
竣工年: 2008年
用途: 専修学校/テレビスタジオ
建築面積: 1,053u
延床面積: 9,198u
階: 地上14階、地下1階
1 - 4階は日本BS放送本社、5階以上は文化学院新校舎
構造: S造一部SRC造
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アーチを抜けると、新校舎の入り口につながります。
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旧校舎の面影が残る新校舎エントランスです。
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開口部も、断面もすべてアーチ型でトンネル状です。
階段を上った先にある待合室的な場所で 待合室の奥はトンネル状の開口部になっていて、明るい場所となっているそうです。
入ってみたい誘惑にかられますが 用がないので 諦めました。
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昔も今も変わらず モダンで素敵な建物です。
文化学院ができてから 神田古書店の品ぞろえにカラフルなデザイン本などが並ぶようになったそうです。

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2013年08月11日

文化学院 1

御茶ノ水駅 御茶ノ水橋口の改札を出て明大方向に向かう。
楽器店が軒を並べ にぎやかな通りです。
夏休みとはいえ若者たちでとてもで混雑しています。
明大博物館のほうに右折し しばらくいくと 蔦のからまる建物が見える。
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文化学院です。
日本のカルチェラタン文化学院は、与謝野晶子らの賛同を得て西村伊作が大正10年(1921年)に設立した専修学校。
独自の教育をするために、あえて各種学校として設立され、幾多の著名人を輩出してきました。
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竣工 1937年(昭和12年)
所在地 東京都千代田区神田駿河台2-5
設計 西村伊作
構造 鉄筋コンクリート造4階建て(現在は2階)
最初の校舎は、英国のコテージ風であったが関東大震災で焼失。
昭和12年(1937年)に鉄筋コンクリート4階建ての校舎が完成。
創立者の西村伊作が設計を担当した旧校舎は「小さくても善いものを」との理念で建てられ 千代田区の登録文化財にも指定され、お茶の水のシンボル的な存在でした。
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これは旧文化学院校舎です。
旧校舎は老朽化を理由に平成14年(2002年)春に解体、しかし保存運動が起こり 、旧校舎の入り口アーチ部分を切り取る形で保存工事が行われた。
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旧校舎の外壁を覆っていた蔦を移植したものという説明書き。
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2008年2月に地上14階建ての新校舎が完成し、旧校舎のアーチ部分はその正門として残されている。
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旧校舎のアーチ部分内部の窓は昔のままだそうです。
自販機がなければいいのに・・・・・。

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2013年08月10日

千代田区神田神保町界隈

靖国通り交差点 少し手前に 北神保町の町名由来説明板があります。
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町名由来板
北神保町(きたじんぼうちょう)
設置年月日:平成16年2月29日
所在地:神田神保町二丁目4番地
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「かつてこの界隈(かいわい)は北神保町(きたじんぼうちょう)と呼ばれていました。「神保」という町名は、元禄(げんろく)年間(1688〜1704)、ここ(現在の神田神保町二丁目(かんだじんぼうちょうにちょうめ)内)に神保長治(じんぼうながはる)という旗本(はたもと)が住んでいたことに由来します。
江戸時代には武家の屋敷が集まっていたこの土地に、「北神保町」という町名が誕生したのは明治五年(1872)のことです。この年、周辺には南神保町(みなみじんぼうちょう)、表神保町(おもてじんぼうちょう)、裏神保町(うらじんぼうちょう)なども誕生しました。
明治以降、神田・お茶(ちゃ)の水(みず)界隈には学校が立ち並ぶようになりました。北神保町にも明治四十三年(1910)、東洋家政女学校が誕生しています。当時「岸辺(きしべ)のおじさん」「子どもの友だち」として親しまれた教育者・岸辺福雄(ふくお)が創立した学校で、普通科二年と高等科一年の教育課程がありました。ちなみに、この学校で毎年催(もよお)されていた愛全地蔵(あいぜんじぞう)を祀(まつ)る祭礼は、いまも地域の人々に受け継がれています。
北神保町で忘れてはならないのが、明治二十三年(1890)に開設した神保院(じんぼういん)です。破傷風菌(はしょうふうきん)の純粋培養(じゅんすいばいよう)で有名な北里柴三郎博士から指導を受け、感染症の患者を重点的に受け入れることで知られた病院でした。
江戸時代、武家の屋敷が中心だったこの一帯は、明治以降、教育と医療の町に生まれ変わり、発展してきたのです。 千代田区」
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「神保町」の名は、戦国大名越中神保氏の一族である江戸時代の旗本・神保長治に由来する。この屋敷は現在の神田神保町二丁目にあり、その前面を通る道は「神保小路」と呼ばれていた。
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関東大震災後、復興事業として一大舗装道路「大正通り」(現・靖国通り)が完成すると、交差点名として「神保町」が登場、昭和後期には今日のような街並みになりました。
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町名由来板から 専大通りの方向を見ていますが ビルが並んでいます。
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ここが靖国通りとの交差点です。
この辺りからが古書の町で知られる「神保町」(じんぼうちょう)です。
古書の町としては、1913年(大正2年)に起きた大火の焼け跡に「岩波書店」創業者の「岩波茂雄」が古書店を開いたのが始まりだそうです。
学生のころ神田の古書店にはずいぶんお世話になりました。
当時は目黒線「大岡山駅」に住んでいて 近くはなかったのですが  理数系の参考書は値段が高く 新品を買えなかったので神田の古書店めぐりをしていました。専門書別に古書店があってわりと探しやすかったです。
参考書や教科書には書き込みがあったりして それがまた手掛かりになったりして重宝しました。
教科書の問題も解答が載せられていないのが普通でしたので 鉛筆で答えが書いてあったりするとありがたかったです。
約180店舗といわれる古書店の多くは、靖国通りと白山通りが交わる神保町交差点を中心とした地域に集積しています。
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暑くてたまらないので 古書店めぐりは またの機会にして 地下鉄「神保町駅」に行きました。

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2013年08月09日

白山通り〜西神田

研数学館をあとにして 白山通り沿いを行く。
周囲はオフィスビルや学校が多く、飲食店が比較的多い。
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水道橋と神保町の中間ということで古書店もあります。
なつかしい 大学の赤本が店先に積まれていました。
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並びにあったのが奥野かるた店
東京都千代田区神田神保町2丁目26?3
奥野かるた店は1921年(大正10年)に、「奥野一香商店」として創業しました。
昭和54年に、神田・神保町の現店舗に移転し一般販売もしているそうです。
日本で唯一のかるた専門店です。
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店頭のショーウィンドウです。
三代目店主の祖父(一香)が将棋の駒などを売る商売をはじめたのが明治時代。
宇田川町(現 新橋七丁目)で碁盤、将棋盤店を営んでいたそうです。
かるたを売る商売は二代目が、千葉県で大正10年からはじめたとのことです。
長い歴史を持つ、「遊び」の専門店です。「遊び」の種類は増えましたが 日本古来の伝統文化の「遊び」はいまだ健在なのがうれしいです。
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白山通りから西神田交差点のほうに向かいます。
西神田2丁目と3丁目の境、水道橋西通りの西側が戦災で焼け残っていて古い建物があります。
専大通りに出てすぐに専修大学法科大学院があります。
このあたりは 専修大学の校舎が点在しています。神田専大通りという愛称です。
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専修学校から専修大学法科大学院へという説明板がありました。
「靖国通り」との交差点がすぐです。
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2013年08月08日

研数学館 2

研数学館の建物は手前と奥では別の表情をもっているのです。
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手前は堅牢で歴史の風格を感じる建物なのですが 奥のほうは別物です。
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下部は写したくもないので 上のほうだけ写しました。
古いタイルの上から派手に塗装がされていて 何ともで安っぽい感じです。
しかも外壁の洗浄がなされていないので薄汚いという感じです。
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ここまでは古いままです。
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昭和62年まで予備校だった頃の写真です。風格があります。
いつ改修されたのかは わかりません。
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そして1〜2階をぐるりと覆うこの巨大看板・・・
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この趣のある丸窓や入口が居酒屋の看板に・・・
一番上の時計がかろうじて 予備校だった面影を残しています。
まぁどんな形でも建物が残っているだけましなのかもしれませんが これじゃあまりにも寂しいです。
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ため息をつきながら 写真を撮っていると 地元の人らしき年配の方が話しかけてきました。
「この建物は頑丈なんだよ。戦災にも合わなかったしね。地盤沈下で少し下がったんだけど パイプでしきりがしてあるでしょ。」と教えてくれました。のぞいてみると 基礎の通気口部分が下がっていました。
あの角の居酒屋の派手な看板さえなければ 全体像を写したのに・・・・なんとも残念。
せめて 外壁の洗浄やメンテナンスくらいしてもよさそうなのにと企業姿勢を問うてみたい感じです。
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2013年08月07日

研数学館 1(千代田区)

神田教会から白山通りに出ます。
通りに面して古い堅牢そうな建物があります。
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研数学館です。
研数学館とは日本最古の予備校で、1929(昭和4)年に建築されました。
建物正面の外壁は、垂直線を意識したゴシック調のデザインで、遠景から見ると、教会建築をイメージさせるような塔状の壁が屋上に乗せられています。
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研数学館 千代田区西神田2-8
1929年(昭和4年)
設計者は不明
施工:清水組
構造:RC4階
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その昔 参考書やテキストでお世話になったかも。
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玄関を入ると天井近くに「研数理開宇宙」(数理を研き宇宙を開く)の額が懸かっています。
元は1897年(明治30年)に「奥平浪太郎」が開校した数学の私塾だった。
その後1941年(昭和16年)に理数系の旧制専門学校の「研数専門学校」として設立されましたが戦後の学制改革に伴い、1955年(昭和30年)に大学受験の専門総合予備学校となったそうです。
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入口のゴツゴツした造形が特徴的です。
2000年に研数学館が予備校事業から撤退。
その後、一部は大正大学神田校舎として利用されていたが、2005年1月、大正大学も巣鴨校舎へと移転。
現在は理学研究者の支援を行う 財団法人になっています。
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ここだけ見ると 歴史あるすばらしい建物なのですが・・・
興ざめするものがいやでも目に入ります。
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2013年08月06日

カトリック神田教会聖堂 2

神田教会は、美しいステンドグラスが四方の窓を飾っています。
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教会側面の窓はこのようなアーチ型のステンドグラス窓となっています。
聖堂内は入ることができますが撮影は不可でした。
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この扉を入ると(節電のためとても暗いです)正面に“臨終の聖ザビエル”の絵があるのですが 暗くてよく見えませんでした。
解放厳禁の聖堂への扉をあけると・・・こちらも照明はついていませんが ステンドグラスの色がきれいでした。
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聖堂の両側の窓のステンドグラスがあります。
赤や青の鮮やかなステンドグラスで少し驚きました。
パイプオルガンの後方にも大きな3連のステンドグラスがありました。360度ステンドグラスという感じです。
「聖堂内の正面には、三位一体の神、聖フランシスコ・ザビエルが、両方の壁には、天地創造や受胎告知、聖霊降臨などの聖書が描かれています。2階の聖歌隊席の後ろには、和服姿のマリアと長崎26人殉教者をはじめとする日本のキリスト教会史と殉教者たちが描かれたステンドグラスがあり、そこから、やさしい光が差し込んでいます。神田教会」
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この教会では一般の人が結婚式を行うこともでき、毎年200組以上のカップルがこの荘厳な祭壇の前で一生の愛を誓っているそうです。
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庭の聖母像
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中庭の牧者イエス像
その隣にはマドニーナもありました。
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この神田教会の外壁は大理石チップをモルタルに練りこんで固まる前に洗い出したような工法で現在はほとんどみることができない。
一見石造りに見える工法です。
隣は神田女学園。神田の新旧入り乱れるビルの中に周囲に馴染んでいて違和感のない建物です。教会なのに江戸っ子だってねぇ〜神田の生まれよ。と言うにふさわしい存在感です。
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2013年08月05日

カトリック神田教会聖堂・1(千代田区)

カトリック神田教会聖堂に行きました。
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カトリック神田教会は1874年に創設された由緒ある教会。関東大震災により失われた聖堂を、1928年に現在の聖堂に立て直しています。
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カトリック神田教会  東京都千代田区西神田1-1-12
国の登録有形文化財
竣工 1928年(昭和3年)
設計 マックス・ヒンデル(Max Hinder)
施工 宮内初太郎 構造 鉄骨鉄筋コンクリート造平屋建て、一部2階、瓦葺

建築面積 643m2
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【国登録有形文化財】
 昭和3年(1928)に建築された、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、バシリカ形式の三廊式聖堂です。半円アーチを基調とした開口部,ロンバルド帯風の軒蛇腹,四葉をモチーフとした胴蛇腹が外観を飾り、半円アーチのヴォールト天井と玄関脇に集会所を設ける平面を特徴としています。設計は上智大学1号館などを設計したマックス・ヒンデル氏。平成14年に国の登録文化財に登録されました。
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マックス・ヒンデル氏の設計によるロマネスク様式とルネッサンス 様式を融合させた建築です。
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1871年(明治4年)、東京最初の教会(現 築地教会)が誕生しました。
神田教会は1874年(明治7年)に誕生して130年の時を刻む、築地教会とともに都内最古の歴史を誇る教会です。
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現在の聖堂は、昭和3年に完成したもので、当時の面影がそのまま残っています。
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神田教会聖堂は2001年に文化庁の有形文化財として登録されました。
「水道橋南方に位置し街路の角地に立つ。バシリカ形式の三廊式聖堂で,半円アーチを基調とした開口部,ロンバルド帯風の軒蛇腹,四葉をモチーフとした胴蛇腹が外観を飾り,半円アーチのヴォールト天井と玄関脇に集会所を設ける平面を特徴とする。」
ステンドグラスの美しい聖堂です。

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2013年08月04日

開運延命子育地蔵堂

小松橋を渡るとすぐに見えたのが開運延命子育地蔵堂 です。
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 開運延命子育地蔵堂  江東区扇橋2-8
江東区有形民俗文化財
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小名木川の川底からすくい上げられたお地蔵さんをお祀りしているとのことです。
地域の人に大切にされているという感じがしました。
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戦災で亡くなった方の多い地域です。
火を逃れて小名木川に飛び込んだ人も多いのでしょう。
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街中のあちこちに貼られていた 富岡八幡宮の例大祭の駒番です。
本祭りの前年、陰祭りの年に深川八幡祭りの次世代への継承の意味を込めて、各町の子供神輿による連合渡御が行われます。
子供神輿連合  深川祭り子供連合
「平成13年の夏より始まりました本祭りの前年(寅・巳・申・亥の年)のイベントとしてに次世代の深川祭りを担う子供達による子供神輿の連合渡御が行われます。距離は子供が担ぐということで永代通りの佐賀町のあたりから富岡八幡宮までという短めの距離になっております。大人神輿顔負けの粋でいなせな晴れ姿をみせてくれます」
参加神輿:46基。その他手作り神輿が数基担がれます。
日時 8月11日(日) 午前9時から12時
渡御区間: 永代通り

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2013年08月03日

小松橋・扇橋閘門後扉側

小松橋です。
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東京都江東区猿江〜同扇橋
橋長x幅員 56.4×13.20m 線数
形式 曲弦ワーレントラス 形式番号
橋床形式(形式名称) 鉄筋コンクリート製
現橋架設年 昭和56年6月(1981)小改修 江東区
開通年月日
昭和5年(1930) 長56.4m、幅13.2m 1径間鋼製桁橋 震災復興橋梁
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 新高橋 小松橋 西深川橋と小名木川のワーレントラス三兄弟,
いずれも 昭和5年の震災復興橋梁です。
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水道導管?橋がすぐ隣にあります。
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隙間から 扇橋閘門 後ろ扉が見えます。
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蒸気船や倉庫 黒松が見えます。
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北砂五丁目精製糖工業発祥の地の絵ハガキですが なんだかモチーフが似ています。
これも小名木川を描いたものです。
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2013年08月02日

扇橋閘門 防災船着場

手前に見えるのは 防災船着場です。
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災害時避難の人たちや 帰宅難民の船で輸送するための船着場です。
東京都内には、災害時に使える「防災船着き場」が2011年現在61か所ありました。
桟橋の多くは日常的に施錠されたままで、すぐには使えないことから整備を進めています。
陸の交通が遮断された場合 船での避難が重要になります。
最近 大小さまざまな船が観光用に出ています。
これも船着場の整備が進んだり 試験的に運航したりしているからなのでしょう。
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小名木川は江戸物流の重要河川でした。
明治のころの小名木川の賑わいです。
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扇橋閘門 江東区扇橋1-21
この日は門が閉じられていて 中に入ることができませんでした。夏休み中の8日間 扇橋閘門を一般開放します。
平成25年8月16日(金曜)、17日(土曜)、18日(日曜)、23日(金曜)、24日(土曜)、25日(日曜)、30日(金曜)、31日(土曜)の8日間
この門の中に入り近くで 船が行き来するのを見ることができます。
また 船から上陸して閘門施設を見学できるよう、防災船着場もあわせて開放するそうです。
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付近の地図です。
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後扉がみえています。点検中のランプがついていて後ろ扉が上がっています。小松橋側が後扉です。
posted by うめのはな at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区