2013年12月10日

白鬚神社1

鳥居をくぐると 左側に古い石碑が並べておいてあります。
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一番先に目についたのが黒人塚
江戸時代にオランダ人に連れてこられた黒人の慰霊碑かと思いましたがそうではありませんでした。
浜辺黒人(はまべのくろひと)という江戸時代中期の狂歌師の石碑でした。
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 北島玄二「うつせみの」の歌碑(黒人塚)
「黒人塚」と大書して、右面に「天やこの人を生み 天やこの人亡る この人阡人の玄 崑崙一人に選る倚る」(原漢文)、左面に「うつせみのうつつにしばしすみた川 渡りそはつるゆめのうきはし」としています。
白鬚神社にあるもののうち一番の古碑で、寛政十二年(1800)と彫られた横に「玄二号黒人」の文字があります。
 
本名を北島玄二といい、玄の字が黒に通じることから黒人と号した.
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すぐ後ろの碑は四世今日庵「こころほど」の句碑。天保7年(1836)
「こころほど こと葉のたらぬ さくらかな」四世今日庵 元風
元風は本名を松本伊助といい、師一蛾につき、天保年間(1830〜1844)に活躍した江戸の俳人用です。
何やら絵のようなものが見える石碑があります。
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天広丸「くむ酒は」の狂歌碑
天広丸(1756〜1828)は本名を磯崎広吉、号を酔亀亭と名のり、宝暦6年(1756)鎌倉市今泉に生まれ、文政11年(1828)没
「くむ酒は 是 風流の眼なり 月を見るにも花を見るにも」
上部に酒を表すとみられる標記があります。
ひときわ大きい石碑と説明板があります。
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鷲津毅堂碑   高さ256cmの大碑
「鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政8年(1825)尾張に生まれました。
通称を毅堂または蘇州と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。
 20歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永6年(1853)久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868)調停より権弁事を任ぜられ、明治2年(1869)大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治15年(1882)司法権大書記官となりますが、同年、10月5日、58歳で歿しました。
なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。
本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。
 平成18年(2006)3月 墨田区教育委員会」
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「墨多三絶すみださんぜつ」の碑

 「墨田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は、文政5年(1822)のことです。
なお、絶とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。
この碑(草書)は三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書)の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。
 維舟渡口歩汀名沙来飲祀前売酒家一
 道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
 不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
 欲管繁華事閑睡落花流水中
 断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
 鴎邊柳処元陳迹付与詩人吟至今
 上毛淡齋佐羽芳詩壬午冬日書詩佛老人大窪行
  平成18年(2006)12月 墨田区 」
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一番右に見える石柱は 春秋庵白雄「人こいし」の句碑 です。
「人こひし 火ともしころを さくらちる」
「于時文化歳在癸酉(1813)春3月 拙堂創建之 補助居行」
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「筆塚 中原耕張」
「つくつくし つめよ硯の すみ田川」
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力石もいくつかあります。
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神楽殿です。
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銀杏の木の奥に拝殿が見えます。

posted by うめのはな at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 墨田区