2013年12月25日

すみだ郷土文化資料館界隈

東京23区には各区に郷土資料館(室)があります。
すみだ郷土文化資料館は隅田公園近くにありました。
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東京都墨田区向島二丁目3番5号
残念ながら休館日でしたから入れませんでした。
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このすぐ下に佐多稲子旧居跡の案内板があります。
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 「佐多稲子はプロレタリア文学者であり、戦後は婦人民主クラブの創立に奔走して民主化運動に貢献しました。

明治37年生まれで、小学生のころから利発な文学少女でしたが、結核で亡くなった母親の治療費や父親の放蕩などで家計がひっ迫したために、11歳の時に父と祖母とともに叔父を頼って長崎から上京して、向島小梅町52番地(現在の隅田公園内)の家に身を寄せることになりました。
牛嶋尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるためにキャラメル工場で働かなければならず、小学校を中退してしまいました。
その後、働きながら小説や短歌を寄稿し、後に『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、それが出世作となりました。

戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる『私の東京地図』には、長く暮らした向島周辺のことが書かれています。向島町おこしの会」
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この界隈からもビルとビルの隙間にスカイツリーが見えます。
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墨堤通りと水戸街道に挟まれて 見番通りという細い道があります。
道の中ほどに 置屋の見番所があるところから 名付けられたようです。
見番通りを少し北上すると 三囲神社があります。


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2013年12月14日

白髭神社〜東京スカイツリー

白髭神社を出てすぐのところにこんな説明板がありました。
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西川春洞・寧住居跡  親子二代にわたる書道家
東京都墨田区東向島3丁目4
「西川春洞 ( しゅんどう ) は、肥前唐津藩医を父に弘化四年 ( 1847 ) 日本橋の家で生まれました。
幼い頃、書を中沢雪城に学び、銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。
そして、この地 ( 寺島村 1207番 ) に居を構え、多くの弟子を養成しました。
春洞は、地域の社寺や人々の求めに気軽に応じ、多くの作品を残し、大正四年この地に没しました。
春洞の息子・寧 ( やすし ) は、明治三十五年ここに生まれ、寺島小学校 ( 現第一寺島小学校 ) に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和六十年に初夏として初めて文化勲章を受章しました。
平成元年五月・目黒区中町で没しました。
( なお、住居跡は階段下・約三十メートル先の右側の辺りです。  )
平成十二年三月 墨田区教育委員会」
墨堤通りに出て「すみまるくん」に乗ります。区内循環バスです。
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15番から乗り 言問い団子 長命寺などをまわりスカイツリーに行くバスです。
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『「むこうじま」の「むこう」とは、浅草からみて、隅田川の向こう側にあたる場所を指し
て、向こうの島と呼んだことによるとされています。当時、行政上の名前として「向島」が使われたことはなく、俗称でしたが、多くの文人墨客が作品の中で独特の想いと趣を込めて「向島」と著し、定着しました。
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「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは1891年(明治24年)に
向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった町名が成立してからである。墨田区』
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押上駅から東京スカイツリー ソラマチに行きます。
今回は案内がてらソラマチ5F『産業観光プラザ「すみだ まち処」で一休み。
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スカイツリーのいっちばん上にある避雷針のレプリカで、通称「すみだのてっぺん」。
実物大だそうです。
墨田区を634分の1に縮小して描いた「すみだマップ」が床にあります。
問屋国分でおみやげなどを買いすみまるくんに乗り継いで 錦糸町へ。
そこで友人たちと別れ帰宅しました。

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2013年12月13日

白鬚神社4

狛犬さんが江戸風でいい感じです。
文化三年銘狛犬一対(墨田区登録文化財)
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狛犬は文化12年(1815年)当時花柳界で知られた吉原の松葉屋半右衛門と山谷の料亭八百善の奉納したものです。
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作者は神田今川町の石工、六兵衛明貴の手になるものです。
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白鬚神社の「御宝前」に「奉納」されたものです。
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石灯籠
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石灯籠は旧寺島村出身の田中抱二と中山湖aによって奉納されました。
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神輿庫
神社神輿は嘉永元年(1848)行徳の後藤直光作
戦前は周辺三神社に計13基の神輿があり、最も大きい白鬚神社の神輿が「十三番」の番札をつけたことから、「十三番神輿渡御」とも呼ばれています。
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手水舎
白髭神社を出ます。
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2013年12月12日

白鬚神社3

白髭神社拝殿です。
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白鬚神社  墨田区東向島3-5-2
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昔は境内に松、欅などが多く繁り、白鬚の森と呼ばれて、向島八景、隅田川二十四景に数えられたほど、緑の美しいところだったそうです。
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江戸名所会図 白髭明神
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境内社
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諏訪社
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水神社
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「寿老神は 長生きする中国の伝説上の人物です。頭に頭巾をかぶり、白髪で、全ての人間の寿命が書かれた巻物を杖に結び、鹿を連れています。
白鬚神社の寿老神は祭神であるため、「寿老人」ではなく、「寿老神」としています。区内最古の神社のひとつといわれます。
平安時代に慈恵大師が関東に下ったおり、滋賀県に鎮座する白鬚大明神の分霊を勧請して祀ったのが始まりといわれます。」


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2013年12月11日

白鬚神社2

神楽殿の向こう 拝殿前にも石碑があります。
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「山玉向島講社の碑」
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富士講の講社が建立した「山玉向島講社の碑」
溶岩っぽいものや 富士山の形をしているものもあります。
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当時の講により結ばれた地域の人々の様子をうかがい知る貴重な資料として、区の登録文化財として指定されています。
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「岩瀬鴎所君之碑」
将軍継嗣問題で左遷・譴責を受け、寺島の岐雲園に蟄居していたそうです。
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白鬚大神の碑
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白鬚神社

 祭神 
猿田彦大神
天照大御神 高皇産霊神 神皇産霊神
大宮能売神 豊由気大神 健御名方神

「天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまっつたと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化12年(1815)に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治40年(1907)には氏子内の諏訪神社を合祀した。
隅田川七福神 寿老人

 当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでてく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。」
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拝殿前の鳥居です。

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2013年12月10日

白鬚神社1

鳥居をくぐると 左側に古い石碑が並べておいてあります。
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一番先に目についたのが黒人塚
江戸時代にオランダ人に連れてこられた黒人の慰霊碑かと思いましたがそうではありませんでした。
浜辺黒人(はまべのくろひと)という江戸時代中期の狂歌師の石碑でした。
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 北島玄二「うつせみの」の歌碑(黒人塚)
「黒人塚」と大書して、右面に「天やこの人を生み 天やこの人亡る この人阡人の玄 崑崙一人に選る倚る」(原漢文)、左面に「うつせみのうつつにしばしすみた川 渡りそはつるゆめのうきはし」としています。
白鬚神社にあるもののうち一番の古碑で、寛政十二年(1800)と彫られた横に「玄二号黒人」の文字があります。
 
本名を北島玄二といい、玄の字が黒に通じることから黒人と号した.
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すぐ後ろの碑は四世今日庵「こころほど」の句碑。天保7年(1836)
「こころほど こと葉のたらぬ さくらかな」四世今日庵 元風
元風は本名を松本伊助といい、師一蛾につき、天保年間(1830〜1844)に活躍した江戸の俳人用です。
何やら絵のようなものが見える石碑があります。
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天広丸「くむ酒は」の狂歌碑
天広丸(1756〜1828)は本名を磯崎広吉、号を酔亀亭と名のり、宝暦6年(1756)鎌倉市今泉に生まれ、文政11年(1828)没
「くむ酒は 是 風流の眼なり 月を見るにも花を見るにも」
上部に酒を表すとみられる標記があります。
ひときわ大きい石碑と説明板があります。
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鷲津毅堂碑   高さ256cmの大碑
「鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政8年(1825)尾張に生まれました。
通称を毅堂または蘇州と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。
 20歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永6年(1853)久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868)調停より権弁事を任ぜられ、明治2年(1869)大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治15年(1882)司法権大書記官となりますが、同年、10月5日、58歳で歿しました。
なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。
本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。
 平成18年(2006)3月 墨田区教育委員会」
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「墨多三絶すみださんぜつ」の碑

 「墨田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は、文政5年(1822)のことです。
なお、絶とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。
この碑(草書)は三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書)の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。
 維舟渡口歩汀名沙来飲祀前売酒家一
 道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
 不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
 欲管繁華事閑睡落花流水中
 断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
 鴎邊柳処元陳迹付与詩人吟至今
 上毛淡齋佐羽芳詩壬午冬日書詩佛老人大窪行
  平成18年(2006)12月 墨田区 」
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一番右に見える石柱は 春秋庵白雄「人こいし」の句碑 です。
「人こひし 火ともしころを さくらちる」
「于時文化歳在癸酉(1813)春3月 拙堂創建之 補助居行」
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「筆塚 中原耕張」
「つくつくし つめよ硯の すみ田川」
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力石もいくつかあります。
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神楽殿です。
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銀杏の木の奥に拝殿が見えます。

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2013年12月09日

百花園〜白鬚神社

向島百花園を出て白髭神社に向かいます。
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右手に200m程で いかにも下町という古い家並みの路地を歩きます。
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街角にある路地尊。お地蔵様でもいるのかしら・・と思えば消火栓。
「路地尊とは、路地の安全を守るシンボルです。名前の由来は「地域のコミュニティの場であり、災害時には避難路になる路地を大切にしながら自分たちの手でまちを守ろう」という考え方から、その名が付けられました。」とのことです。
そういえば東向島駅からの道でも見かけました。
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みごとな銀杏の白髭神社が見えてきました。
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白鬚神社  墨田区東向島3-5-2
天暦五年(951)近江国志賀郡境打颪(滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の御分霊としてお祀りしたことが始まり。(隅田川七福神の寿老神)
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境内は黄金色
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白髭神社の鳥居です。
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鳥居を境内側から見ています。黒い案内板があります。
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寺島ナスの説明板です。
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寺島ナス
「かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688〜1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。
 享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土寄稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。
 農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(青物市場)等出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。 平成9年度JA東京グループ」
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境内には 寺島ナスの鉢植えが2つありました。
もうナスは2〜3個しかなく終わりかけでした。
実は鶏卵ほどの大きさで、黒紫色で光沢のある皮は硬い。江戸時代に寺島村(現在の墨田区東向島付近)で盛んに栽培され、その後栽培が途絶えたものを、近年になり復活させたものだそうです。
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2013年12月08日

向島百花園3

百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭です。
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大名庭園とは異なった美しさがあります。
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紅葉がきれいです。
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大きな銀杏の木が黄金色でした。
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庶民的なほっとする池です。
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落ち葉の中の散策路
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スカイツリーも見えます。
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落ち葉の中で咲いていた 野菊 キヨスミギクの名がありました。
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四阿です。
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梅洞水という 立木を利用した井戸です。
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路地琴(ろじきん)
路地琴とは、据え置き型の水琴窟(すいきんくつ)のこと。
上からひしゃくで水をかけると、壷の中で水滴の音が反響して、キーン、コーンと儚げで美しい音色を奏でます。
狭い路地に置いても水琴窟が楽しめます。
さっそく試してみました。水をかけたらキンコン キンコンと音がしました。
路地琴」を墨田区向島地域に広めることによって向島のまちを彩っていくことを目的として設立された プロジェクトで 墨田区のあちこちに置かれているそうです。
この百花園の名物は、全長約30mもの萩花のトンネル.今は トンネルの枠組みだけとなっていました。
次は白髭神社に向かいます。

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2013年12月07日

向島百花園2

庭門を入ると左手に小さなお堂があります。
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隅田川七福神 福禄寿尊堂
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竹林もあります。石は何だかわかりません。
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木々は冬支度
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御成座敷(おなりざしき) 昭和61年に改築されたものです。
「御成座敷」は、百花園創設当時、百花園に集うお客様のために、酒井抱一が設計したと言われています.
座敷は、この地域で「水塚」といわれる、隅田川の洪水に対処するため、池を掘り、その土で塚(基壇)を築いたものの上に立てられています。11代将軍徳川家斉公がお成りになって以降、「御成座敷」とよばれるようになりました。
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園内には芭蕉の句碑をはじめ20数基の石碑があります。
江戸文人趣味豊かに作庭され、大名庭園とは趣を異にした草庭です。
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詩経」や「万葉集」に因む歴史的草花を植栽し、春や秋の七草をはじめ、四季それぞれの植物が植え込まれ、野趣豊かな庭園となっています。
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初代河竹新七追善しのぶ塚の碑
「 隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。明治13年(1880)3月」
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二代河竹新七追善狂言塚の碑
きょうげん塚
「二世河竹新七、俳名は其水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を跨えて明治25年(1892)の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの荵塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。明治27年(1894)11月」
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二神石碑
くくのちの神
かやのひめの神

「この二柱の神は古事記上巻にある伊邪那岐伊邪那美二神が生んだ神話の中に出てくる神で久久能智神は木の神、鹿屋野比売神は野の神である 古事記上巻より 」
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日本橋石柱
日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋時代と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える。

その他 園内には、『飯島光峨翁之碑銘碑』、『茶筅塚と柘植黙翁句碑』、『大窪詩仏画竹碑』、『其角堂永機句碑』、『芭蕉「春もやや〜」の句碑』、『雪中庵梅年句碑』、『杉谷雪樵芦雁画碑』、『北元居士句碑』、『寶屋月彦句碑』、『鶴久子歌碑』、『矢田寫ニ翁句碑』、『螺舎秀民句碑』、『亀田鵬斎墨沱梅荘記碑』、『金令舎道彦句碑』、『月岡芳年翁之碑』、『七十二峰庵十湖句碑』、『芝金顕彰碑』、『千寿庵益賀句碑』、『『井上和紫句碑』、『最中堂秋耳句碑』、『山上臣憶良秋の七草の歌碑』など多数の石碑がありました。
次に園内の紅葉を楽しみます。

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2013年12月06日

向島百花園1

入園口前には 園内の案内板があります。
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向島百花園 江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804〜1830年)に造られた庭園。
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[江戸時代文化2年(1805)頃、仙台出身の 骨董屋を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)が、向島の寺島村で元旗本、多賀氏の屋敷跡約3,000坪を購入し、鞠塢と親交 の深かった一流の文化人たちの協力を得て、文人趣味豊な庭園として創設。
昭和8年 (1933) 2月 国の 「名勝」に指定昭和13年に(1938) 当時の所有者から東京市に寄付戦災で、石碑以外は全て焼失しましたが、 昭和24年に復元昭和53年10月文化財保護法による「名勝及史跡」の指定現代に残る江戸時代花園唯一のものです。]
入園料150円
入口脇に 大きな石碑があります。
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東京市碑
(向島百花園)
向島百花園由来の碑 昭和十四年七月 東京市
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向島百花園には隅田川七福神 福禄寿尊があります。
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「隅田川七福神めぐり」は江戸時代から続いているもので、七福神詣の元祖とされている。
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正門を入りすぐに、庭門があります.
庭門には太田南畝(蜀山人)が「花屋敷」と記した扁額がかけられています。(複製)
左右の柱には「春夏秋冬花不断」と「東西南北客争来」の一対の聯(れん)が掛けられています。
大窪詩佛の書だそうですが 戦争で焼けているので複製です。
往時は、江戸中に百花園の名が知れ渡り、多くの庶民の行楽地として賑わいました。弘化2年(1845)には、12代将軍家慶の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ、多くの著名人が来遊した記録が残っています。
中に進みます。

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2013年12月05日

東武博物館〜向島百花園

三越前駅から半蔵門線に乗って 東向島駅に行きました。
東武伊勢崎線乗り入れなので そのまま行けます。
東向島駅には東武博物館があります。
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東武博物館(とうぶはくぶつかん)は、東武鉄道に関する資料・車両などを収集・展示している博物館です。今回は入場せず 向島百花園に向かいました。道路沿いにも車両が展示してありました。
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1720型デラックスロマンスカー(東武博物館)
所在地 墨田区東向島4-28-16 
「1720系は昭和35年(1960)に就役し、浅草〜東武日光・鬼怒川方面へと走った特急電車です。当時の車両技術の粋を集めたオール電動車6両固定編成で、昭和48年(1973)までに7編成作られました。ジュークボックス付きのサロン室を備えるデラックス車両として長い間東武鉄道の看板特急でしたが、100系特急スペーシアにその女王の座をゆずる平成3年(1991)引退しました。」
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日光軌道線203(東武博物館
「日光軌道線は明治43年(1910)、日光精銅所の資材輸送を主目的に敷設されました。昭和22年(1947)に当社と合併しましたが、その後、観光客の増加にこたえ、開業以来使用していた旧形車を廃し、昭和28年(1953)・昭和29年(1954)に大形車を導入しました。この車両は昭和29年(1954)に汽車会社で造られた2車体3台車連接式の珍しい電車です。日光軌道線は、昭和43年(1968)に姿を消しました。」
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日光軌道線203

全長:18,550mm
幅  :2,200mm
高さ :3,702mm
線路をくぐり 向島百花園に向かいます。
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途中くすのき児童遊園に稲荷神社がありました。
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向島百花園の塀に沿って歩きます。
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向島百花園入口です。
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東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園です。
入園口が見えてきました。

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2013年11月03日

牛嶋神社5(墨田区)

牛嶋神社社務所です。
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境内社小梅稲荷神社があります。
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小梅稲荷神社
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旧向島小梅町にあったと稲荷だと云われます。
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庭石のようなものがあります。
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次は神楽殿と手水舎です。
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 手水舎
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神楽殿
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大きな灯篭と水鉢
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牛嶋神社からも 東京スカイツリーがよく見えます。
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いったん 墨田区から離れます。

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2013年11月02日

牛嶋神社4『烏亭焉馬「いそかはすは」の狂歌碑』

牛嶋神社境内には『烏亭焉馬「いそかはすは」の狂歌碑』があります。
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烏亭焉馬「いそかはすは」の狂歌碑(牛嶋神社)
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墨田区登録文化財
  烏亭焉馬「いそかはすは」の狂歌碑

「いそかすは 濡れまし物と 夕立の 
   あとよりはるゝ 堪忍の虹」 
              談洲楼烏亭焉馬

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 この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生れ、本所相生町5丁目(現 緑1丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談州楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
  元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていましたが、天明4年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
 文政5年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
 (現在は寺・墓 共に江戸川区平井に移転)。
 平成7年(1995)3月  墨田区
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殲蒙古仇碑記 力石(牛嶋神社)
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「八丁睦」と彫られた台の上に牛が線刻されている 日時計
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太田南畝詩碑 荻園加藤先生之碑もあるはずなですが どれがそうなのか確認できませんでした。
これかな・・・・と。
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井戸かしら?
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資料や参考にするものがないので 不明です。
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慰霊碑?

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2013年11月01日

牛嶋神社3 狛犬

牛嶋神社拝殿前には狛犬が3対あります。
それぞれ特徴ある狛犬です。(墨田区登録文化財)

江戸 獅子山
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左狛犬 獅子山 子落とし
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柔和で柔らかそうな体つきの親狛犬と、獅子山の下から親を見上げるぷっくりとしたお腹の子狛犬。
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右狛犬 獅子山 雄 かも。周りを見下ろす姿。
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左の狛犬に対し明らかに筋骨隆々として、太く逞しい四肢。
建立年号(石工) 文政11年(1828年) 台座には大正七年と記載

拝殿横に鎮座する江戸尾立ち 蹲踞 阿吽
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左狛犬 吽 江戸尾立ちの中でも、かなり初期型。
吽のにっこりと笑った顔がユーモラス。
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台座に奉納日が大きく記載
建立年号(石工) 享保14年(1729年)
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黒く焦げたように見えるのは関東大震災の時の影響でしょうか。

拝殿前 獅子山と並列して鎮座する 
右狛犬 阿 宝珠あり
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右狛犬 阿 巨大な宝珠あり
苔むしていて相当古そうな狛犬です。
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吽 江戸尾立ち 右顔に大きな欠けがあります。
建立年号(石工) 文化七年(1810年)二月奉納

もう一対狛犬があります。
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比較的新しい狛犬さんがいます。(昭和7年奉献)
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現在の場所に移転したとき 奉納されたものなのでしょうね。
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2013年10月31日

牛嶋神社2 撫牛

江戸時代の地図を見ると、牛嶋神社は「牛御前」と書かれています。
その名の通り古くから牛にまつわる信仰があります。本殿に向かって右側には「撫牛(なでうし)」と呼ばれる牛の像があります。
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自分の体の悪い部分と同じところを撫でると治ると言われています。
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牛嶋神社 石造神牛(撫牛) 墨田区登録文化財
「牛の御前」とも呼ばれる牛嶋神社の境内に、たたずんでいる石造の牛像があります。撫牛と呼ばれて親しまれているもので、自分の身体の痛いところと同じところをさすれば治るといわれています。さらには涎(よだれ)掛けを奉納し、それを生まれた子供に掛けると健康に育つともいわれています。
 撫牛自体には年号はありませんが、隣に建てられている「撫牛奉納碑」には文政8年(1825年)の記載があり、江戸時代から信仰されていました。
 明治の文人淡島寒月は「なで牛の 石は涼しき 青葉かな」と詠み、昭和の作家で近所に住んでいた堀辰雄も自伝的作品『幼年時代』の中で「私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」と記しています。墨田区教育委員会
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メランコリックなまなざしの牛さん。撫でてきました。
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千羽鶴をもって来た若い夫婦が牛を撫でていました。
脇にはいくつもの千羽鶴がかけられていました。
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「牛奉納」碑
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牛嶋神社の境内地奥の玉垣内には、3対の狛犬がありますが、その他に安政6年(1859年)銘の神牛1対が安置されています。この神牛は、2基とも同型です。台座を含めて総高212センチメートル、神牛像の高さは97センチメートル、安山岩製です。表情は厳しく、境内にある撫牛の温和な表情とは対照的です。
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牛嶋神社の通称「牛御前」にちなみ、狛犬のかわりに牛が奉納されたものと考えられています。
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左右とも像座に「奉納 願主 中之郷村 大工 久次郎」、台座に「大工中」と刻まれています。さらに右の像座には「安政六己未年三月吉祥日」、台座に「小梅村 石工 角治郎」と陰刻されています。
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包丁塚(食肉になった牛の慰霊塚)
下部の黒い石板には「慰霊 庖丁塚」と大きく描かれ、牛の後ろには次のような句が刻まれている。
「人の世の 奉仕に生きる牛 黙す目魚」
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2013年10月30日

牛嶋神社1 (墨田区)

隅田公園内というか隣接というか 牛嶋神社に行きました。
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道路側から見ています。
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牛嶋神社石造鳥居
「 この鳥居は、花崗岩製のもので高さが375センチメートルの明神型鳥居です。現在の神社境内の西門にあたります。柱には文久2年(1862年)正月の銘があり、右柱には「奉献 御手洗信七郎藤原正邦」と刻まれています。この人物は、子育地蔵堂(東向島三丁目2番)の傍らに奉納されている万延元年(1860年)の銘がある庚申塔にもその名が刻まれており、本所・向島と縁が深かったのではないかと思われます。
 関東大震災に被災して、神社が旧境内地(現在の向島三丁目周辺)から現在に移る際、共に移転してきましたが、鳥居自体の保存状態は良好と言えます。」
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牛嶋神社 向島一丁目4番5号 
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牛島神社の概要

「牛島神社は、墨田区向島にある神社です。牛島神社は、貞観年間(859-79)の頃慈覚大師が建立したと伝えられています。かつては牛御前社と称しており、その由来については、慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会った際の託宣により建立したと伝えます。本所総鎮守として崇敬を集め、明治時代には郷社に列格していました。」
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本殿前に構える三輪鳥居(みわとりい、別名・三ツ鳥居)
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三輪鳥居は、鳥居の様式の1つである。三ツ鳥居ともいう。

1つの明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせたものである.
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ちょうど七五三の記念撮影中でした。
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東都屈指の大社殿
牛嶋神社は、貞観二年(860年)創建。本所地区の総鎮守で、墨田区のほぼ南半分に近いたいへん広い地域が氏子となっています。
御祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)。以前は弘福寺の裏手、今の桜橋の付近にあったそうですが、関東大震災後の昭和七年に現在の場所に移転しました。
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社殿は総檜権現作り。
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隅田公園側から見ています。
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こちらの鳥居は木製です。

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2013年10月29日

隅田公園2(墨田区)

「明治天皇行幸所碑」の近くにある石碑です。
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隅田公園水戸邸跡由来記
この場所は、かって徳川昭武(水戸徳川家)の屋敷であり明治天皇が幾度も訪れました。
そのことを記念して、昭和五年(1930)関東大震災の後に開園した隅田公園内に子孫である徳川圀順が建碑したものです。
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園内にはいくつかの史跡があります。
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富田木歩終焉の地
「富田木歩(とみたもっぽ)は本名を一といい、明治30年(1897)に墨田区向島2丁目の鰻屋の次男に生まれました。2歳のとき両脚の自由を失い、小学校に入学できず、彼はいろはカルタ等で遊びながら文字を覚えました。
 たびたびの洪水で家は貧乏のどん底に陥り、2人の姉は苦界に身を沈め、妹は女工に弟も内職の手伝い、彼も徒弟奉公に出ました。しかし仲間に辛く当られ仕方なくやめました。こうした苦しみと孤独の中で、彼は俳誌『ホトトギス』を知り、俳句に惹かれます。
 やがて、彼は臼田亜浪に師事して句作に精進し、その俳句は高く評価されるようになります。彼を理解し援助する新井声風という俳友もでき、彼に俳句を学ぶものもできました。しかし、妹も弟も肺患で死に彼自身も肺を病むといった苦境での句として、
   かそけくも 咽喉(うど)鳴る妹(いも)よ 鳳仙花(ほうせんか)
 木歩は関東大震災にあり、声風に背負われて墨堤に避難しましたが、枕橋が焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。26歳でした。
 平成元年(1989)3月 墨田区 」
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「二峯先生之碑」と「堀辰雄住居跡」説明板
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二峯先生とは、幕末から明治にかけて活躍した書家.
書家高林二峯の卒するを偲んで、倅で同じ書家の五峯高林寛が、二峯の墓所である円通寺の門前に建てた碑.
高林二峯は文政2(1819)年、榛名と妙義の山間、上野国(群馬県)碓氷郡下後間に生れたので二峯と号したという。諱(いみな)は信好、字は子述,多四郎といい、鵞翁とも号した。明治30年、齢79歳で没したという。篆額は勝海舟
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「堀辰雄住居跡」
明治39年、「風立ちぬ」等の名作で知られる堀辰雄は、母・志気とともに向島に移り住みました。翌年に志氣が向島須崎町の彫金師・上条松吉に嫁いでから、明治43年夏の大洪水で被害を受けるまでの間この場所で暮らしました。その後は、地元の牛島小学校から、芥川龍之介も学んだ両国の府立第三中学校(両国高等学校)に入学し、大正10年には中学校4年で第一高等学校理科乙類に入学しました。関東大震災の翌年4月には、松吉と向島新小梅町、現在の隅田公園隣の新築の家に引っ越しました。
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隅田公園からもスカイツリーがよく見えます。
隅田公園内には他に『野口雨情文学碑』、『墨堤植桜の碑』、『藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑』、『「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑』、『隅田公園少年野球場』、『竹屋の渡し跡』、『花の碑』、『秋桜子句碑』、『山の宿の渡し跡』などがあります。
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2013年10月28日

隅田公園1・(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)

枕橋を渡ると隅田公園(墨田区側)です。
隅田公園は隅田川の両岸、墨田区と台東区にまたがる臨水公園で、都内有数の桜の名所です。
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入口からスカイツリーが見えました。
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)
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向島一丁目付近は、江戸時代には小梅村と呼ばれる農村地帯でした。
元禄六年(1693)、水戸徳川家は幕府からこの地を拝領し、下屋敷が置かれました。
明治維新後、この下屋敷水戸徳川家の本邸となり、「小梅亭」と呼ばれることになり ました。しかし大正十二年(1923)の関東大震災で焼失し、その跡地は隅田公園と して生まれ変わりました。
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汐入りの池
「現在の日本庭園は、隅田公園が整備される以前にこの地にあった水戸徳川邸の遺構を活用しています。
 ここには江戸時代、水戸藩の下屋敷があり、主に蔵屋敷として使われていました.明治維新後は一時上げ地となりましたが、その後下賜され、水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまで代々ここに住みました。当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在り日の姿が伺えます,
 関東大震災以後、隅田公園の区域に取り込まれ、邸内の池(当路は汐入の池)等の遺構を活用し、日本庭園へと形を変えて現在に伝えられています。」
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隅田公園
所在地:向島一丁目、二丁目、五丁目
面積:80947.38平方メートル
開園年月日:昭和6年3月24日
桜の本数:353本(ソメイヨシノ、シダレザクラ、サトザクラ
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明治遷都後初の宮中花見 
「江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤は、明治時代になってもその魅力を増していきました。
 明治時代になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移しました。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していましたが、昭治維新の混乱期や東京遷都で中断していました。 1875年(明治8年)花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選びました。
その際に詠んだ歌がここに残されています。いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌です。」
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明治天皇御製
『花くはし櫻もあれと此やと ( 宿 ) の』
『世々のこゝろを我はと ( 問 ) ひけり』
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「明治天皇行幸所碑」
このほか園内にはいくつかの史跡があります。
続きます。

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2013年10月27日

枕橋(墨田区)

東京スカイツリー前の川を北十間川と言います。北十間川は隅田川に合流しますが そこに水門があります。
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源森川水

北十間川に流れ込む隅田川の水は、ここで水量を調整されています。通常は開放されていますが、高潮や津波、地震のときには、閉鎖され、吾妻橋下流の江東デルタ地帯を守っています。
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現在隅田川とは水門で仕切られていますが、水門の手前に 第一橋梁(河川の最下流に架かる橋)として恥じない立派な石造りの橋があります。
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枕橋。東京都墨田区向島1丁目付近
吾妻橋一丁目と向島一丁目を結ぶ橋
構造・形式 単径間コンクリートアーチ
橋長(m) 25.4 橋幅(m) 18.0
現橋架設年 昭和3年(1928)
創架 寛文2年(1662)。
北十間川が隅田川に合流する第一橋梁。
江戸時代源森橋とも呼ばれた。
現橋は震災復興事業橋である。
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橋に埋め込まれている当時の風景のレリーフ。
源森橋の北に水戸藩の下屋敷(現隅田公園)があり、そこに入る掘割に新小梅橋という小橋が並んであったため、ふたつ並びし枕橋と小唄にも謡われていました。
新小梅橋は後に撤去され、源森橋は別の橋に名を譲り、明治8年に元の源森橋だけが単独で枕橋と呼ばれるようになりました。
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親柱はビール樽の形。ここにはアサヒビールの工場がありました。
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「枕橋茶や」閉店してしまって 今はツタに覆われています。
その前でウェディングドレス姿で何やら撮影していました。
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東武線と高速道路が上を交差しますがここからも東京スカイツリーがよく見えます。
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枕橋南が リバーピア吾妻橋で 北側は隅田公園になっています。
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墨田区役所前の通りを隅田公園方面に渡しています。

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2013年10月26日

東京スカイツリーソラマチ5F・産業観光プラザ すみだ まち処

とうきょうスカイツリー4Fのスカイアリーナから ソラマチの中に入りました。
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振り向けばスカイツリーがそびえ立っています。
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エスカレーターに乗り5Fへ。
ソラマチ内は撮影禁止です。
ソラマチ5F(イーストヤード)は「Japan Experience Zone」です。
今日の目的はココ!
このJapan Experience Zoneは、いわゆる「観光・イベントスペース」です。
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『産業観光プラザ すみだ まち処』にむかいます。
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広いスペースで 「特産」「ものづくり」「まちあるき」「歳時」の4テーマ別に展示ゾーンが分かれていて、墨田区の産業や文化、歴史・観光スポットなどをきめ細かに紹介しています。

墨田区が世界に誇るものづくり産業の素晴らしさや、観光情報、特産品の紹介・展示販売などが行なわれています。

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すみだの産業、文化、歴史、観光、グルメ情報がここに凝縮されています。
街歩きのパンフレットをもらったり 街歩きツアーに参加することもできます。
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スカイツリー最上部避雷針の実寸大模型「すみだのてっぺん」、墨田区を634分の1に縮小して描いた「すみだマップ」、エリアごとにむ観光スポットを紹介するコーナーなdがあります。
「すみだのものづくり」「すみだの特産」では 伝統工芸品の実演や販売もあります。
江戸の粋なお土産はいいですよ。ここで 少々お買いものしました。
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「下町の粋・江戸の粋・事(こと)」を基本コンセプトに商品展開する「IKIJI」。ポロシャツ・ニットなどのファッション、雑貨小物まで様々あります。江戸切子や革製品 染色品など 見とれてしまいました。
片隅にはすみだの味が楽しめるお茶屋さんもありました。かなり広いです。
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スカイアリーナから写した5階の連絡ブリッジです。ここを通ります。
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通路から写してみました。
この通路は 東京スカイツリーの出口フロアにつながっています。
とても広いフロアーです。エスカレーターで下に降ります。
色々なお店がありますが 東京にあるデパチカとか都心のビルの中にある店などが並んでいるという感じで 目新しくもないので素通りしました。地方から来る人にはいろいろなお店が集まっていていいかも。。。
しかしツアーでは 買い物する時間があるだろうか・・・と気がかり。
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今回は「すみだ まち処」だけを目的にスカイツリーに行ってみました。

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2013年10月25日

東京スカイツリー(墨田区)

錦糸町駅北口から 東京都営交通 「東京→夢の下町」という観光路線バスが出ています。
東京スカイツリーから浅草〜上野へ行くバスです。
都営バスですから 1回乗車200円。1日券なら何度乗り降りしても500円なので観光にはお得で便利です。
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東京スカイツリー駅入り口でバスを降ります。
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バス停から上を見上げたら 雲に隠れたスカイツリーが見えました。
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横断歩道で信号を待っていたら 雲が切れました。
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位置関係の地図です。
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東武橋を渡ります。
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東京スカイツリーの足下を流れる北十間川周辺が、墨田区おしなり公園として整備されています。
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橋を渡ると ぐっと大きく見えます。
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すみだ水族館入口です。水族館は5Fです。
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エスカレーターから見た とうきょうスカイツリー駅です。
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4Fはタワー入口で デッキや屋外の通路があります。
そこから見上げたスカイツリーです。
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通路には入場待ちなのか たくさんの人がいました。
みなそれぞれカメラを構えるのですが近すぎて・・・・
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東京スカイツリーエントランス。4Fスカイアリーナという広場になっています。
個人の入場はここから。入場整理券をもらう列ですが。
この整理券は当日券を購入するために1時間以上並ぶ場合に配られるものです。
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11時ころでしたが 入場は13時となっていましたからこの日は2時間くらいの入場待ち時間でした。
平日で曇りだったのですが いつもこのくらいは混んでいます。
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広場はハロウィンの飾りつけでした。
ツリーに上る気はないので 次 ソラマチに入ります。
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2013年10月24日

リバーピア吾妻橋〜錦糸町(墨田区)

墨田区役所前です。
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すみだリバーサイドホール前です。区役所に隣接。
ここで北斎漫画を見ました。
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区役所の窓に映る東京スカイツリー。その前にある説明版は浩養園跡。
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墨田区役所(浩養園跡)所在地 墨田区吾妻橋1-23

 「この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移り変わり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
 文政5年(1822)水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年(1860)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。
 その後、明治33年(1900)札幌麦酒東京工場がここに設置され、明治39年(1906)には第二本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正9年(1920)の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。
 平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。
 平成3年(1991)3月  墨田区」
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リバーピア吾妻橋です。地図にある複合施設。
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リバーピア吾妻橋は旧アサヒビール吾妻橋工場跡地に建築された高層ビル群の総称。
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水上バスから見るとこんな感じです。
金色の巨大オブジェクトとビアジョッキ型ビルはアサヒビール社。
このオブジェをデザインしたのは、フランス人のフィリップ・スタルク氏(パリのエリゼ宮のインテリアの改装を担当)
琥珀色の本部ビルの「アサヒビールタワー」はジョッキに入ったビールをデザインしている(上部の白い部分が泡)。
墨田区役所と公団住宅も見えます。
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区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん」に乗りました。
バスの屋根には、3ルートそれぞれの地域の特色を表す絵が描かれています。
これは南部ルート すみまるくんです。運賃100円
シンボルカラーは「江戸時代に起源をもつ色から発想される江戸の粋のイメージ」で江戸紫。
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車内には力士の手形やサイン、手ぬぐいなど相撲にまつわる品々が飾られていました。
スカイツリーを車内から見上げることができるよう、天井にガラス窓がついています。
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ここは押上駅。東京スカイツリーをバスの車内から写しました。
押上駅からそのまま錦糸町にむかいます。
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これも車内から。京成橋付近
絶景スポットらしく 橋の上にはカメラを構えた人がたくさんいました。
終点 総武線「錦糸町駅」北口です。
金色の大きな輪の巨大オブジェに驚きます。
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JR錦糸町北口モニュメント
経緯:墨田区は、1987年「音楽都市」をめざして街づくりをすることを宣言し、錦糸町駅北口再開発事業で交通広場の吸気・排気塔の利用によるモニュメント計画を策定し、音楽都市すみだを象徴する作品をテーマに、専門業者5社のコンペで選ばれた作品が設置されることになった。
名称:ECHO
曲玉の部分は、楽譜のへ音記号をモチーフにデザインし、左右5本ずつのワイヤーは五線譜を表している。
設置年:1997年9月
作者:ローレン・マドソン(米国)
アメリカ国内の銀行、病院、警察などの公共施設に多くの作品を展示している。ニューヨーク、イスラエル、バンクーバーなど世界各地の美術館に作品が所蔵されている。」説明文より
五線譜とヘ音記号を2つ組み合わせたものだなんて 説明を読むまでわかりませんでした。

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2013年10月23日

「ぱらぱら北斎 漫画カフェ〜北斎を知ろう」すみだリバーサイドホール ギャラリー

墨田区役所の「すみだリバーサイドホール ギャラリー」で開催中の展示イベントを見てきました。
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「ぱらぱら北斎 漫画カフェ〜北斎を知ろう」
すみだリバーサイドホールギャラリー
墨田区吾妻橋一丁目23番20号・墨田区役所に併設
平成25年10月10日から10月23日
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 「葛飾北斎の生誕地である墨田区が開設準備を進めている「すみだ 北斎美術館」(建設地:墨田区亀沢2-7 緑町公園内)について多くの方々に知っていただくとともに、北斎に親しんでいただくために、“すみだと北斎”プロモーション実行委員会では、この秋、むすぶ“北斎” ひろがる“すみだ”の企画第一弾として展示イベント「ぱらぱら北斎 漫画カフェ〜北斎を知ろう」を開催します。北斎の代表作の一つである『北斎漫画』をはじめ、北斎が手掛けた幅広い絵手本の世界を紹介するほか、オリジナルに忠実に作成した絵手本のレプリカを手に取って鑑賞できるスペースも設けます。(説明文より)」
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連作でもって町人の動きを豊かに表現していることもパラパラ漫画のようなものの原形で、北斎は、連続して動かせば、動きのあるアニメのようになることがわかっていたのかもしれません。
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『大田記念美術館』で 「北斎と暁斎−奇想の漫画」展を見ましたから今回のはほんのさわりだけという感じですが北斎を知ろうという目的なのでスタンプで遊べたりもしていいのではないかと思いました。
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東京都・すみだ水族館、スタンプで"北斎の魚図鑑"を作るワークショップ開催。
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北斎漫画って ユニークでユーモラスで面白いですねぇ〜
「すみだ 北斎美術館」が完成したら 行ってみましょう。
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2013年10月22日

池袋駅〜豊島区立郷土資料館(豊島区)

自由学園明日館からみた東側の屋根越しの蔦の家が気になったので帰り道に寄ってみました。
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民家のようでしたが 蔦が覆っていてすごかったです。
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消防署から自由学園のほうに向かう道にはこんな標識がありました。
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目白庭園。東京都豊島区目白3-20-18
気になって行ってみたかったのですが 西武線の線路の向こう側なので今回はパス。
豊島区立目白庭園は池泉回遊式の庭園。
庭園内には、雑誌「赤い鳥」を由来にした木造瓦葺平屋建ての数寄建築の「赤鳥庵」や、六角浮き見堂が配されています。

大通りに出ると豊島区立勤労福祉会館ビルがあり 注意しないときがつかないのですがこの七階に豊島区立郷土資料館があります。
資料館というより資料室でした。
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東京都豊島区西池袋2-37-4勤労福祉会館7階
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常設展は,雑司が谷鬼子母神,駒込・巣鴨の園芸,長崎アトリエ村,池袋ヤミ市の4つのテーマに分けて行われている。
展示室にはミニチュアで再現されたアトリエ村やら、池袋駅前の闇市のジオラマなどがあり、古地図をガラス越しに眺めることが出来る。収蔵品展示室では、企画展の展示が行われている。
東京23区各区に、それぞれの郷土資料館が設置されていますが 他から比べると見劣りしました。
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池袋での食事はなんでもありすぎて迷いに迷って 結局a la campagne(ア・ラ・カンパーニュ)池袋店でランチのキッシュを食べました。
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神戸発祥のケーキやさんなので 本当はケーキが食べたかったのですがランチのほかにおなかに入るゆとりはありませんでした。
それがとても残念です。
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近くでみつけた ステンドグラスの教会です。
シャロンゴスペルチャーチ東京都豊島区西池袋5-2-1
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池袋のコンサートホール付き教会でスタインウェイ・グランドピアノの会場だそうです。

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2013年09月20日

関東大震災90年特別展 墨田区横網町公園

墨田区の横網町公園の前を通りかかったら ちょうど関東大震災90年特別展とい表示が見えたので 行ってみました。
復興記念館は8月20日はリニューアルオープンしました。
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震災復興記念館 都・選定歴史的建造物
竣工 1931年(昭和6年)4月
東京都墨田区横網2-3 横網町公園内
設計 伊東忠太、佐野利器
鉄骨鉄筋コンクリート造2階建て
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二つの特別展を復興記念館で開催
特別展「蘇った90年前の震災絵」
企画展「子どもが見た関東大震災」
開催日程:平成25年8月20日〜9月23日
展示室に入ると、宮城前を埋め尽くす避難民を撮影した大パノラマ写真があります。
90 年前の 9 月 1 日、関東大震災で 10 万5千人が亡くなり、. 墨田区の横網町公園(旧陸軍被服廠跡)では3万8千人が焼死されました。悲惨な写真ですが貴重な記録写真の数々が並んでいます。
子供たちの 絵などもありました。
地震計が記録した 記録紙も展示されています。
これは 帝大 今村明恒助教授が1911年に今村式強震計を開発したものです。
明恒は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告しましたが 社会問題になり世間を騒がせるとのことで上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃されました。しかし関東大震災が起こり 明恒の警告が現実のものとなった。その後、関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになりました。
焦げて溶けた ガラスや 金属製品なども展示されています。
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東京都慰霊堂です。
竣工 1930年(昭和5年) 横網町公園内
設計 伊東忠太
鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て
関東大震災の犠牲者を弔うために建てられました。
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東京都慰霊堂は、大正12年(1923)9月1日に発生した、関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に昭和5年に建てられました。
当初は「震災記念堂」と名付けられましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、昭和26年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されています。

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2013年08月26日

伊藤左千夫牧舎兼住居跡・歌碑(錦糸町)

JR錦糸町駅南口バスターミナルのある辺りは、歌人伊藤左千夫の牧場と牧舎、及び住居のあった所です。
晩年、亀戸へ移るまで26年間暮らしました。
この場所にかつて牧舎付き住居があったとは 現在の錦糸町からは想像できません。驚きです。
この地に牧場を開き、牛乳の搾取業「デボン舎」を始めました。25歳の時です。
錦糸町駅南口には歌碑と説明板があります。
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 伊藤左千夫牧舎兼住居跡・歌碑
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伊藤左千夫牧舎兼住居跡
所在地 墨田区江東橋3-13 

「この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
 左千夫、本名幸次郎は、元治元年(1864)8月18日に上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家の四男として生まれました.
明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。
明治二十二年二十五歳のとき本所茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て。乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想「家庭小言」には開業当時の様子について。毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
 左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳のころには正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌「馬酔木」を創刊。
明治四十一年には後継誌「阿羅々木」(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲運を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
 
この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移設)を残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。
隣に建つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月「阿羅々木第一巻第一號」の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月  墨田区教育委員会」
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 左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)(山武市歴史民俗資料館所蔵)
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本所茅場町の牛舎(左から3人目が左千夫)(山武市歴史民俗資料館所蔵)
  岡麗 撮影 明治41年(1908)頃

伊藤 左千夫、1864年9月18日(元治元年8月18日) - 1913年(大正2年)7月30日)は日本の歌人、小説家。本名 幸次郎。
上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。
1913年7月30日、転居先の江東区大島で脳溢血のため急逝し、亀戸の普門院に葬られました。
大正2年(1913)7月30日50歳没。
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よき日には
  庭にゆさぶり
    雨の日は
  家とよもして 
    児等が遊ぶも

                    左千夫
明治43年の大水で本所は壊滅的な打撃を受けました。
本所は水浸しとなり小舟で二階家などに避難したといいます。
伊藤左千夫の牧場も20頭の牛を避難させたそうです。
この時の水害の様子が「水害雑録」に描かれています。
青空文庫
水害雑録 伊藤左千夫

http://www.aozora.gr.jp/cards/000058/files/1036_20585.html
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2013年08月25日

錦糸町駅南口

JR錦糸町駅南口のバスターミナルのあたりは 越前鞠山(まるやま)藩下屋敷のあったところです。
福井県ゆかりの地と知りました。
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藩名  越前鞠山藩(まるやまはん) 別名敦賀藩 一万石(譜代)
初代藩主 酒井忠稠(ただしげ)
安政三年時 藩主(1856年)
七代 忠毘(ただます)
官名 右京亮(うきょうのすけ
居城地(陣屋)
福井県敦賀市鞠山
江戸上屋敷 大名小路(皇居外苑)
江戸中屋敷 高輪南町(港区高輪四町目)
江戸下屋敷
四ッ目通り(墨田区江東橋3丁目 錦糸町南口駅前)3,810坪

JR錦糸町駅ホームです。
ホームからスカイツリーが見えます。電車が入ってきて おもしろい絵になりました。
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階段には 東京スカイツリーは北口から徒歩20分!というポップが貼ってありました。
バスでも 地下鉄でもいいわけですが 錦糸公園を右に見てぶらりと歩くのもいいのかもね。
名所旧跡いろいろあるので 涼しくなったら 行ってみます。
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JR錦糸町駅南口駅前です。テルミナ(駅ビル)
錦糸町駅北口は錦糸、南口は江東橋の街が広がっています。
JR中央・総武緩行線と総武快速線の他にも、地下には東京メトロ半蔵門線の駅もあります。
都バスのターミナル駅でもあり 交通の便はいいです。
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モニュメントを中心に、カラータイルで円が描かれた駅前広場があり、その先にはバスターミナルがあります。
難を言えば このまわりにホームレスらしき人たちが円陣を組んで集まっているのを時折みかけます。
写真の袋は ゴミか 空き缶か・・・・交番が目の前なんですけどね。
この時期は暑いので ガード下あたりにいるのでしょうか・・・
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駅右側の商店街入口です。
もっとも駅前や駅ビルにはさまざまな形態のお店がたくさんあるのでこの商店街は古くからあるものなのでしょうね。
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錦糸町駅前広場に設置してある8鐘タイプのカリヨン時計です。
30分おき?か時報かさだかではないですが キンコンと音楽が流れてきます。
現在の錦糸町は 競馬JRA ウインズ錦糸町町駅前がありますし、 外国人が多いことで 飲食店なども多い街です。
夜は少し危険な場所だそうです。
しかし その昔この辺りは大名・旗本・御家人の屋敷の密集していたところであり、商家は無く、全く森閑としたところだったようです。
明治期には、この場所で伊藤左千夫が牛舎を構え牛乳の製造・販売を行なうとともに、主宰誌『馬酔木』を創刊・発行したそうです。このことを記念して、錦糸町南口前には歌碑が建てられています。

posted by うめのはな at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 墨田区

2010年12月18日

両国「横網町公園」

江戸東京博物館に行った帰り すぐ近くにある「横網町公園」に行った。
「被服廠跡」「東京都慰霊堂」「東京都復興記念館」があります。

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「東京都復興記念館」関東大震災の惨禍を永く後世に伝えるとともに
官民協力のもと復興させた当時の大事業を永久に記念するため
東京都慰霊堂の付帯施設として建てられました。
震災復興資料等や東京大空襲による戦災関係資料等が展示されています。

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建物は 1930年(昭和5年)9月に起工し、1931年(昭和6年)4月竣工しました。
都・選定歴史的建造物で鉄骨鉄筋コンクリート造2階建てです。

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中は展示のためのスペースだけです。

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空襲犠牲碑が公園の中央にあり 斜面を覆う花は生命を象徴しています。

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日本庭園やあずまやもありました。

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横網町公園。
これは 「よこずな」ではなく「よこあみ」と読みのですね。

公園からスカイツリーがよく見えました。
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posted by うめのはな at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 墨田区