2013年12月24日

メリークリスマス

イースト21ホテルに行きました。
エレベーター前には 小さなクリスマスツリー。
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これはフロントフロアーのエレベーター前。
21階にも別のツリーがありましたから各階に趣向をこらしたツリーがあるのではなかろうか・・と。
もちろんロビーには大きなツリーがありました。
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21階には大きな窓があってこんな眺めです。
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晴れた日だったのでスカイツリーが正面に見えました。
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これは絶景!
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真下はこんな感じです。1階に降りて外に出ます。
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イースト21モール広場のイルミネーションです。
クリスマスの時期には毎年違った飾りつけで楽しませてくれます。
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夜になるときれいです。
メリークリスマス!!
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2013年11月16日

猿江恩賜公園(水琴窟 日本庭園)

猿江恩賜公園 南側日本庭園の四阿です。
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小川が流れ滝の音が心地よいです。
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まるで どこか高原に来ているような感じです。
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都会のオアシスです。
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それでも 門の外はコンクリートの街です。
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何やら案内板が見えます。
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水琴窟のようです。
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水琴窟(猿江恩賜公園内)

日本庭園で、縁先手洗鉢や蹲居(つくばい)の流水を利用した音響装置。地中に伏瓶(ふせがめ)を埋めるなどして空洞おを作り、そこにしたたり落ちる水が反響して、琴の音色に聞こえるようにした仕組み。江戸時代の庭師の考案という。
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地中の小洞窟に生ずる水滴音を反響させて地上に漏洩する音色を楽しむもので、洞水門の別名だそうです。
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楽しみに近寄ってみたのですが ・・・・ただの石と化しています。
水鉢に水を注ぐ仕組みが破損しているらしく 工事中で試すことができませんでした。
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しかたなく石段を降りると こんなものがあって 和みました。
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南側の石の門を出て 四ツ目通り 猿江2丁目バス停に向かいました。
昨日の夕焼け空が濃かったので思わずパチリ・・・
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2013年11月15日

猿江恩賜公園(南側地区日本庭園)

猿江恩賜公園 新大橋通り沿い南側公園入り口の門です。
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南側の住吉地区は、1924年(大正13年)に東京市に払い下げられ、1932年(昭和7年)に猿江恩賜公園として開園。
木立に囲まれた日本庭園となっていて 滝組、池、流れ、芦、北園には貯木場をモチーフにしたミニ木蔵(みにきぐら)の池があります。
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猿江材木蔵跡
『以降は、皇室所有の貯木場となり大正十三年に一部を猿江公園にした』
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猿江公園の石碑らしいいのですが 保存状態が悪く何が書いてあるのか全然わからないです。
石碑の上に猿の像が彫られているのがわかる程度。
門を入ってすぐにあります。
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巨石がごろごろあちこちに見られます。
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この猿江材木蔵の貯木法は木材を水中に沈めて腐るのを防ぐ方法だったそうです。そのために使われた重しの石は池の護岸に使われていつとのことですからこの巨石群もその名残なのでしょう。
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どこかの大名のお屋敷跡のような作りです。
公園というより 庭園な感じです。
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内門がありました。
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貯木場であった時代の景観を残すために作られたミニ木蔵の池。
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日本庭園ですねぇ・・・
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カモがたくさん泳いでいました。
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かえでばし
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小さな滝です。
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小川が流れています。
水と緑の公園には白サギやセキレイ、カワセミも居るそうです。
四阿が見えました。そちらに向かいます。

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2013年11月14日

猿江恩賜公園( 北側公園)

猿江恩賜公園に散歩に行きました。
急に寒くなって紅葉も進んでいます。
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猿江恩賜公園(さるえおんしこうえん)は、日本の東京都江東区猿江にある都立公園です。
1932年の開園です。
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1733年 - 江戸幕府公認の貯木場として開かれました。
1924年 - 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の成婚を記念して、猿江貯木場の一部を東京市に下賜(現在の南園部分)
1932年-現在の南側部分が猿江恩賜公園として開園しました。
1972年 - 猿江貯木場廃止、東京都が跡地を買収(現在の北園部分)。
1981年 - 北園、一部開園。
1983年 - 北園完成に伴い、全面開園。
都バス毛利2丁目バス停で降り 北側の公園から入りました。1722年(享保7年)隼町の毛利藤左衛門により毛利新田が開発されたことから毛利という地名になったそうです。
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銀杏が黄金色です。
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中央広場です。北側にある休憩所。
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南側に時計塔が見えます。
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時計塔です。お花見のシーズンは花見客でにぎわう場所です。
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散策路を通り 南側公園へと向かいます。
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新大橋通りに出るとティアラ江東(江東公会堂)が見えます。
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向かい側に南側入口の門が見えますが 通りを渡ることができず 四ツ目通りまでぐるっとまわりました。
横断歩道が欲しかった・・・・
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2013年11月13日

猿江神社≪境内社≫

猿江神社境内社の馬頭観音社です。
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馬頭観音社 馬頭観世音の刻印の上より「馬」の絵を彫り、「馬方」の絵の石と併わせた、大小1対の珍しい碑が祀られている。
旅行・交通安全、又、競走馬関係の参拝も多い。
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馬頭観音社
「馬頭観音とは密教系の進行である六観音の内、ヒンズー教の神、卑紐拏(びしゅぬ)が馬に化身して、魔物に奪われた聖典を取り戻したという説話が起源とされる。馬が周囲の草を食べ尽すように、一切の煩悩を打伏すといわれ、日本では奈良時代以降に信仰され、身近な動物への無病息災の民間信仰と共に江戸時代には旅の道中の安全、家畜の守り神として広く流布されるようになった。当社は創立不詳にて、長期境内に埋没していたが、昭和60年(1985)、「氏神と共に境内の馬頭観音を崇拝せよ」との告言により再び御姿を現わされ、人々の厚い信仰を享けている。形容は馬頭観音の刻印の上に馬の絵が彫られ、馬方の絵の石と併せた、大小一対の珍しい石碑で、研究者より注目されている。心願成就、旅行・交通安全のご利益もあるとされ馬に関わることから競走馬関係者の参拝も多い。又、近年前途の由来よりペットの無病息災祈願も増えている。〔勝守〕人生・勝負に勝つ〔馬頭観音守〕授与致します(案内板)」
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もう一つの境内社は藤森稲荷神社です。
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藤森稲荷神社
「創立不詳ながら、江戸時代初期には本所(墨田区)横綱町の江戸幕府御用材木蔵に、すでに祀られていた。
享保19年(1734)御用材木蔵と共に猿江の地(現在の猿江恩賜公園)に遷座された。明治以降は宮内省所管とない、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕がなされている。亦、社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く季期に祭礼が行われていた事から、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、400年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。
昭和52年(1977)春、東京都の都市計画による猿江貯木場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが、平成13年(2001)12月崇敬なる旧東京官材協同組合会長氏橋幸次郎氏及び東京広葉樹連合会々長長谷川健治氏他関係者氏の総意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮鎮座される。江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。
尚、石燈篭一対(弘化5年〔1858〕)石水盤(貞享3年〔1686〕)は、区の有形文化財である。
宮司 神保恵一 謹書」
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石燈篭一対(弘化5年〔1858〕)
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【区指定重要文化財】野村屋五郎兵衛奉納水盤
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藤森稲荷神社のお狐さんは切れ長の目の公家顔です。
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白狐さんたちが並んでいます。とても仲良く見えます。
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狐さんは参拝者が奉納したのでしょうね。。。
猿江神社を出ました。

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2013年11月12日

猿江神社 1(江東区)

猿江神社 江東区猿江2-2-17
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祭神 天照大御神、宇迦之御魂命、猿藤太
猿江神社の社殿は 1931(昭和6)年に建てられたもので,日本最古のコンクリート社殿といわれています。
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国内でも最古の部類に入るといわれる鉄筋コンクリート造りの御社殿は、旧社殿が関東大震災にて焼失後、昭和六年に宮内庁設計技官の設計により当時としてはとても珍しい頑丈優美な造りの神社として再建されました。
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東京大空襲で、近隣一帯(深川)が灰燼に帰した時も奇跡的に難を免れ、焼け野原に建つ御社殿が遠くから望めたそうです。
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手水舎
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石造燈籠  昭和6年(1931)在銘 一対
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次は狛犬さんです。1対
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ちょっと怖い顔・・・
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石造狛犬昭和6年在銘一対(江東区登録文化財)
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由来記
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猿江神社由来記
「伝承として昔、康平年間(1058-1065)源頼義が奥州征伐(後三年の役)の頃、この附近の入江に勇々しき戦武士の屍がただよい着き、不思議にも其の屍より毎夜光明を発し村人この屍を丁重に葬る。
武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり、又懐中よりありがたき経文一巻がいでたり。よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて、猿江稲荷と尊稱し、近郷近在の守護神となし、村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願、病気平癒、悪病退散、等のこの地の氏神社として祭り、又それより地名をも猿江村と稱えはじめ現在に至れり。
正に猿江の地名これより発祥せり。
尚、当時、この村落の氏神社である猿江稲荷神社は右末より「天照大御神」「宇迦之御魂神」とを御祭神としていたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え、代々お祀り申し上げて参りました。江戸時代は猿江稲荷神社と稱し隣接せる、日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々守護管理を司っていたが明示以後、近年になり、神保宮司を祭官として招き、合せて村、町の発展と共に町内氏子の者達が、神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります。
お恵み(ご利益)として,家内安全,病気平癒,商売繁昌
心願成就として霊験あらたかなり, 昭和六十一年丙寅八月吉日 文筆者  堀江候雄 」
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史跡顕彰
猿江地名発祥之地 平成十八年12月吉日 建之

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2013年11月11日

猿江稲荷神社(江東区)

江東区猿江にある猿江稲荷神社に行きました。
小名木川 扇橋閘門 東京メトロ住吉駅近くにあります。
目についたのが大きな石灯籠でした。
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石造燈籠 江東区登録文化財
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道路沿いの柵越しに見えるのが 猿江稲荷神社
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所在地 江東区猿江2-5-14

 猿江稲荷神社
「法華宗(本門流)本覚山妙壽院を務める猿江稲荷社は、「御府内備考」続編によりますと、その鎮守稲荷の御神体は「猿藤太木像」であります。
さらに縁起について、武州葛飾郡猿江村稲荷大明神略縁起仰稲荷大明神ト奉申ハ本地久遠成道ノ釈迦仏也と記され、本地久遠成道の釈迦仏とは法華経に説かれた教主釈尊で、法華の題目によって祀られた稲荷社であったことがわかり、現在も氏子妙壽会をはじめ遠近のご信者の篤い信仰を集めております。
  法華宗本覚山 妙壽寺 (現在 世田谷区北烏山)」
猿江神社」と御祭神は同じですが、この神社は、御霊ではなく御神体として木造をお祀りしているようです。またお寺が管理しているというところも異なります。
猿江神社に向かいます。
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神輿庫の前を通ります。
猿江神社例大祭は8月第1土・日曜日
8月第1土・日曜日3年に1度の本祭りは日曜日に神幸祭が行われ猿田彦を先頭に、神職・お囃子の後に古式のまま行列が神社から出発し、町会神輿の連合渡御を伴って氏子町会を巡幸する。
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石垣の間にかわいい2体のお狐様。何を話しているのかしら・・
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正面 猿江神社 社殿前に出ました。
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猿江という地名は 康平年間(1058年頃)に「源義家臣猿藤太」と書かれた鎧を着た武士の死体がこの地に流れ着き、住民たちが祠を建てねんごろに弔ったという伝説に由来する。名前の通り海岸に面した漁師町だったようで、江戸期にはすでに猿江村とよばれていた。

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2013年11月10日

貧乏神神社(江東区)

亀戸駅から徒歩3分ほど。都バスの水神森バス停前のサンストリートというショッピングモールの中に変わった神社があるというので 行って来た。
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神社というからにはそれなりの場所に鎮座しているのだろうと探したがよくわからない。
歩き回ったらモールの屋外 サンガーデンの一角にポツンと祠がありました。
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貧乏神神社だそうです。東京都江東区亀戸6-31-1
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貧乏神神社の本社は長野県飯田市だそうでこちらは分社にあたるとのことです。
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災いを福に変え、プラス思考の災禍転福、貧乏神神社.
「貧乏はお金の問題ではなく、心の問題」とのことで、貧乏から抜け出すには弱い心を叩く必要があると提唱しています。
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災禍転福貧乏神神社亀戸分社之栞

[ここは、自分自身の弱いこころに栖む「貧乏神」と縁を切る神社です。
信州飯田の有名な「災禍転福貧乏神神社」から皆様に幸せを差し上げるためこの地へ分社いたしました。
ここへ参詣して「良いことある、ある、ある」と念じてください。

強く念ずれば、必ず良い事に恵まれます。信州飯田の本宮に詣でれば、皆様方に更なるご利益を、お持ち帰りいただける事と信じております。」
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ハズレ馬券や宝くじをいれるポストもあります。
なかなか ユニークな神社でした。
以前は場所も広くて 案内人がいて 「叩く・蹴る・投げる」で貧乏神を追い出すという趣旨から
1.「貧乏神出ていけ! 出ていけ! 出ていけ!」と木柱の上部を棒で思いっきり3回叩く
2.同じように木柱の下部を3回蹴る
3.貧乏神が追い出された貧乏袋(布玉)を、的に向かって投げつける
4.拝む
というようなことを していたそうですがそれも取りやめ 今は ひっそりとしていただけでした。

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2013年11月09日

宇迦八幡宮(江東区)

江東区千田の 宇迦八幡宮に行く。
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宇迦八幡宮は、寛政9年村全体が一橋家の領家となっていたころは小さな祠でしたが、千田庄兵衛の信仰が篤く、神殿を造り千田神社と称し土地の産土神として崇められました。
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江東区千田12-8
祭神
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
應神天皇(おおじんてんのう)
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宇迦八幡宮の由緒

宇迦八幡宮は、享保年間(1716-36)近江商人の千田庄兵衛が千田新田村を開拓、千田稲荷神社として創建したといいます。飢饉の際には穀物に代わって片栗を栽培するようお告げがあったといい、片栗八幡宮とも称されていました。戦後 宇迦八幡宮と称す。
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「亨保年間(1720年)近江の国の人千田庄兵工氏此の地に来り、時の幕府徳川八代将軍吉宗公に願い出て、此の土地を開拓せんと3年の長きを費やして村造りを固めなし、其の氏をとって武蔵野国南葛飾郡千田新田と名付けらる。後に寛政九年村全体が一橋家の領家となったので一橋領十万坪とも称したり。
 当神社はその当時小さな祠であったが、千田庄兵工敬神の念篤く、神殿を造り千田神社と称し土地の産土神として崇められる。
 たまたま土地に穀物の実らざるを嘆き当神社に祈願を籠め、神霊のお告げを受けて、これに代うるに片栗を栽培して農民の飢餓を救ったという古き伝説の故を以て、片栗八幡宮とも称す。」
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入母屋権現造り総桧銅板葺きの豪壮華麗なる社殿は戦災に依り焼失するも昭和27年(1952)7月戦前と同型同様の社殿を建設。
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社殿向拝には迫力がある竜の彫刻
昭和二十七年二月吉日 鵜澤睦次郎  光行作
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木鼻の獅子
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次は手水舎
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境内にある石碑は軍馬盛敬號之碑
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寺宝に、「貞享二年在銘の石造六角宝塔(妙法華経千部供養塔)」があります。
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江東区登録文化財 石造六角宝塔貞享2年在銘
高さは約3mで、大日・阿弥陀・釈迦・薬師・観音・勢至の六体の仏が彫られ、台座には「妙法華経千部供養塔」とある。
もともと永代寺に奉納されていたが、明治維新で廃寺となったため移転し、宇迦八幡宮が再建された際、現在地に移された。
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石造六角宝塔とみがわり地蔵
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「千田庄兵衛二百年祭記念」の石碑と その隣に新しい石の「みがわり地蔵」が祀られている。
水子供養のための参拝が多いらしい。

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2013年11月08日

江東区千田・扇橋界隈

江東区千田・扇橋界隈を歩いてみた。
千田でビルの片隅に観音堂があるのをみかけた。
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このビル 実は 光明寺というお寺なのです。
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光明寺 江東区千田9-7。
昭和五年(1930)、真宗出雲路派の説教所として創立。戦災で焼失。昭和二二年、現在地に再建、昭和二三年に光明寺と改称。昭和三六年、大谷派に属し、宗教法人となる。墓地は千葉県市川市にある。(江東区の民俗深川編より)
どうみても普通のビルです。片隅の祠が不思議な感じです。
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世薀夛観音
「せおんた」と読むというそうですが 「せんだ」なのかも。
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千田界隈は江戸時代には江戸で出た塵芥の埋立地であった。この埋立地を享保8年(1723年)に近江屋庄兵衛と井籠屋万蔵らが2年の歳月をかけて開発した。その際に、近江屋の名字が千田であったことから千田新田という名がついた。
その後、千田新田は深川石島に吸収されたが、1936年(昭和11年)に深川千田町として独立、1968年(昭和43年)の郵便番号導入に伴う住居表示実施からは千田という名称になった。
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石にも世薀夛・・・?
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千田 石島から扇橋へと歩きます。
ところどころに 古い建物が残っています。
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隣は更地で工事中
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古そうですけど・・・
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これは近代的で目立ったのでパチリ。
ベランダソーラー!!
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清洲橋通りでみつけた 洋品店の建物。
いつごろのものなのかわかりませんが その名とおり大正ロマンな感じでした。

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2013年10月12日

木場公園都市緑化植物園

キバナコスモスを見たついでに 木場公園の都市緑化植物園に行きました。
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木場ミドリアムは緑の壁でした。
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ボランティア「木場公園友の会」によって美しく維持・管理されています。
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秋らしい小菊です。
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コスモスもかわいいです。
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なつかしいもの見つけてしゃがんでしまいました。
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ほおずきです。子供のころ遊んだ記憶がよみがえりました。
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猫じゃらしのようなオオケタデの花が咲いています。
あかまんまの花のお父さんみたい・・・・かも。
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センニチコウが色とりどり咲きかわいいです。
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メキシカンセージが手を広げたように咲いています。
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ミニトマト・・・と近寄ってみたら ソラナムの実でした。
他にもたくさんの花が咲いています。
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ミドリアムの前は木場公園ジョギングコースのスタート地点です。
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少し暑い日でしたが ひさしぶりの訪問でしたから気持ちよかったです。
秋の公園はこれからが 紅葉しなりきれいです。
そのうち 秋を探しに行きます。

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2013年10月11日

キバナコスモス(木場公園中地区)

木場公園大橋下のキバナコスモスを見に行きました。
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もうそろそろ終わりかとは思いますが 中地区の畑です。
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キバナコスモスの向うに秋を感じさせるパンパスグラスが見えます。
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橋の上から見ています。
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こちらは見ごろを過ぎたみたいです。
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橋の上からは東京スカイツリーがきれいに見えます。
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2013年09月19日

旧富士見橋

江東区臨海部の豊洲6丁目〜有明2丁目間に道路橋(新)富士見橋が架設されました。
有明北地区と豊洲地区間の東雲運河を渡る全長201mの橋で 新市場やオリンピック会場を結ぶ重要な橋になっていくと思えます。富士が見えるから富士見橋という名になったとは思うのですが 確認はしていません。
江東区内には 別の場所に富士見橋がありました。
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江東区東陽六丁目〜東陽五丁目間 横十間川
南詰 東陽5丁目から
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北詰 東陽6丁目 から
昭和4年(1929) 長20.5m、幅11.0m 1径間鋼製桁橋 震災復興橋梁
桁の部分がそのまま高欄(欄干)になっているプレート・ガーダー橋(下路式桁橋)
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親柱がなく、橋名は橋の高欄に描かれる
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富士見橋 江東図書館蔵 
尾張屋板江戸切絵図・本所深川絵図(文久2年-1862-)に(不二見橋)とある。
さぞかし眺めのいい場所だったのでしょう。
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平成25年(2013)3月 撤去、廃橋となり、旧富士見橋とする。
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橋の記憶の案内板
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ベンチに生まれ変わった(旧)富士見橋の欄干
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現在この下には川はありません。

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2013年08月16日

第15回 旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流し

8月15日 夜 第15回 旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流しが行われました。
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旧中川での灯籠流しは、東京大空襲の犠牲者の慰霊を目的に平成11年から行われ、今年で15回目となりました。
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毎年8月15日の夜、旧中川のふれあい橋付近で行われ、白い舟灯籠に文字や絵を描き、鎮魂の思いを込めて流します。
開催場所 ふれあい橋たもと(江東区亀戸9−34先)
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ふれあい橋は東京スカイツリーの絶景ポイントです。
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暗くなってきました。
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準備が整います。
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18時30分 式典
19時00分 とうろう流し
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灯籠の販売 1個 500円・当日 1個 600円
自分で文字を書きます。
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橋の上も見物客でいっぱいです。 灯篭を流す人もたくさんいます。
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東京大空襲(昭和20年)での小松川平井地区の罹災者は約40,000人、旧中川での死者は約2,800人と伝えられています。
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恒久平和を願い、毎年さまざまな思いの込められた灯籠が旧中川へ流されます。
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今年は天気もよく 何よりでした。
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六ツ目地蔵尊 は亀戸浅間神社境内にあります。
http://umeno87.sblo.jp/article/69718010.html
以前ブログで書きました。
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報道のひとたちも来ていて 首都圏ニュースで映像が流れていました。

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2013年08月04日

開運延命子育地蔵堂

小松橋を渡るとすぐに見えたのが開運延命子育地蔵堂 です。
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 開運延命子育地蔵堂  江東区扇橋2-8
江東区有形民俗文化財
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小名木川の川底からすくい上げられたお地蔵さんをお祀りしているとのことです。
地域の人に大切にされているという感じがしました。
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戦災で亡くなった方の多い地域です。
火を逃れて小名木川に飛び込んだ人も多いのでしょう。
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街中のあちこちに貼られていた 富岡八幡宮の例大祭の駒番です。
本祭りの前年、陰祭りの年に深川八幡祭りの次世代への継承の意味を込めて、各町の子供神輿による連合渡御が行われます。
子供神輿連合  深川祭り子供連合
「平成13年の夏より始まりました本祭りの前年(寅・巳・申・亥の年)のイベントとしてに次世代の深川祭りを担う子供達による子供神輿の連合渡御が行われます。距離は子供が担ぐということで永代通りの佐賀町のあたりから富岡八幡宮までという短めの距離になっております。大人神輿顔負けの粋でいなせな晴れ姿をみせてくれます」
参加神輿:46基。その他手作り神輿が数基担がれます。
日時 8月11日(日) 午前9時から12時
渡御区間: 永代通り

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2013年08月03日

小松橋・扇橋閘門後扉側

小松橋です。
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東京都江東区猿江〜同扇橋
橋長x幅員 56.4×13.20m 線数
形式 曲弦ワーレントラス 形式番号
橋床形式(形式名称) 鉄筋コンクリート製
現橋架設年 昭和56年6月(1981)小改修 江東区
開通年月日
昭和5年(1930) 長56.4m、幅13.2m 1径間鋼製桁橋 震災復興橋梁
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 新高橋 小松橋 西深川橋と小名木川のワーレントラス三兄弟,
いずれも 昭和5年の震災復興橋梁です。
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水道導管?橋がすぐ隣にあります。
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隙間から 扇橋閘門 後ろ扉が見えます。
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蒸気船や倉庫 黒松が見えます。
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北砂五丁目精製糖工業発祥の地の絵ハガキですが なんだかモチーフが似ています。
これも小名木川を描いたものです。
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2013年08月02日

扇橋閘門 防災船着場

手前に見えるのは 防災船着場です。
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災害時避難の人たちや 帰宅難民の船で輸送するための船着場です。
東京都内には、災害時に使える「防災船着き場」が2011年現在61か所ありました。
桟橋の多くは日常的に施錠されたままで、すぐには使えないことから整備を進めています。
陸の交通が遮断された場合 船での避難が重要になります。
最近 大小さまざまな船が観光用に出ています。
これも船着場の整備が進んだり 試験的に運航したりしているからなのでしょう。
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小名木川は江戸物流の重要河川でした。
明治のころの小名木川の賑わいです。
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扇橋閘門 江東区扇橋1-21
この日は門が閉じられていて 中に入ることができませんでした。夏休み中の8日間 扇橋閘門を一般開放します。
平成25年8月16日(金曜)、17日(土曜)、18日(日曜)、23日(金曜)、24日(土曜)、25日(日曜)、30日(金曜)、31日(土曜)の8日間
この門の中に入り近くで 船が行き来するのを見ることができます。
また 船から上陸して閘門施設を見学できるよう、防災船着場もあわせて開放するそうです。
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付近の地図です。
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後扉がみえています。点検中のランプがついていて後ろ扉が上がっています。小松橋側が後扉です。
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2013年08月01日

東京のパナマ運河・扇橋閘門

新扇橋と小松橋との間には扇橋閘門が設置されています。閘門より東側は地盤沈下が激しくゼロメートル地帯の顕著な地域のため水位を1m下げています。
扇橋閘門は、江東デルタ地帯を東西に流れる小名木川のほぼ中央に位置し、水面の高さが違う河川を船が通航できるようにした“ミニパナマ運河“といえる施設です。
2つの水門に挟まれた水路(閘室)に船を入れ、水位を人工的に昇降させることにより船を通過させるというものです。
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新扇橋側の前扉です。
扇橋閘門 【所在地】 江東区猿江一丁目5番18
形式:鋼製単葉ローラーゲート
径間:11m×1連
門扉高さ:前扉5.9m 後扉7.3m
竣工:昭和51年度
「江東区は、東側が地盤が低く、西側が高い地形になっています。そこで昭和46年策定の江東区内部河川整備計画では、東側を詰めに水位を一定に保つ水位低下区域としてまた西側の感潮部を耐震区域として整備することになりました。 
 この閘門は、良区域の接点に当たる小名木川の中間に位置し、水位差を調整して船舶の航行を可能にするための施設です。30億円の事業費と5年3カ月の歳月を費やして昭和52年に築造されたものです。この方式はパナマ運河と同じです。」

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水害のない町に という 説明版があります。
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地形の拡大図
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扇橋閘門の仕組み
1・隅田川方向から閘門内に船を入れます。
2・前扉を閉めます。
3.閘門内の水位と内部河川の水位を同じにします。
小名木川(東側)とその先の隅田川(西側)では、小名木川の方が水位が低いため、この閘門内に船を入れて水位を調整するのです。
水位差は日によって 異なるそうで 大きいときは2mほどになるそうです。
4.荒川側の後扉を開け船を出します。
閘門に入ってから出るまでの時間は6〜7分程。
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扇橋閘門と荒川ロックゲートで仕切られた範囲となる、旧中川、北十間川(一部区間)、小名木川(一部区間)、横十間川は、水位低下整備河川として、平常時は水位を周辺地盤より低いA.P.-1.0mに保っています。
扇橋閘門から東側に進むと、旧中川が、さらに荒川放水路へ合流する東大島駅近くの江戸川区小松川にも「荒川ロックゲート」という閘門がある。2005年完成。、同じように水位を上げ下げして船舶を通しています。
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この説明版をみると東側が低地で洪水の危険があるとわかります。
小名木川東側は排水作業により水位を低く保っています。
過去多くの風水害による被害の経験から江東区では治水などの防災計画はしっかりしているようです。
200年に1度の大雨で荒川が決壊した場合のハザードマップも作成されています。

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2013年07月31日

猿江船改番所跡

新扇橋の北詰には猿江船改番所跡の説明版があります。
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猿江船改番所跡 (猿江1−1付近)
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猿江船改番所跡
「 猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688〜1736)頃に設置されました。
 小名木川は江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。
 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。猿江船改番所の仕事は船稼ぎを統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極印の検査を行っていました。
 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました。
 平成6年(1994)3月 江東区教育委員会」
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中川船番所とは別に、川船行政を担当する川船改役(かわふねあらためやく)の出先機関として設置されました。
幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入する船には、 川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課されましたが、猿江船改番所は船稼ぎの統制と年貢・役銀の徴収と極印(証明)等の検査をしていました。
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中川番所資料館については ブログに書きました。
江東区中川船番所資料館
http://umeno87.sblo.jp/article/70515224.html

猿江という地名は康平年間(1058年頃)に「源義家臣猿藤太」と書かれた鎧を着た武士の死体がこの地に流れ着き、住民たちが祠を建てねんごろに弔ったという伝説に由来する。
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扇橋北詰。扇橋閘門が見えています。

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2013年07月30日

新扇橋

新扇橋です。
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新扇橋
猿江一丁目〜扇橋一丁目間 小名木川
構造・形式 1径間鋼製ランガー・アーチ
橋長(m) 57.3 橋幅(m) 17.9
現橋架設年 昭和48年(1973)3月大改修 江東区
昭和4年(1929) 長57.3m、幅15.0m
1径間鋼製トラス 震災復興橋梁
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橋の上から 新高橋方向を見ています。
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江東区の木である黒松の並木が見えます。
小名木川の黒松については 以前ブログに書きました。
小名木川橋
http://umeno87.sblo.jp/article/60557921.html
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新高橋
構造・形式 1径間鋼製トラス
橋長(m) 56.1 橋幅(m) 13.8
現橋架設年 昭和
54年(1979)5月小改修 江東区
昭和5年(1930) 長56.1m、幅13.2m 1径間鋼製トラス
震災復興橋梁
「新」がついていますが、高橋と共に江戸時代からあるものです。
船着き場もあります。
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地図による位置関係です。
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2013年07月29日

民営機械製粉業発祥の地

小名木川(おなぎがわ)は、東京都江東区を流れる人工河川です。
旧中川から隅田川を結ぶ運河で、途中横十間川、大横川と交差しています。

小名木川名はこの川を開削した「小名木四郎兵衛」の名からとりました。
新扇橋の南詰に民営機械製粉業発祥の地の記念碑があります。
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この記念碑は黒い御影石で作られているので 正面から写そうとすると自分の姿が写ってしまいます。
なぜか 直方体は微妙に各面の角度が違っているので 見ていて落ち着きません。
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どこからでも周りが映ってしまいます。
なぜこのような形になったのかは知りません。
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民営機械製粉業発祥の地
東京都江東区扇橋1丁目
 「明治12(1879)年, 明治を代表する実業家 雨宮敬次郎は, 水運の便のよい小名木川に着目して, この地に それまでの水車動力に代わる 蒸気機関を動力源とした, 民営では最初の 近代機械製粉所 「泰晴社(たいせいしゃ)」を創設しました。
 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は, 蒸気機関のほか 石臼製粉器, 篩器(ふるいき)などの製粉装置を米国から輸入して 製粉事業の経営に成功をおさめました。
 雨宮の製粉事業は 東京製粉合資会社に受け継がれ, 明治29年に 日本製粉株式会社に 改組されました。

また, 小名木川沿岸には 明治30年台に製粉会社が次々と設立され, 全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。 こうして泰晴社は, 小名木川沿岸に さまざまな近代的工場が進出してくる さきがけともなったのです。
 なお, 明治初期の機械製粉所には, 開拓使により札幌に設立された 磨粉機械所(明治9年), 大蔵省による 浅草蔵前の製粉所(同12年) の二つがありましたが, これらの官営製粉所は ともに日本製粉株式会社が その事業を継承しました。 江東区」
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今でも操業している製粉会社が、近くにあります。
東京都江東区扇橋2丁目 「東京製粉株式会社」です。
写真では東京の文字しか見えません。サイロのようなものが見えます。

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2013年07月27日

ひまわり

街を歩いていたら ひまわりの花をみかけました。
そんなに長い距離ではないですが 街路樹のように植えられていました。
夏らしい風景だなあ〜と・・カメラを構えました。
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ひまわり畑や公園や花壇ではよく見るのですが こういう風に歩道に並んでいるのは なかなかいいものです。
ご近所のひとたちが植えたのでしょうか・・・
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ちょっと見通しが悪いという欠点はありますが 歩道なので車の心配もないでしょう。
ひまわりは 100種類以上も種類があるそうです。
これは小さ目の花でした。
ひまわりといえば 3年ほど前明野のひまわり畑に行ったことを思い出しました。
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明野の広大なひまわり畑です。景色もよかったです。
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いろいろな種類のひまわりがありましたが 黒いひまわりもありました。
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黒いというより ワインレッド。なんでもイギリスでは「BLOOD RED」(血の赤)と言うそうです。
黒いひまわりにも種類があるそうです。
一代交配種だと次の年は黄色いひまわりになってしまうとのこと・・・・
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これがどういう名なのか知りませんがサンフラワーブラックマジックという名の黒いひまわりもあるそうで・・・
たしかに ブラックマジックですが 最近はあちこちの公園でも見かけますね〜
余談ですが 私はKiroro「ひまわり」がなんとなく好きです。
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2013年07月14日

東京海洋大学 越中島キャンパス史跡等

前回まで東京海洋大学越中島キャンパスの歴史的建造物を見てきましたが構内にはいろいろな史跡があります。
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G.E.O.ラムゼー巧徳碑
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 「この碑は、G.E.O.ラムゼ船長の優れた人格に対する尊厳と称賛を永く記憶するために明治19年(1886年)3月の彼の没後1周年にあたり門弟達が建てた。初めは上野美術学校、現在の東京芸術大学の辺りにあったものを、大正の初め頃に現在地に移した。ラムゼー船長は、天保10 年(1839年)イギリスのロンドンに生まれ、若くして航海学を学び、明治8年(1875年)に一等航海士として初めて日本に来た。明治9年(1876年) 6月1日に三菱商船学校(本学部の前身)の運用学教員として教壇に立ち、学生に航海術を教えた最初の先生で、明治15年(1882年)4月に三菱商船学校が、官位に移行されることに伴い、惜しまれつつ学校を去ることになった。そして、航海術の啓発や海運事業に多大の功績を残し、明治18年(1885年)3月に他界した。なお、この碑は平成5年(1993年)に江東区の有形文化財(歴史資料)に登録された。」
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精神不滅の碑
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「太平洋戦争中の昭和19年(1944年)7月と8月、清水高等商船学校学生3名は不屈の精神を持って遠泳訓練に挑んだが、数日来の豪雨の影響もあり、最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡した。
 この碑はその敢闘精神を記すため、昭和19年(1944年)11月に清水で建てられ、越中島に移された。 」
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招魂碑
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 「東京商船学校生であった田副重右衛門は、英国船に乗船して米国に渡る途中暴風雨に遭遇して死亡した。この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建てられ、題字は逓信大臣榎本武揚の篆書である。平成5年(1993年)江東区の有形文化財(歴史資料)に登録された。」
キャンパス内には他に 明治天皇聖蹟の碑、、菅船長記念像、株於校庭永記光榮云碑 繋留練習船明治丸記念碑 植樹記念碑 などがあります。
また 大正年間に用いられたと思われる蒸気機関の主復水器とそれに冷却海水を送る蒸気原動機付きの循環水ポンプ、復水器。駆逐艦「あけぼの」シリンダが構内に置かれています。
明日15日 海の日キャンパス史跡巡りや体験乗船などのイベントがあります。
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2013年07月13日

越中島会館と全天候型救命艇(海洋大)

明治丸の姿を見ながらポンドをすぎ実験棟をすぎると 越中島会館が見えてきます。
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東京海洋大学 越中島会館は東京商船大学の時代の「2号館」です。
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これは正面側から見た入口です。外壁は、当時流行したスクラッチタイル貼とし、正面中央に4本の柱型を立て垂直性を強調した意匠です。平成7年(1995年)〜平成8年(1996年) 越中島会館の大改装を行い 水産・商船教育界の記念碑施設としてのファサード部分を越中島通りに際立たせた。
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裏側から見たもの。
東京海洋大学 越中島会館(2号館)は、水産講習所本館として1933年(昭和8年)に再建されたもので、設計は文部省・大蔵省が行いました。左右対称型の簡素な外観となっています。
越中島会館(2号館)旧水産講習所本館
国・登録有形文化財(1997.12.12) 
竣工 1933年(昭和8年)   
設計 文部省、大蔵省  
構造 鉄筋コンクリート造2階建て  
建築面積 2,269m2  
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もともとは2つの中庭を持つ日の字形の平面の建物だったらしい。現在は東と西側の部分がなくなっている。
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正面の中央後ろに突き出た部分。手前の広場はかつては中庭でした。
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越中島会館の正面玄関近くのグラウンド前の植え込みの中にあまり目立たず置かれているのが全天候型救命艇です。
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全天候型救命艇
「 第一中央汽船の「おうすとらりあ丸」に搭載されていた試作の救命艇で神戸の石原造船所で建造された。長さ(全長及び垂線間長)8メートル、型幅2メートル、型深さ2.3メートル。
 日本造船技術センターにおいて、日本船舶振興会の昭和45年(1970年度)から48年度(1973年度)に至る補助事業「救命艇及びその降下装置の研究」を実施した。そのなかで全天候型救命艇が開発され試作艇がつくられたが、本学の救命艇はその改良型である。昭和51年(1976年)年5月に「おうすとらりあ丸」から降ろし、本学に設置された。 」
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潜水艦に付いてる完全防水仕様のハッチと丸窓のある小さな船です。、1976年まで「おうすとらりあ丸」という鉱石専用船に搭載されていたものだそうです。非常時のシェルターなんですね。

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2013年07月12日

旧東京商船学校観測台(海洋大)

東京海洋大学越中島キャンパスにはいろいろな史跡があり 時折史跡巡りのイベントがあります。
正門を入るとすぐ 左手にあるのが 第一観測台です。
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第一観測台(経緯儀室または赤道儀室)
八角形2階建煉瓦造 建坪8坪6合
竣工:1903年(明治36年)
設計:三橋四郎
構造:煉瓦造2階建て、鉄板葺
備考:国登録有形文化財(1997/12/12)
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屋根の円形ドームは手動絵回転できました。窓は二重でそのうち一つの窓が外側のベランダの出入り口でした。このベランダは戦時中鉄製品供出のため散り外されてしまいました。
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「 明治35年(1902)霊岸島校舎より越中島新校舎に移転した後の施設充実の一環として、明治36年(1903)6月に建設され、航海用天体歴の研究用および航海天文学教授用として使用された記念建造物で、内部には、当時としては最新鋭の東洋一といわれた7吋天体望遠鏡(Theodolite)を備え、望遠鏡は分銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり窓は二重になっていた。
昭和の初期までは時折り授業にも使用されたが、昭和10年(1935)頃以降は学生の同好会「天文部」部員の手により、天体の観測に利用されていた。昭和20年(1945)終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は望遠鏡の台座が残っているに過ぎないが、輸入煉瓦造りの八角形の建物は貴重なもとのされている。」
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レンガはイギリスから取り寄せられたものだそうです。
すぐ隣にあるのが第二観測台です。
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旧東京商船学校観測台(子午儀室)。
竣工 :1903年(明治36年)
設計:三橋四郎
構造:煉瓦造平屋建、鉄板葺
備考:国登録有形文化財(1997/12/12)
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第二観測台(子午儀室)
八角形平家建煉瓦造  建坪8坪6合
「 明治36年(1903)6月第一観測台とともに建設され、内部には子午儀(Transit)を備え、天体の子午線通過時刻を精密に測定して精確な経度の測定をすること。およびその時の天体の高度から緯度を測定することなどが出来た。
昭和20年(1945)終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は台座のみであるが、八角形の建物で輸入煉瓦造りの現存する建物として貴重なものとされている。」
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2013年07月11日

東京海洋大学越中島キャンパス

越中島は 江戸時代初期に榊原越中守が島状の土地に屋敷を持っていたところから「越中島」と名付けられました。その後忍藩松平下総守の領地となりました。黒船来航後、海防のためその屋敷の東隣に設けられた「越中島調練場」ができこの地域が海防拠点と注目されました。
明治維新を迎えると、幕府の調練場は新政府の陸軍練兵場となり、しばしば明治天皇の観閲を受けることとなりました。
明治32年11月「東京商船学校」の敷地となり、永代橋畔の霊岸島校舎から明治35年1月10日に移転。その後静岡・清水に「商船大学」が開学しましたが再び越中島に移転し、前身校である「東京商船大学」へと発展しました。所在地:東京都江東区越中島2-1-6
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一号館
竣工  :1932年(昭和7年)
設計  :文部省・大蔵省
構造  :鉄筋コンクリート造3階建
一号館は、1902年(明治35年)1月11日に寄宿舎と共に完成しました。しかし、1923年(大正12年)9月1日関東大震災によって校舎等を焼失しました。旧事務局棟(正門守衛所隣)と共に1930年(昭和5年)12月に起工し、1932年(昭和7年)11月に完成。
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現在も正門にある守衛室です。
1号館は船橋(ブリッジ)を模しています。
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アーチ型の車寄せです。
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エントランス。
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入口付近から 内部。
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国登録有形文化財 登録:平成9年12月12日
「航海船橋を模して造られたこの一号館の屋上には、実船のような船橋が設けられ、各種航海機器等を配置、中央に船型自差修正装置(デビエスコープ)、その北側に測深儀が取りつけられていました。また、測深実習が行えるように雨樋に似た筒が建物の外側に沿って造られています。 なお、一号館は、日本建築学会より保存すべき建物に指定され、1997年(平成9年)12月には文化庁から登録有形文化財に指定されました。」
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先端科学技術研究センター
昭和7年(1932年)7月、1号館とほぼ同時期に鉄筋コンクリート建の東京高等商船学校図書館として竣工
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竣工:1932年(昭和7年)11月
設計:文部省・大蔵省
構造:鉄筋コンクリート造2階建
備考:国登録有形文化財(1997/12/12)
明治丸側の壁が丸くなっているのは、船の船尾をイメージしてのもの。
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エントランスです。
ほかの重要文化財も見て回ります。

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2013年07月10日

重要文化財明治丸(東京海洋大学・越中島)

重要文化財明治丸は修繕工事のため、平成21年1月から当分の間、明治丸の公開を休止しています。
重要文化財明治丸
発注 1873年
進水 1874年9月26日
竣工 1874年11月24日
就役 1875年
除籍 1954年3月
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艦種 鉄製汽船
艦級 ロイド船級
排水量 1027.57トン
全長 68.6m
全幅 9.1m
吃水 6.9m
機関 レシプロ機関
機関出力 1530馬力
速力 11.5ノット
明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に灯台巡廻船として発注し、明治7年(1874年)に竣工した日本に現存する唯一の鉄船です(現在の船はすべて鋼船)。
 この船は特別室やサロンを備え一等飛脚船同様の豪華な仕様の新鋭船で、単に灯台業務ばかりでなくロイヤルシップの役目も兼ねた船であった。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代史の重要な場面で活躍した。わが国に現存する唯一隻の鉄船であり鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として昭和53年、国の重要文化財に指定されました。
明治丸は明治29年(1896年)に海洋大学の前身である商船学校に譲渡され、係留練習船として昭和20年(1945年)まで5000余人の海の若人を育てました。また大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の東京大空襲では被災した多くの住民を収容し災害救援にも貢献しました。
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昭和63年には、修復工事を行い、往時の姿に一旦復元されました。しかし、その後、20年以上が経過し、雨風にさらされたマスト、ヤード、上部構造物が腐食、デッキも寒暖の変化で凸凹となり、至急に工事を要する深刻な状態に陥りました。
東京海洋大学では2009年度から修復事業等の費用の募金をはじめましたが 昨今の経済状況から募金活動が思わしくなく修繕がすすまなかったそうです。
平成23年6月8日、天皇、皇后両陛下が行幸なされた折 2階の展望スペースから明治丸の全景を御覧になったのち 明治丸の船内に入られ、明治天皇が座乗された船内の御座所をはじめ、階段室やサロンなどを御覧になられました。
その後 文化庁や東京都の支援により文化財の総合的な保存修理計画の策定及び保存修理ちうことで 国会で予算が認められようやく修繕が行われることになったそうです。
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パンフレットの写真です。平成23年の文字があります。
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これは2007年に公開中だった明治丸を写したものです。
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帆船です。2007年。内部は古いですが広くて豪華でした。
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パンフレットの明治丸。昭和8年とあります。
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2007年撮影。
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錦絵「函館港烟花展覧図」 / 三代目歌川広重
明治9年7月16日〜18日、函館碇泊中の明治丸の錦絵。
一日も早く 修繕が終わり その優美な姿が再び公開される日を待ち望んでいます。
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2013年07月05日

江東区中川船番所資料館

江東区中川船番所資料館 は江戸時代に江戸を出入りする船を取り締まっていた中川番所のそばに建てられた資料館です。
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川の駅に面しています。
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江東区中川船番所資料館  江東区大島9丁目1ー15
都営地下鉄東大島駅 徒歩5分
小名木川と中川、船堀川が交差し、江戸時代に中川船番所があったと推定される場所の近くに平成15年(2003年)に開館しました。
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「常設・企画展示室では、ジオラマなどにより中川番所の建物の一部を再現し、関連資料の展示をはじめ、江戸と関東周辺を結ぶ河川交通の歴史を紹介しています。釣具展示室では江戸和竿を中心に、季節に応じた釣具をはじめ、釣り文化を紹介する資料や錦絵等もご覧いただけます。」入館料200円。入口の 写真です。
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もともと、小名木川の舟番所は、隅田川の接続地点である万年橋付近にあったが、下総方面から深川地域に入る荷の取り締まりの必要性から、寛文1年(1661)に、ちょうど反対側のここ中川口に移動しました。
旧中川から小名木川(運河)沿いには、長州、土佐など諸藩の下屋敷があり、米経済の近世には船で物資を運び込んでいました。当時の水運や物流を紹介している資料館です。
見学の順路はまず3階から。エレベータを下りるとタイムスリップ。目の前にある大きなジオラマが当時の川の風景を再現しています。
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このジオラマだけが撮影可です。
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目の前に船番所や酒を積んだ小舟があります。
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立体的な展示のほかには中川番所の説明や江戸時代の水運などの展示があります。
3F
1.中川番所
3.江戸和竿と釣り文化
2と3は企画展を行う際に展示替えとなります。
展望室もあり旧中川と小名木川の風景、番所跡が展望できます。
2F
「郷土の歴史・文化紹介展示室」
1F
江東区や水運の歴史、釣りに関する書籍閲覧室
季節にちなんだ江戸和竿を展示。
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パンフレットの表紙絵は歌川広重 江戸近郊名所 中川口之図 の一部。(太田記念美術館蔵)
太田記念美術館蔵はつい先日行ってきました。別名浮世絵美術館といいます。
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長谷川雪旦の絵と比較してみると広重の絵は「江戸名所図会」をほぼ二倍横長にし、視点を手前にぐっと引いた広角視点となっています。
そこに描かれているのは、中川船番所など殆んど同じで、広重が長谷川雪旦の画面を再構成して作画したことが考えられるそうです。雪旦の絵はあくまでも「江戸名所図会」本文に対する挿絵であり、説明的。 広重の絵はそれ自身独立した一枚絵である。

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2013年07月04日

旧中川・川の駅(江東区)

逆井の渡しから少し先 東大島駅ちかくにある川の駅に行きます。途中に大きな人道橋があります。
埋め立てられた旧竪川の河口部分から旧中川を跨ぐ人道橋(江東区←→江戸川区)虹の大橋です。
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幅が広くて広場なのか橋なのかわからないくらいです。
3径間コンクリート製ビーム桁
橋長(m) 74.6
橋幅(m) 30.0
幅30mもありますが 人道橋です。
川の駅手前に中川大橋があり カヌーがたくさん水上を行き来していました。
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平成25年3月中川大橋南側の旧中川河川敷に「旧中川・川の駅」がオープンしました。
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この「川の駅」はかって江戸への舟運で賑わっていたこの近辺、小名木川と旧中川の交差水面の風景を復活させることをコンセプトとし、江東区で設置したものです。
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これは 案内板にあった写真です。
23区内に川の駅が整備されるのは初めてだそうです。
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ここにはカヌー、カヤックなどウオータースポーツ用の乗船場や水陸両用バスが利用するプラットフォームとスロープがあります。
東京初となる水陸両用バス「スカイダック」が運航しています。
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水上ではスクリューで航行し、陸上では車輪で走る水陸両用バス「スカイダック」です。空飛ぶアヒル・・というよりスカイツリーとダックを合わせた名前なんでしょうね。「亀戸梅屋敷」と「東京スカイツリー」それぞれを始発終着点とした2コースがあります。陸を走っているときはとても目立つバスです。この川の駅でトイレ休憩があり ここのスロープを使い水上に入ります。
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休憩所もあります。水彩テラスはカフェがありお土産が売っています。なぜか足湯もあります。
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歌川広重作「名所江戸百景」から第70景 
中川口 安政4年(1857)2月
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広重の名所江戸百景「中川口」で描かれている絵では、二艘の船が行き来する川が小名木川、中央左右に流れる川が中川、そして、前方、雲の彼方へ流れる川が新川(船堀川)、中川は絵の右側へ流れて海に入る。また左隅に中川船番所の一部が描かれている。
舟が行徳を越えて、江戸に入るためには、最後に小名木川を通ることになる。そこには中川番所と言われる舟番所が置かれていた。
すぐそばには 中川番所資料館があります。

posted by うめのはな at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区

2013年07月03日

逆井の渡し跡(江東区←→江戸川区)

旧中川沿いに歩くと かつて都電が中川を渡っていた「亀小橋」があります。
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亀小橋という名前の由来は、亀戸と小松川を結ぶ橋ということで、この名前がついたそうです。
亀小橋は、昭和43年までは大切な交通手段として、都電が走っていました。路面電車専用の橋だったそうです。橋の両側にある歩道の地面には、当時、都電が走っていたことを記した写真のプレートが埋め込まれています。
その少し先にあるのが逆井橋。
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首都高速が高く川を横切り、その直下に逆井橋(さかさいばし)があります。この場所が、名所江戸百景「第67景 逆井のわたし」のあった所です。江東区亀戸9-12〜江戸川区小松川2-113地先
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逆井の渡しは、江戸から亀戸村(現亀戸7丁目)を経て、下総(しもうさ)の佐倉へ通ずる街道の中川に設けられていた渡し場です。この付近の風景は安藤広重の絵にも描かれた有名な場所でした。
中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。
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江東区側にある 逆井の渡し記念碑です。
逆堰(さかさゐ)の渡は東葛西と西葛西との境にて、河の名を中川といふ。太井と隅田との中を流るればなるべし。網うち釣たれし人、舟にも岸にもおほかり。おのれしのびにあみだぶつとてひつゝ過るに、いをはすくわれぬべくや。『相馬日記』
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この付近は風景に勝れ、広重の絵にも描かれて有名でした。
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安藤広重が「名所江戸百景」「逆井のわたし」。
逆井橋から白鷺の群れを前景に田園風景にゆっくりと流れる中川を描いています。二艘の渡し船と、遠方には房総半島も見えています。広重独特の濃い藍色のボカシと白鷺の白さが美しく対比され、情感溢れる作品です。
 
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少し逆方向の 旧中川にかかる、歩行者・自転車専用のふれあい橋からはほぼ全景のスカイツリーが見えます。水に映るスカイツリーもあって ここは現代の絶景ポイントかもしれません。

posted by うめのはな at 07:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 江東区