2013年06月27日

南青山散歩

南青山界隈を歩くと面白い建物が目につく。今回歩いたほんの少しのエリアだけの紹介です。
表参道駅を降りてすぐ目につくのが 青山通りの花屋さん 花の館・青山花茂ビル。
minamiaoyam (1).jpg
港区北青山3-12-9
青山のランドマーク的存在で宮内庁や各宮家御用達の老舗だそうです。
次は骨董通り沿いにあるヨーロッパ調のビル。
minamiaoyam (4).jpg
港区南青山6丁目2−9 KSビル
1階には腕時計ブランド【EVANCE エバンス】が入っていましたが 五月に銀座に移転しました。
そこから少し行くと 屋根の上の人形が目につきました。Jハウス隣ですが なにの建物かはわかりませんでした。
minamiaoyam (3).jpg
南青山6丁目−8−16
表参道から根津美術館に向かう通りにあるひし形の斜め格子が強烈な印象の プラダの旗艦店 プラダ ブティック青山
minamiaoyam (8).jpg
東京都港区南青山5-2-6
設計  ヘルツォーク&ド ムーロン + 竹中工務店
2003(平成15)年 竣工
構造:鉄骨造・鉄筋コンクリート造、階数:地下2階 地上7階
2005年度日本建築学会賞
そのお向かいにあるのが 青山銕仙会(てっせんかい)能楽研修所
minamiaoyam (7).jpg
1930年代中頃旧多摩川園内に多摩川能楽堂が建設され、戦災で都内の能舞台が灰燼に帰した中での能楽復興の拠点となったが、1955年(昭和30年)頃に青山の銕仙会能楽研修所に移築されている。
すぐ隣の 素敵な赤レンガの建物。
minamiaoyam (5).jpg
Studio Schloss 東京都港区南青山4-21-26
minamiaoyam (6).jpg
レンタルスタジオだそうです。

posted by うめのはな at 07:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年06月26日

蔦サロン(旧山田守自邸)南青山

骨董通りの交差点から青山学院大学へ向かって最初のの路地を50mぐらい行ったところ 俗称アイビー通り、ちょうど青山学院大学のアイビーホール前にあります。その名の通り入り口がツタで覆われています。武道館の設計者で著名な山田守さんの旧自邸で 3階建ての外観はきれいなのですが 道路に面した部分はなんとなく ただの古家という感じでした。
tutaaoyama (1).jpg

庭園側の外観。
名   称:蔦サロン(旧山田守自邸)
設 計 者:山田守/山田守建築事務所
所 在 地:港区南青山5-11-20
竣 工 年:昭和34年(1959)
備   考:1階ピロティと3階テラスが改造屋内化されている
構造 鉄筋コンクリート造3階建
1Fはコーヒーショップ「蔦珈琲店」で美味しいコーヒーだそうです。
tutaaoyama (3).jpg
昭和34年に建築家山田守氏の自邸として建築された建物で、らせん階段を外観に活かした独自のデザインですが 半分くらいしか見えていません。螺旋階段を2Fに上がると「蔦サロン」というギャラリーになっています。庭の前のほうにまわってみたのですが 蔦というか緑で覆われて何も見えませんでした。
tutaaoyama (2).jpg
竣工当時はコンクリート打放しだったようですが、、吹付タイルかモルタルかはよくわかりませんが きれいに保護されていました。
門柱には「山田」の表札があります。
山田 守さん(1894年4月19日-1966年6月13日)は逓信建築の先駆者的存在で、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した事で有名です。復興院橋梁課嘱託として永代橋、清洲橋等のデザインに関係し、山田守の色彩が最も強くあらわれているのはパラボラの使われている聖橋です。また近代的な病院建築のパイオニアとして活躍しました。日本武道館の設計者や京都タワービルの設計者でもあります。
その建築家が住んだ邸宅が現役なのはうれしいことです。機会があれば内部も見てみたいです。


posted by うめのはな at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年06月01日

増上寺境内 4(港区)

境内図の5にあたるのが 貞恭庵(和宮茶室) です。
十四代将軍徳川家茂公御正室、皇女和宮さまゆかりのお茶室ですが昭和五十五年(1980年)に移築・改修し、一般にも利用されるようになりました。残念まがらこの日は閉まっていました。
zoujyoujihi (2).jpg
貞恭庵(和宮茶室)
 幕末の悲劇の主人公、皇武合体の犠牲者として有名な徳川十四代家茂御台所 静寛院和宮の茶室。老朽化したものを改修・移転、宮様の遺品であるご愛用の琴、手紙、漢詩の書作品などが残されている。
そのちかくにあるのが聖観世音菩薩像です。古いものではありません。
zoujyoujihi (1).jpg
「ホテルニュージャパン罹災者のみたま
   とこしえに安からんことをお祈りして」
とありTVで見た あの悲惨な火災を思い出しました。
本堂の前に行きます。
zoujyoujihi (3).jpg
本堂前に、立派な三波石が置かれている。 蘇鉄も一緒に植えられている。
境内にはたくさんの石碑などがありますが その中のいくつかを見てみます。
zoujyoujihi (4).jpg
詠唱発祥の地(増上寺)
長い説明文が書いてありましたが 要約すると ここ増上寺は浄土宗の大本山で、 南無阿弥陀仏 の念仏詠唱の始まりの地なのだそうです。
zoujyoujihi (6).jpg
魚供養之碑(増上寺)
築地の水産会社が建てた「魚供養塔」です。魚がしの会社が成功したのは魚類のお陰と感謝の気持ちを込めて建てられた供養碑です
zoujyoujihi (9).jpg
増上寺観音像
zoujyoujik.jpg
聖鋏観音
聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。
ハサミは観音菩薩の
     御手そのものである。

                     徹誉大僧正
国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。
zoujyoujihi (7).jpg
仏足石(THE STONE IMAGE OF BUDDHA'S FOOT)
zoujyoujihi (8).jpg
仏足石は仏の足うらの形(千輻輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。
 この仏足石は、当山第70世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年(1881)5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。
zoujyoujihi (5).jpg
ブッシュ槙
米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年(1982)4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹(コウヤマキ)をお手植されました。
zoujyoujihi (10).jpg
グラント松
米国第18代大統領グラント将軍は明治12年(1879)7月国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。
三門近くの一際目立つ大きな木です。


posted by うめのはな at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年05月31日

芝増上寺境内 3(港区)

境内図の4は徳川将軍家墓所です。
 bara517245.JPG
戦災に遇うまで、増上寺の南側にニ代将軍秀忠、北側に六代将軍家宣、七代家継などの御霊屋があった。これらは当時の建築技術の粋を結集したもので、各々国宝の指定を受けていたが、現在は入口の「鋳抜門」と二代将軍宝塔にその面影を残しているに過ぎない。
zoujyoujin (6).jpg
将軍のほかには、静寛院宮(=和宮、家茂の御台所)、崇源院(家光の母、お江与)、桂昌院(綱吉の母、お玉)などが合葬されている。

2代将軍 徳川秀忠公(台徳院殿)・お江(崇源院殿)夫妻の墓所
6代将軍 徳川家宣公(文昭院殿)墓所
7代将軍 徳川家継公(有章院殿)墓所
9代将軍 徳川家重公(惇信院殿)墓所
12代将軍 徳川家慶公(慎徳院殿)墓所
14代将軍 徳川家茂公(昭徳院殿)墓所
14代徳川家茂公正室 静寛院和宮墓所
合祀塔
この日は 公開日ではなかったので見ることはできませんでした。
鋳抜門(いぬきもん),この門の中が墓所です。
zoujyoujin (7).jpg
港区有形文化財(建造物) 鋳抜門(いぬきもん)
平成9年(1997)3月11日登録
徳川家墓所  鋳抜門
 増上寺は徳川将軍の菩提寺として、かっては二代将軍秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和二十年三月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和三十三年に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画に まとめられた。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築しました。
zoujyoujin (5).jpg
左右の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
zoujyoujin (4).jpg
鋳抜門の前に並んでいるのが四菩薩像 です。
IMGP8789.jpg
港区登録有形民俗文化財 四菩薩像
 平成10年(1998)4月9日登録

 向って左から
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)<卯年守本尊>
虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)<丑寅守本尊>
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)<子育地蔵>
普賢菩薩(ふげんぼさつ)<辰年守本尊>

この四体の菩薩像は、この場所の北西、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された西向観音像(港区文化財)とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉2年(1258)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。
zoujyoujin (1).jpg
大納骨堂です。青銅部分と石造部分のコントラストが美しい納骨堂です。
「大納骨堂は昭和8年(1933)に建立されました。御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像です。戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和55年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修されました。
 堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られてお祀りされています。増上寺」
zoujyoujin (2).jpg
どことなく西洋風の味のある狛犬です。
zoujyoujin (3).jpg


posted by うめのはな at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年05月30日

芝増上寺境内 2(港区)

本殿横の真新しい社殿は安国殿です。
zoujoujih (4).jpg
安国殿と黒本尊
 この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは現らい家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う増上寺境内堂宇整備の一環として、昭和49年(1974)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
zoujoujih (3).jpg
徳川家康公の念持仏として有名な、秘仏「黒本尊阿弥陀如来」が祀られています。
zoujoujih (2).jpg
また両脇陣には、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれている。
zoujoujih (6).jpg
建物の老朽化に伴い、建て替えられました。
竣工/平成22年7月
zoujoujih (9).JPG
屋根から東京タワーが生えて」いるみたいです。
zoujoujih (8).jpg
芝公園だからしかたないか・・・・
zoujoujih (7).jpg
西向観音像(増上寺) 港区登録有形民俗文化財

増上寺内の西向観音(にしむきかんのん)は、江戸33観音札所の第21番霊場にあたります。西向観音は子育てと安産に霊験あらたかです。制作は鎌倉期。
西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像(港区文化財)とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。
 将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本像とともに多くの庶民の信仰の対象として今に続いています。
  平成4年(1992)3月30日 港区教育委員会
zoujoujih (5).jpg
千躰子育地蔵尊
子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和五十年(1975年)より順次奉安されております。毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が開催されます。

posted by うめのはな at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年05月29日

芝増上寺境内 1(港区)

芝増上寺三門です。逆光できれいな朱が見えにくいです。
sanmon (1).JPG
三解脱門(三門)(増上寺)
所在地 東京都港区芝公園4-7-35 
重要文化財 大正4年(1915)3月26日指定
sanmon (3).JPG
「慶長16年(1611年)、徳川家康公の助成により、幕府の大工頭・中井大和守の配下によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。
略称を三門といい、貪欲・瞋恚・愚痴の三悪(三毒)を解脱するという意味からこの名があります。間口・十間余(約19m)、奥行五間(約9m)、高さ七丈(約21m)の二層建てで、左右に三間(5.4m)の山廊を有している三解脱門は、東京都内最古の建築物であるだけでなく、東日本最大級の大きさを誇っています。  
 入母屋造りの建築様式で朱漆塗りの三解脱門は、増上寺が江戸の初期に造営された当時の面影を残す唯一の建造物として、国の重要文化財の指定を受けています。様式は、組み物などは唐様を中心とし、勾欄などに和様、天竺様が加味されている。桜内には慶長から元和年間にかけて京仏師によって作られた釈迦三尊像、十六羅漢像などが安置されている。」
sanmon (2).JPG
唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味されています。
sanmon (4).JPG
三門をくぐります。
zoijyoji.jpg
本殿と東京タワーです。
zoujyoujik (3).jpg
水盤舎(港区文化財)
「元は清揚院(3代将軍徳川家光の3男・6代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は、延宝6年(1678)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺本堂裏手に営まれていましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにそのほとんどが焼失しました。
 この水盤舎は綱重の御霊屋建築の内、現存する唯一の建物であるとともに、徳川家霊廟の建造物として現存する数少ない遺構として貴重なものです。平成13年(2001)2月14日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会」
zoujyoujik (4).jpg
柱には、水に縁のある建物の特徴として、波を形どった刻り物がある。
zoujyoujik (2).jpg
三緑山 広度院 増上寺
明徳4年(1393)、浄土宗第八祖聖聡上人によって開かれた増上寺は、現在の千代田区紀尾井町にあたる「江戸貝塚」に創建され、室町から戦国時代にかけて、東国の浄土宗の要として発展してきました。
zoujyoujik (5).jpg
大殿
間口二十六間余(約48m)奥行二十五間余(約45m)高さ七丈半余(約23m)総面積は10,535uという大きさの大本堂です。

明治に入って二度の大火、そして昭和の東京大空襲と災厄に見舞われますが、昭和46年(1971)から4年の歳月をかけ、現在の壮麗な大殿を建立し、復興を果たしました。
zoujyoujih (2).jpg
石段を登りきった2階に本堂、3階に道場、1階に檀信徒控室、地価に三縁ホールなどを備えています。
zoujyoujih (1).jpg
本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。本堂内部はお勤め中は撮影禁止ですが それ以外は撮影してもいいそうです。金色の素晴らしいものですが不敬な気がして写しませんでした。鉄骨鉄筋コンクリート造  竣 工 1974年11月 ・2009年5月にリニューアルされました。


posted by うめのはな at 07:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年05月28日

増上寺芝大門 (港区)

浜松町駅からまっすぐ歩くと芝大門の交差点が見えます。
minatoku (7).JPG
途中の歩道には江戸時代の増上寺や近隣風景を描いた浮世絵のレリーフなどがあり 歴史ある街並を演出しています。
その大門近くにあるのが和風な公衆トイレ【大門際公衆便所】です。半地下の公衆トイレで、昭和7(1932)年に港区が設置しました。、和風の屋根が目立ち この小さな建物は何だろう?と思ってしまいます。正面に近寄ると 和式の便器が見えるのでトイレ!と気が付きます。大・小各1つの男女共同だそうです。ここ・・・入るのにちょっと勇気がいりそう。
daimon (11).JPG
歩道にある和風公衆トイレ/大門際公衆便所
増上寺の朱塗りの表門(芝大門)はこのすぐそばです。
daimon (15).JPG
大門(増上寺
所在地 港区芝公園1-7〜芝公園2-3 (増上寺)

大門沿革碑板
大門ハ三緑山増上寺ノ総門ニシテ古来江戸名所ノ一トシテ人口に膾炙セリ慶長十年徳川氏増上寺創建ノ造営ニ係ル明治十一年十月東京府ニ寄附ラレタリシガ其ノ後東京市ノ管理ニ帰スルヤ芝公園内ノ施設トシテ保存ニ努メタルモ近年破損著シク永久保存ニ堪エザルニ至リシ為地元芝公園改戻期成会並ニ株式会社不動貯金銀行協賛ノ下ニ其ノ原形ニ則リ新タニ復興ノ業ヲ起シ茲ニ其ノ竣功ヲ見タリ依テ之ガ落慶ノ典ヲ行フニ方リ由来ヲ略記シ以テ後世ニ伝フ  東京市 昭和十二年十月 昭和三十三年十二月 全國不動会 再板
daimon (6).JPG
この辺の地名「芝大門」や都営地下鉄の「大門駅」はこの門に因んで命名されました。当時、この門の内側が寺社の境内でしたが、現在は、民間のビルで占められています。現在は、この奥の三門の内側が寺社の境内になっています。
daimon (5).JPG
増上寺芝大門
当山の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門です。現在のものは国道の通行整備のため、昭和十二年(1937年)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものですが、旧大門は慶長三年(1598年)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものでありました。その旧大門は大正十二年(1923年)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されましたが昭和二十年の空襲により焼失しています。
daimon (8).JPG
門の脇に、安藤広重が安政5(1858)年に描いた芝神明と増上寺の浮世絵のレリーフがある。
daimon (12).JPG
芝神明のだらだら祭りの様子を描いた浮世絵のようです。
大門からすこし先に行くと 安養院があります。
bara517263 (2).jpg
最初の芝区役所跡(安養院) です。

所在地 港区芝公園2-3
 明治初期の地方制度は、改正がくり返され、東京の行政区域はなかなか定まらなかった。
 そうした中で、明治十一年(1878)七月二十二日、わが国地方自治制度のもとを作った郡区町村編成法が発布された。
 これにより、同年十一月二日、東京には十五区六郡がおかれ、芝区が誕生した。
 その時、この安養院に最初の芝区役所が設けられ、十一月四日に開庁し、初代区長に相原安次郎が任命された。当時の芝区は桜田・三田・白金・高輪の地域で、戸数14,757戸、人口58,861人であった。
 芝区役所は、その後愛宕町に移り、さらに大正十五年(1926)に現在の港区役所の位置(芝公園1-5-25)に移った。
 なお、芝・麻布・赤坂区は、昭和二十二年三月十五日、統合されて港区となった。
  昭和四十九年一月  東京都港区教育委員会

posted by うめのはな at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年05月27日

芝公園1号地(港区)

芝公園1号地に行きました。芝公園芝公園地は増上寺を囲むように1号地から25号地まであります。
日本で最も古い公園の一つ。明治6年の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に芝の5カ所が、日本で最初の公園として指定され、以後の公園造 成のさきがけとなりました。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後の政教分離によって境内の部分が除かれ、環状の公園になりました。
園内には、歴史の古い公園らしく、クスノキ、ケヤキ、イチョウなどの大木がところどころにあります。
sibabara p (8).JPG
江戸時代はこの辺まで増上寺の境内でした。芝公園内の川です。
戦前までは、この川の先の方向に五重の塔がありました。大きな石がたくさんあります。
sibabara p (6).JPG
もしかしたら ここが湧き水のもとなのかしら・・と思いました。
園内の芝丸山古墳の麓にある約70本の紅梅・白梅の梅林は、新宿角筈にあり「銀世界」と呼ばれた梅林を、明治41〜42年頃に移植したという由緒のあるもの。梅林の梅が一斉に花を咲かせる様子は「梅屋敷銀世界」と呼ぶにふさわしい美しさだそうです。
sibabara p (1).JPG
銀世界の梅
もと新宿角筈にあって江戸時代から銀世界と称せられていた梅林を明治41〜42年ごろ芝公園に移植したその標示碑です。元来17号地グランドの西にありましたが、道路拡張に伴い、昭和41年に現在地に移されました。
このすぐ後ろの石段をのぼると芝丸山古墳です。
sibabara p (2).JPG
芝丸山古墳 東京都港区芝公園4-8
前方後円墳  全長125m(案内板では106m)
築造年代 5世紀

史跡指定 1979年3月31日(都史跡)
「全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模を持つ前方後円墳である。標高16mの台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。江戸時代以降、原型はかなり損じられており、墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に、日本考古学の先駆者 坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路を抑えていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。平成2年12月27日 再建     東京都教育委員会」
sibabara p (5).JPG
芝公園自体が標高16mの台地上にあり、古墳はさらに高く土が盛られているので、頂上からの眺望は一段と広くなっています。
頂上部は、平らな広場になっていて、伊能忠敬の碑がありますが この日は頂上には行きませんでした。
sibabara p (4).JPG
「円山随身稲荷大明神」
「丸山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。
随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時 桑名よりお迎えしたご本尊を守護するために江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。 大本山 増上寺」
sibabara p (7).JPG
古墳の台地から下ると ザ・プリンスパークタワー東京東京タワーがすぐです。

posted by うめのはな at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年05月26日

常照院/浅岡飯炊きの井戸(港区)

芝公園のほうに歩くと 芝公園郵便局があります。
この郵便局の外壁の装飾と街灯がしゃれていたので目につきました。
sibayu.jpg
街灯はUを三つ合わせたような感じです。
sibayut.JPG
これは なになのだろうか…灯りなのか 単なる装飾なのかわかりません。
このすぐ隣は常照院です。
minatoku (6).JPG
古そうな石造りの蔵のようなものが見えてなにだろう・・と思いました。
登録有形文化財(建造物)だそうです。
minatoku (4).JPG
港区 常照院
所在 東京都港区芝公園1-8-9
江戸/1769
土蔵造平屋建、瓦葺
、建築面積25u1棟
国登録有形文化財(建造物)平成13年11月20日指定
minatoku (5).JPG
「常照院は芝増上寺の子院のひとつ。内陣はもと念仏堂で,戦災を免れ,後に外陣などを加えて本堂の体裁を整えた。方2間半の土蔵造で,正面には重厚な観音扉を設ける。内部は後方に構えた仏壇・厨子,黒漆塗の格天井など,華やかで濃密な空間をつくっている。」
次は 港区役所です。
minatoku (3).JPG
私が港区に住んでいたころは もっと古い庁舎でした。
minatoku (8).JPG
昭和62年に建て替えられました。
その港区役所前には、浅岡飯たきの井というのがあります。
この井戸は新庁舎の開設にあたり、旧庁舎の中庭にあったものを、この場所へ移設されたものです。
minatoku (1).JPG
浅岡飯炊きの井戸(港区芝公園

「江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩主伊達家の支度所であった。
仙台藩の家督相続をめぐる伊達騒動(寛文事件)の際、幼い嗣子の亀千代(のちの伊達綱村)を毒殺から守るため、母の浅岡の局が自らこの井戸で水を汲んで調理したと伝えられている井戸です。」

posted by うめのはな at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年05月25日

渡邊ビル・クレッセント(港区)

浜松町の駅を降りるとすぐ目の前に「渡辺ビル」というレトロな感じのビルがあります。
hamamatusho (1).jpg
ドラマなどのロケ地になったこともあるようで、それなりに有名な建物だそうです。
hamamatusho (5).jpg
スクラッチタイルを多用した、擬帝冠様式風のオフィスビル。
玄関廻りは、緑色のボーダータイルで柱を化粧している。
ファサードは垂直リブの上に瓦屋根を乗せた厳かなデザインで九段会館に似ているがこちらのほうが九段会館よりも3年ほど前に竣工している。
hamamatusho (4).jpg
窓枠は、RC製の太いボーダーで三方を囲い、下端は水切り仕上げになっている。
hamamatusho (3).jpg
昭和6年(1931)竣工 RC造、3F建て
設計・施工 大林組
渡邊ビルヂングの表札がある。
hamamatusho (2).jpg
港区役所のほうに行くと 高級フランス料理のレストラン クレッセントの英国風煉瓦造り洋館があります。
cresent (2).jpg
港区芝公園1丁目8−20
cresent (3).jpg
竣 工 1968年9月
設 計 監 理 平島建築設計事務所
構造・用途 SRC造 地下2階 地上5階
cresent (1).jpg
1947(昭和22)年に古美術商「三日月」の店舗として誕生した「THE CRESCENT」は、美術商とレストランを共同で営むため、1968(昭和43)年に後期ビクトリア朝風の格調高い建築様式を取り入れた地上5階、地下2階の英国風レンガ造りの洋館へとなった。
cresent (4).jpg
高級すぎて私には食事は無理ですが 内部はかなり豪華だそうです。

posted by うめのはな at 08:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年05月20日

プリンス芝公園のバラ園(港区)

芝公園にあるザ・プリンスパークタワー東京のバラ園に行きました。
sibabara  (8).jpg
ホテルの敷地内に綺麗にバラが植えられています。
sibabara  (7).jpg
中央部は大きな円形の芝生になっていて そのまわりにバラ園があります。
sibabara  (1).jpg
日影がないので 暑かったです。
sibabara  (6).jpg
バラが植えられた遊歩道を歩きながら散策できるホテル内の公園ですが 無料で入ることができます。
sibabara  (5).jpg
増上寺も見えます。
bara517163.jpg
何といってもこの景色が一番です。
東京タワーの全体像を地上から間近で綺麗に見る事ができます。
sibabara  (3).jpg
バラと東京タワーです。
sibabara  (2).jpg
これはガーデンチャペルのバラです。ウェディング式場なのでよくお手入れされた淡い色の花がきれいに咲いていました。
今年の春バラはそろそろ終わりですが ここは秋バラも楽しめます。

posted by うめのはな at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年01月29日

有栖川宮記念公園《港区)

南部坂の途中に  有栖川宮記念公園正門がある。
門には 右からの文字で「昭和九、一月開園、「有栖川宮記念公園」と書いてある。
meijinguu119141.JPG
南部坂の手前、広尾駅からすぐのところにも入り口があり そこには地図と公園の説明書きがある。
meijinguu119134.JPG
公園の沿革

「この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていましたが、明治29年、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王の栽仁(たねひと)王新邸造成の御用地となりました。大正2年、同宮家が絶え、大正天皇は第三皇子光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王に、有栖川宮の旧称高松宮の称号を賜り、その御祭祀をお継ぎになりました。その後、児童福祉を目的とする遊び場に深いご関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年1月15日にこの地を東京市に賜与されました。そして、東京市は同年11月に記念公園として開園しました。その後、北東部を編入し、昭和50年には港区に移管されて、多くの人に親しまれています。 東京都 」
有栖川宮記念公園
南麻布5丁目7番29号

面積:67,131.11平方メートル
麻布台地の変化にとんだ地形を生かし、丘があったり、渓流や池があったりと、自然を大切にした趣きのある日本庭園です。
meijinguu119135.JPG
東京都立中央図書館のある東側の高台から西側の低地部へと傾斜した土地に、丘や渓流、滝、池など変化に富んだ景観が見られる日本庭園が広がっています。
「この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋敷であったが、明治29年(1896年)有栖川宮家の御用地となり大正2年(1913年)高松宮殿下がこれを受けつがれた。

 殿下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の入園も許しておられたが昭和9年(1934年)1月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付されたのがこの公園である 都はその御主旨にそい直ちに造園工事に着手 同年11月これを完工し広く都民に開放したものである。」
坂を登りきった 広場には公園のシンボルとも言える「有栖川宮熾仁親王騎馬像」があります。
meijinguu119215.JPG
有栖川宮熾仁親王像
「有栖川宮熾仁親王 (ありすがわのみや たるひとしんのう)

天保6年(1835)2月9日−明治28年(1895)1月15日
四親王家のひとつとして10代にわたり300年間栄えられた有栖川宮における 9代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役で優れた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や 元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治28年(1895)1月に亡くなられました。
この銅像は 近代彫刻の先駆者・大熊氏広作で明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治36年(1903)10月10日千代田 区三宅坂旧参謀本部前に建立したものを、昭和37年(1962)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園 に移設されました。 港区」
広場には記念碑などがあります。
meijinguu119138.JPG
そして 東京都立中央図書館があります。
meijinguu119137.JPG
開館 1973年  所蔵図書 約170万冊
meijinguu119140.JPG
この図書館はすごいです。貴重資料画像データーベースなども整っています。
荷物は透明なビニールバッグに入るだけで 残りはロッカーへ。ノートPCは持ち込み可。
入り口で入館証をもらい首にさげます。
5Fは 眺めのよいカフェテリアで食事もできます。
今回は 4Fの企画展示を見ました。
tlokyo.jpg
地図と名所案内でめぐる明治・大正の東京
明治維新後、近代都市へと発展を遂げた東京の姿を、都立中央図書館が所蔵する明治・大正時代に刊行された地図や名所案内、写真パネル等で、現在と対比 させながら紹介しています。
無料ですが パンフの地図を印刷した立派なクリアフォルダーと資料などを頂きました。
明治 大正の東京は建物なども興味深く 面白かったです。
写真では 当時の人々の様子も伺えて感慨深かったです。

posted by うめのはな at 08:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2013年01月28日

南部坂・麻布南部坂教会(港区)

日比谷線広尾駅から少し歩くと 南部坂がある。
南部坂は旧麻布盛岡町と旧麻布広尾町の境界を西から東へ上る急な坂である。
坂下から見て左側は坂の名称は、江戸時代、現在の有栖川宮記念公園の場所に奥州・南部藩の屋敷があったことに由来している。
有栖川記念公園である。坂の右側は麻布ナショナルスーパー、南部坂教会、ドイツ大使館、ドイツ大使館公邸と並び、外国人が多い。
すれ違う人たちも オープンカフェに居る人たちもほとんどが外国人でした。
meijinguu119213.JPGmeijinguu119145.JPG
坂の途中にある小さな教会が 麻布南部坂教会です。
meijinguu119226.JPG
日本基督教団麻布南部坂教会
年代 昭和8年(1933)1996(平成8)年改修
用途 キリスト教会
設計 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
構造 鉄筋コンクリート造3階建
所在地  港区南麻布4-5-6
nanbuch02.JPG
この小さな教会もウィリアム・メレル・ヴォーリズさんの作品なのです。
meijinguu119221.JPG
日本基督教団麻布南部坂教会
「南麻布の南部坂に面して、有栖川宮記念公園に向かい合うように位置しています。設計は宣教師として来日したヴォーリズです。昭和8年(1933)に献堂式が行われました。教会堂建設は、募金活動およびドイツ改革派東北ミッションの宣教師からの援助によって実現したと言います。当時は日本基督麻布教会と称していました。一階のホール(幼稚園)と礼拝堂を重層的に積み上げることによって、坂道という立地条件を活かした設計がなされています。坂下からは礼拝堂の大きなポインテドアーチ(先の尖ったアーチ)を望むことができます。 港区」
nanbuch4.JPG
その隣はドイツ大使館です。(写真の黒いビル)
南部坂のきつい坂の塀はドイツ大使館のもので 「日独交流150年」の写真などが描かれています。
meijinguu119144.JPG
この外壁はその時々の行事で写真が変わるので名物となっています。
この斜めの塀の内側は大使館。のぼりつめたところに 大使公邸があります。
ドイツ大使館は、敷地は5000坪ほどの土地に大使館と大使公邸が建ち広い日本庭園があります。1937年まで、ここは小泉策太郎の邸宅でしたが 策太郎の没後は何回か人手に渡った。そして、1960年にはドイツ大使館となりました。
門が固く閉じられているので 中はうかがえませんが 門の前に「不老」の石碑。
これは何なのだろうと見ましたがわかりませんでした。
meijinguu119143.JPG
ドイツ大使公邸(旧小泉策太郎邸)
年代 19世紀
用途 専用住宅⇒大使公邸
構造 木造平屋建
所在地 港区南麻布4-5-10
「ドイツ大使公邸は、大正・昭和初期に活動した政治家・小泉策太郎の邸宅を受け継ぐものです。小泉は政友会の政治家であるとともに、小泉三神の雅号をもつ文人でもありました。大正時代、南麻布の地に移り住んだ小泉は、数多くの古美術品、特に仏像のコレクションを開始しました。その仏像を収めるための古建築群を移築し、さらに邸宅の庭園を「柯蔭精舎(かいんしょうじゃ)」と称し、石塔、燈篭、蹲(つくばい)などを配置した日本庭園を築きました。この日本庭園は当時の有力な政治家を接待するための場としての意義も大きかったようです。古建築群として、富士見稲荷社殿、門(通称武家門)、東屋、鐘楼が現存します。 港区」
敷地は徳川二代将軍の旗本・三枝氏の屋敷があったときのままで 、庭園もドイツがこの敷地を購入したときのままであるといわれています。ドイツ大使館敷地内に三枝摂津守の邸内社/富士見稲荷の旧跡があり祠が残っている。
一度くらい中を拝見したいものです。

有栖川宮記念公園に行きます。
posted by うめのはな at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年12月08日

都立青山霊園.外人墓地

銀杏並木を見たあと 青山通りから 赤坂消防署入口交差点を左折し そのまままっすぐ青山霊園 に向かう。
青山霊園北出入口から入る。

都立青山霊園(とりつあおやまれいえん)
東京都港区南青山2丁目32番2号
 美濃国郡上藩の藩主だった青山家の下屋敷跡、約26万uに広がる都立の霊園。総理大臣や作家など著名人の墓が数多くあり、忠犬ハチ公の記念碑もある。
201206gaien196.JPG
この中央通りは 春には桜並木がきれいなところです。
そのまままっすぐ青山墓地中央交差点に向かう。
いろいろな墓が見えてなぜか鳥居などもあって 面白いけれど墓見物はせず 歩いた。
交差点手前に 外人墓地がある。ここはちょっと立ち寄った。
外人墓地顕彰碑
201206gaien172.JPG
 外人墓地
 「明治10年、築地居留地などに住む外国人専用の墓地を青山霊園に設けることが決まりました。そして最初の埋葬が明治13年に行われました。
 明治32年居留地制度廃止に伴い外人墓地も一般墓所の一部として扱われるになりましたが、現在も「外人墓地」と呼ばれています。
 ここには、幕末から明治期にかけてわが国の教育や工学など様々な分野の基礎をつくり、日本の近代化に大きく貢献された方々や、そのご家族が多数眠られています。そして現在もご子孫や縁者の方々によって手厚く守られています。また、縁故者が帰国し管理者がいなくなったお墓もありましたが、平成18年から東京都が管理することになりました。
 様々な形の墓石や故人の功績が刻まれた碑など、これらすべて、はるばる海を越え、異国の地で没した方々やご家族の気持ちに思いをはせ、日本が近代化をとげた時代を振り返ってみてください。」案内板より

201206gaien173.JPG
横浜の外人墓地のような大規模ではなく、霊園の一画だけが外人墓地になっています。

明治の頃、肥前佐賀に欧米の進んだ技術や文化を紹介し、教育をした外国人、フルベッキとワグネルは小路をはさんで隣同士で青山霊園に眠っています。
201206gaien174.JPG
ドクトル・ゴットフリード・ワグネル
1206fb.jpg
グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック

青山墓地中央交差点で、右折し陸橋を越えます。ここを通ると霊園は小高い丘の上にあるのだとわかります。
そのまま直進し 根津美術館に向かいました。
posted by うめのはな at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年11月10日

明治学院記念館 2.

記念館は当時アメリカで流行したネオゴチック様式の総赤煉瓦、フランス瓦葺の2階建てで、中には神学部の教室・教授室と学院の図書館が置かれた。
現在も 小チャペル、学院歴史資料館、会議室、事務室などに活用されている。
瓦造りのハイカラな建物の2階には図書・雑誌の閲覧室があった。
島崎藤村が読書したフロアは現在は会議室として使用されている。
2012110278.JPG

2012110281.JPG
大きな古いオルガンがある。このオルガンは演奏できるリードオルガンとしては国内では最大で最古のオルガンだという。明治学院の120周年を記念して、このオルガンが修理され、よみがえったとのことです。
20121102191.JPG
大正の礼拝の音-大リードオルガン
2012110280.JPG
港区登録有形民俗文化財
メーソン&ハムリン社製
   415型リードオルガン
           平成10年(1998)12月2日指定
「このオルガンは、アメリカのMason and Hamlin会社製のLiszt Organと言い、1914年当時、明治学院教授A.K.ライシャワー博士の尽力で米国プレスビテリアン・リフォームド両ミッションから学院に贈られたもので、現在我が国においてはほとんど唯一のものではないかと思われる」
2012110279.JPG

20121102193.JPG
木のぬくもりのある階段を下り 記念館を出ました。
2012110252.JPG
学園祭中でいろいろな模擬店が出ていました。
学生たちは笑顔で 一般客にも呼びかけていました。
一歩外に出れば そこは高層マンションが建ち 国道を車が走る近代的な町です。
歴史的建造物を見学している間 ここが白金の町の中だということを忘れていました。
posted by うめのはな at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年11月09日

明治学院記念館 1.

[建設年]1890(明治23)
[設計者]H.Mランディス(宣教師)と推定
[構 造]煉瓦造 一部木造(屋根:銅板一文字葺)
[規 模]地上2階 延床面積516.09平方メートル
1979(昭和54)年 東京都港区有形文化財に指定
2002(平成14)年 東京都港区「景観上重要な歴史的建造物等」に指定
2s012110245.JPG
港区指定有形文化財(建造物)
 明治学院記念館
             昭和54年(1979)10月23日指定
「島崎藤村が小説「桜の実の熟する時」の中で、「・・・新しく構内に出来た赤煉瓦の建物は、一部は神学部の教室で、一部は学校の図書館に成つて居た。まだペンキの香のする階段を上つて行つて二階の部屋へ出ると、そこに沢山並べた書架がある。一段高いところに書籍の掛りも居る。・・・書架で囲はれた明るい窓のところには小さな机が置いてある。そこへも捨吉は好きな書籍を借りて行つて腰掛けた・・・」と書いているのが、この赤煉瓦の建物である。1890年(明治23年)6月24日に献堂式が行われた。建築当初は、神学部の教室、教授室、ならびに図書館として使用されたが、長い歳月を経た現在は、記念館と呼ばれている。
 設計は、H・M・ランディス教授。赤煉瓦・瓦葺きのニ階建てで、当時アメリカで流行したネオゴシック様式。延面積は約235平方メートル。1894 年(明治24年)6月の大地震で大破し二階部分を木造に改造。木造部分は木材の骨組を真壁にし木骨を表に出し、煉瓦と木造との連繋構造は妙をえて高い評価を受けている。尖頭は1914年(大正3年)のサンダム館の火災時に類焼して改造されたもの。
 1923年(大正12年)の関東大震災では煉瓦の大煙突が崩壊、1966年(昭和41年)道路拡張のため現在地に移動復元した。1979年(昭和54年)、東京都港区の指定文化財となった.」
20121102183.JPG

20121102151.JPG

2012110268.JPG

2012110273.JPG
島崎藤村が小説『桜の実の熟する時』のなかで、「‥向ふの講堂の前から敷地つづきの庭へかけて三棟並んだ西洋館はいづれも捨吉が教を受ける亜米利加人の教授達の住居だ。白いスカアトを涼しい風に吹かせながら庭を歩いて居る先生方の奥さんも見える……」と書いている西洋館は、西の道路寄りから1号館、2号館、3号館と呼ばれ、東南隅の3棟が4号館、5号館であった。このうち奇数番号にプレスビテリアン(長老派)、偶数番号にリフォームド(改革派)の宣教師たちが住んだ。
当時学院で教える宣教師たちが住んでいた築地居留地は学院まで通うにはあまりに遠すぎるので、開校と前後して宣教師の住居を準備する必要があったからだそうです。
建物前の小さな植え込みにはアンネの薔薇がありました。
20121102205.JPG

20121102184.JPG
入り口前階段ホール。
20121102185.JPG
右 小会議室
20121102211.JPG
左 礼拝堂
20121102186.JPG

2012110277.JPG

20121102189.JPG
踊場の窓
次は2Fの部屋を見ます。
posted by うめのはな at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年11月08日

明治学院大学礼拝堂(チャペル)

明治学院大学白金キャンパス正門を入ってすぐに 礼拝堂があります。

[建設年]1916(大正5)年
[設計者]W.Mヴォーリズ
[構 造]煉瓦造、一部鉄筋コンクリート造
[規 模]2階建 延床面積 553.61平方メートル
1989(平成元) 年 東京都港区有形文化財に指定
2002(平成14)年 東京都港区「景観上重要な歴史的建造物等」に指定
20121102148.JPG
港区指定有形文化財(建造物)
 明治学院礼拝堂
            平成元年(1989)10月25日指定
「 1903年(明治36年)建築のミラー記念礼拝堂が度重なる地震のため地盤沈下し破損、危険となったため、サンダム館2階の講堂が礼拝堂として使用されていた。ところが1914年(大正3年)11月24日にこのサンダム館も火災のため焼失し学院は礼拝を行う場所を失った。そこで、礼拝堂の建築が急がれた。
 井深梶之助総理とインブリー博士は、理事会に諮り建築資金の調達に奔走。米国プレスビテリアン(長老派)、リフォームド(改革派)の両ミッションに上申書を送り援助を懇請した。その結果、セベレンス氏からの寄附があり、それが資金にあてられた。
 ミラー記念礼拝堂の前例があるので、特に基礎工事を堅固にし、1915年(大正4年)11月30日に定礎式を行い、当時来朝中のプレスビテリアン外国伝道局主事スピーア博士が礎石をすえた。工事は順調に進行し、翌1916年(大正5年)3月落成。同3月27日には卒業式をかねて献堂式が行われた。建坪は約375平方メートル。建築様式は英国式、設計はウォーリス会社であった。
 その後学生数の増加に伴い狭隘となったので1920年代の末に両袖を拡張、十字架型とし、さらに講壇の一部を改造した。1966年(昭和41年)2月19日に、西独ヴァルカー社製作のパイプオルガンが設置され、奉献式が行われた。
     明治学院大学  」
20121102180.JPG
明治学院大学は、築地の外国人居留地に開設された、歴史あるミッションスクールです。 「ヘボン式ローマ字」で有名な、ヘボン博士が初代総理を務めています。
明治学院発祥の地(現在の東京都中央区明石町7-14)には石碑が置かれています。
20121102182.JPG
G.H.F.VERBECK(フルベッキ)の碑〈礼拝堂前)
2012110249.JPG
屋根窓は後に作られたものだそうです。
2012110270.JPG
礼拝堂の中では パイプオルガンの演奏会を行っていました。
20121102173.JPG

20121102174.JPG
2006(平成18)年から実施された礼拝堂耐震修復工事にあわせ、新しいパイプオルガンを製作ました。
20121102176.JPG
設置:2009(平成21)年10月
製作者:ヘンク・ファン=エーケン
楽器の様式:17〜18世紀中部ドイツ・オランダ様式
2段手鍵盤と足鍵盤、33ストップ
この工法で作られた20世紀以降のオルガンとしては 世界で4台目。日本では最初のオルガンです。

メレル・ヴォーリズと一柳満喜子が結婚式をあげたのはこの礼拝堂でした。1919(大正8)年のことです。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏については 以前このブログでも取り上げました。
たくさんの建築作品を残しています。
・負けんとき ヴォーリズ満喜子の種まく日々上・下  玉岡かおる/著   新潮社 

・メレル・ヴォーリズと一柳満喜子   愛が架ける橋
Grace Nies Fletcher/著 平松隆円/監訳 水曜社
ブログにその本のことを書きました。
http://umeno87.sblo.jp/article/53393523.html

posted by うめのはな at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年11月07日

明治学院インブリー館

清正公前から 5分ほど歩くと明治学院大学がある。
東京文化財ウィーク、歴史的建造物公開で学園祭の期間 インブリー館、記念館、チャペルが一般公開された。
2012110246.JPG
正門前からみた 記念館。芝生に150TH Annivの文字が見える。
歴史ある学校です。
まず インブリー館から見学しました。
2012110255.JPG

2012110256.JPG
インブリー館(国指定重要文化財)
「明治学院大学がこの白金の地に開校したのは、1887年(明治20年)9月15日であるが、開校までに普通学部校舎及び講堂のザンダム館と同部寄宿舎のヘボン館が建築されていた。
 引続き、神学部校舎兼図書館(現「記念館」)や、当時学院で教えた宣教師の住宅などの西洋館が相ついで建てられた。
 島崎藤村が小説『桜の実の熟する時』の中で、「向ふの講堂の前から敷地つヾきの庭へかけて三棟並んだ西洋館はいづれも捨吉が教を受ける亜米利加人の教授達の住居だ。白いスカアトを涼しい風に吹かせながら庭を歩いて居る先生方の奥さんも見える。」と書いている三棟の宣教師住宅は、構内西南隅(現高校校舎敷地)にあったもので、今は残っていない。
 この建物は、これらとは別に構内東北隅に建てられ、学院の宣教師住宅のうちただ一つ現存するものであり、ウィリアム・インブリー博士が長年住んだので、「インブリー館」と呼ばれてきた。1889年(明治22年)頃の建物で、木造瓦葺2階建、建築様式的には19世紀後半の亜米利加の住宅様式を反映している。
 1964年(昭和39年)現在地に曳屋され、1994年(平成6年)から建物調査、解体調査工事、1996年(平成8年)5月から組立工事を行い、1997年(平成9年)9月に全面修復が終わった。現在は木造銅板葺2階建で、延床面積は301.3平方メートル。同窓会本部等として利用されている。
     明治学院大学」
2012110266.JPG
インブリー館は洋風住宅の特徴を最も良く示す宣教師館としては、貴重な存在であり、その価値において全国的にも1・2を争う建築物である。1998年、国の重要文化財に指定された。
内部見学 撮影も許可されています。受付の方はみなさんとても親切でいちいち挨拶してくれました。
どこぞやの大学の雰囲気とはぜんぜん違います。学風なのかなぁ・・と。
2012110265.JPG
玄関ホールです。
20121102162.JPG

20121102163.JPG

20121102210.JPG
寄木や木材が美しいです。
2012110258.JPG

20121102160.JPG

20121102165.JPG
室内は小会議にでも使われているのでしょうか・・・
20121102167.JPG
部屋ごとに違う寄木張りでした。
2012110269.JPG
外観も美しいです。
国の重要文化財指定のほか 平成14年 港区「景観上重要な歴史的建造物等」に指定されました。

[建設年]1889(明治22)年
[設計者]不詳[構 造]木造(屋根:銅板一文字葺)
[規 模]地上2階 延床面積301.30平方メートル
1998(平成10)年 国の重要文化財に指定
2002(平成14)年 東京都港区「景観上重要な歴史的建造物等」に指定
posted by うめのはな at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年11月06日

覚林寺・清正公堂及び山門(港区)

東京メトロ南北線の白金高輪駅1番出口を出ると目の前は国道1号線。ここから徒歩5分くらいのところに 清正公前交差点 - 覚林寺に近接する桜田通りと目黒通りの交差点(三差路)がある。ここは 目黒通りの起点でもある。
20121102209.JPG
寺の外 道路に面したところに「 清正公大明神」という巨大な石碑があります。
加藤清正(1562〜1611):安土桃山時代の武将です。没後に庶民により神格化され「 清正公・せいしょうこうさま」と呼ばれ、信仰されました。
ちなみに 白金高輪駅は開業前の仮称では「清正公前駅」でした。
覚林寺(かくりんじ)は日蓮宗の寺院。山号は最正山。加藤清正の位牌や像が祀られている。
清正公堂および山門 は港区指定有形文化財(建造物)
清正公堂は本殿・拝殿・幣殿を一体化した権現造の建造物です。
2012110233.JPG
 港区指定有形文化財(建造物)
清正公堂及び山門
           平成19年(2007)10月23日指定

 「覚林寺は弘化2年(1845)の大火で全焼し、山門は安政3年(1856)、清正公堂は慶応元年(1865)に再建されたものです。
 清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奥行三間、幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と考えられますが、伝統的な意匠をもちます。山門は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門であり、両側に脇戸が付きます。斗に皿斗が付くほかは装飾的要素の少ない簡素な門です。
 清正公堂は本殿部分を土蔵造とする権現造で、近世の建物構成を継承しています。拝殿・幣殿は本格的な禅宗様形式を採用し、本殿も伝統的な意匠を引き継いでおり、近世以来の技術を伝えるものとして高く評価されます。また山門は現在の境内おいて最古の建築であり、同時期の建設になる清正公堂とともに、近世以来の境内の構成を伝えている貴重な建造物です。
 港区教育委員会」
2012110234.JPG

20121102146.JPG

2012110238.JPG
桜田通り(国道1号)の拡張に伴い、通りから1.5m位、下がった場所に位置せざるを得ない状況が長く続いた。2005年盛り土をして道路と同じ高さにし、寺院そのものを移す作業を行った。このとき本堂は解体・組み立てを行わず建物そのものをジャッキアップして移したそうです。

posted by うめのはな at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年07月15日

続・旧新橋停車場

2012年06月16日のブログで旧新橋停車場 のことを書きました。
http://umeno87.sblo.jp/article/56508557.html
そのときは あまりに近くて全体が写真に写せなかったのですが 今回 汐留シティセンターから硝子越しですが よく見えましたので 再び撮影してきました。
12710siosaito10.JPG 
12710siosaito2.JPG 
12710siosaito1.JPG 
汐留ミュージアムは4Fにあり エスカレーターで上がると屋根の部分などもよく見えました。
12710siosaito6.JPG 
12710siosaito12.JPG 
シオサイトの入り口の自動回転扉はすごく嫌です。事故があってからあちこち 使用しなくなったりしています。なぜこんな不便なものをわざわざつけたのかなぁ〜流行だったんだろうなぁ〜普通の自動ドアにすればいいのに・・と思いつつ びびりながら出入りしました。
posted by うめのはな at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年06月21日

新東京丸 東京みなと館

東京都江東区青海2丁目4−24 青海フロンティアビル 20F
ここに東京みなと館があります。
「東京みなと館は、このような東京港の歴史や役割、臨海副都心の現状と開発計画を広く紹介するため、東京都港湾局と一般社団法人東京都港湾振興協会が開設したものです。」
という説明です。
全員が20Fに上がり まずDVDを20分ほど見ました。お台場の成り立ちや江戸時代からの歴史を学びました。ペリー来航で 幕府が洋上防衛のために作ったのが台場です。品川沖に11基の台場を一定の間隔で築造する計画。品川台場(品海砲台)と呼ばれたものが敬意を払い御台場となる。
高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して埋め立てました。現存するのは第三台場と第六台場だけです。現在のお台場である13号埋立地は、北部は港区、西部は品川区、南部は江東区にそれぞれ帰属した。映像で学ぶお台場の歴史はなかなか興味深いものでした。
その後 係員が展示物の説明をしてくれます。 
2012615tokyo132.JPG 
大型模型や映像 写真などで、江戸期から今日までの東京港のあゆみや東京港の役割を学ぶことができます。
また20F 地上100mから四方を眺めることができ 今巡ってきたばかりの東京港や臨海副都心の様子がよくわかります。
2012615tokyo136.JPG 
2012615tokyo148.JPG 
真下は 大江戸温泉物語の建物でした。
2012615tokyo140.JPG 
後は自由解散となりましたから 直結しているテレコムセンター駅からゆりかもめに乗り帰宅しました。半日ですがとても充実していました。
posted by うめのはな at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

新東京丸 東京湾見学6

青海客船ターミナルに到着後「東京みなと館」へ徒歩で向かいます。
2012615tokyo124.JPG 
徒歩約15分。旗を持った係員の後をぞろぞろ付いて行きます。
ターミナルのすぐそばには 湾岸警察署があります。
2012615tokyo126.JPG 
この警察署は新しくできたもので 有名人が留置されたりして結構有名です。
その前は 日本科学未来館です。
2012615tokyo128.JPG 
そこからもう少し歩きます。テレコムセンター駅の近くです。
posted by うめのはな at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年06月20日

新東京丸 東京湾見学5

新東京丸は 防波堤内側を航行し フェリー埠頭から ライナー埠頭をぐるりと廻ります。
2012615tokyo92.JPG 
遠くにスカイツリーなども見えてまずまずの景色です。
2012615tokyo99.JPG 
この船はRO/RO船というそうです。ロールオン・ロールオフ船の略称で本船に備えられたランプウェイ(可動橋)により トラックやシャーシーが自走または牽引により出入りできる構造の船のことだそうです。この船は元はフェリーだったそうです。
2012615tokyo101.JPG 
青海コンテナ埠頭をすぎていきます。
2012615tokyo117.JPG 
船旅もそろそろ終わりです。船の科学館が見えてきました。
船の科学館は2011年9月末日をもって本館展示を休止し、南極観測船「宗谷」の展示公開を中心とした博物館活動に移行しています。
2012615tokyo114.JPG 
南極観測船 宗谷 です。
15tokyo112.JPG 
帆船 海王丸II世です。東京都港湾局のリストでは6月8日入港、7月3日出航となっています。見れたのは運がよかったのですね。4月から東京―ハワイ(ホノルル)―韓国(麗水)―東京と、長い遠洋航海実習を終えたようです。「海の貴婦人」と言われる 「海王丸」帆をはった姿も見てみたいです。
姉妹船として日本丸があり 横浜日本丸メモリアルパークには見学用の日本丸があります。
114-1439_IMG.JPG 
横浜の「日本丸」です。
いよいよ到着です。私たちは竹芝には戻らず 青海客船ターミナルで下船します。
2012615tokyo123.JPG 
とても充実した船旅でした。約1時間15分があっという間にすぎました。眺めもよくて詳しい説明もあっていろいろ勉強になりました。「スタッフの皆さんも親切でした。ありがとうございました。」
これから 徒歩で東京みなと館に向かいます。
posted by うめのはな at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年06月19日

新東京丸 東京湾見学4

乗船当日は天気もよく風もほとんどなく海も穏やかでしたので 新海面処分場の外側を航行してくれましたが 天候の状況では中央防波堤埋立地の内側を航行するそうです。
というわけで 東京ゲートブリッジをくぐることができました。
2012615tokyo74.JPG 
2012615tokyo76.JPG 
2012615tokyo78.JPG 
2012615tokyo79.JPG 
ゲートブリッジをくぐると若州の風車が大きく見えました。
wfatokyo81.JPG 
そしてもうひとつ 天気のいいときにしか見えない スカイツリーも遠くに見えました。
strokyo89.JPG 
sktokyo90.JPG 
これから船はお台場に向かいます。
posted by うめのはな at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

新東京丸 東京湾見学3

港から見える景色に 清掃工場の高い煙突があります。煙突といっても四角い形のコンクリートのものです。
2012615tokyo95.JPG
有明清掃工場は臨海副都心の施設から出るごみを地下の内径60cmのパイプ=「ごみ管路」で清掃工場に吸い込むので街中をごみ収集車が走ることはありません。そのような説明もしてくれます。2012615tokyo143.JPG 
お台場の観覧車と有明清掃工場の四角い煙突とドーム型屋根の有明スポーツセンター。清掃工場の余熱は1給熱(地域冷暖房) 2有明スポーツセンター に利用されています。(ぼんやり見えるのはスカイツリー)清掃工場も臨海部の中に溶け込んでいます。

中央防波堤と書きましたが 正確には中中央防波堤内側埋立地 中央防波堤外側埋立地そして新しい埋立地である新海面処分場です。防波堤内側埋立地は第二航路トンネルにより江東区青海と 外埋立地は臨海トンネルで大田区城南島へ 東京ゲートブリッジで江東区若洲に繋がっています。人が住んでいない地域です。この埋立地は約30mほどの高さだそうです。焼却灰などをそのまま埋め立てるのではなく 土で覆い 灰と交互に埋め立てていくそうです。内側埋立地は 「海の森公園」として植樹が行われています。30年をかけて完成させる予定です。
2012615tokyo66.JPG
反対側の窓ごしですが 陸地が中央防波堤内側埋立地です。
そして 東京臨海風力発電所二基の風車「東京風ぐるま」が発電を行っています。
2012615tokyo8-5.JPG
これも窓越しで 窓のゆがみでゆがんで見えますが 風車です。
防波堤外側の東京湾に出ると やはり船は波を受けて少々揺れました。30mもの高さの埋立地なら防波堤の役目もありますね。市街地の標高よりよほど高いです。臨海部の埋立地というのは 意外と標高が高くて 江東区では災害時地区内残留地区となっています。
tokyo01.jpg
もらった パンフレットのコースです。今回は竹芝桟橋には戻らず 青海に行きます。そこから 東京みなと館に行きます。
posted by うめのはな at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年06月18日

新東京丸 東京湾見学2

新東京丸は視察船です。観光船ではないので 船内で動き回ることはもちろん飲食も禁止です。(水分補給は可)乗船すると左右に窓がありテーブル付きの椅子があります。真ん中には大きなテーブルがありそこにも椅子があります。会議室という感じですが せっかくだから窓際の席に座りました。乗船順に好きな席に座りますから当然窓際から座ります。
2012615tokyo61.JPG
案内の人がいてマイクを使い 東京湾の役割などについてずっと説明してくれます。
そのたびに右見たり 左見たりですが 丁寧な説明でよくわかります。今まで何度か東京湾クルージングの船に乗りましたが 説明つきで学べるのは初めてでとてもありがたいです。
海から見る東京タワーもまたいいものです。
2012615tokyo40.JPG
レインボーブリッジ近くで レストラン船シンフォニーに出会いました。
2012615tokyo41.JPG
そのすぐ後ろには 同じくヴァンテアン。これは以前乗りました。
2012615tokyo44.JPG
品川埠頭 大井埠頭の役割なども説明を受けます。 大きなコンテナ船が入港する埠頭ですからキリンのようなクレーンがずらりと並んでいます。月島の倉庫もほとんどが冷凍倉庫だそうです。
2012615tokyo50.JPG
埠頭のすぐそばには 大井火力発電所が見えます。(頑張れ!!w)
2012615tokyo52.JPG
大井埠頭をすぎると見えるのが 白い灯台のある防波堤です。
2012615tokyo58.JPG
東京港は 1998年から外貿コンテナ取扱個数で国内首位を維持しているそうです。
15tokyo62.JPG
遠く 羽田の管制塔が見えました。飛行機の発着も見えました。
中央防波堤をぐるりとまわり 東京ゲートブリッジに向かいます。
posted by うめのはな at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年06月17日

新東京丸 東京湾見学1

東京都が募集していた「新東京丸で行く!東京湾見学会」に応募したら運よく当選したので行ってきました。
船の中で聞いたのですが 今回は16倍の倍率だったそうで それでも少ないほうだということでした。約60名の募集です。
6月15日午後でしたが 前日の天気が嘘のように晴れて気持ちのいい日でした。
浜松町から徒歩で竹芝桟橋に向かいました。
2009年9月にもヴァンテアンクルーズで東京湾を見学しました。そのときの写真はこちらにあります
今回は 小型船ターミナルという一番はしにあるターミナルです。食事をすませ 集合時間よりかなりはやくその場所に行きました。
2012615tokyo21.JPG
まだ誰もいませんでしたが 隣の 日の出桟橋から出航していく 「安宅丸」を目の前で見ることができました。
atake5tokyo10.JPG
いつか この船に乗りたいなぁ・・と早速パンフレットをもらいました。
同じ日の出桟橋に停泊していた少し変わった船が気になりました。
「卑弥呼」かと思ったけれど少し違う。聞けば 新船の「ホタルナ」だということで試験運転中だそうです。
このときは停泊中でしたが 後に出航しその写真を撮ることができました。
hotarunatokyo34.JPG 
宇宙船をイメージしているそうです。 6月28日 運航予定。
hta5tokyo35.JPG
「卑弥呼」「ホタルナ」共に 松本零士氏プロデュースで 船名のホタルナは、“月が輝く夜に神秘な輝きを放つ蛍が隅田川を舞う”ホタルとルナ(月の女神/LUNA <ラテン語> )「ホタル月」という意味で名づけられたそうです。
これにも 乗ってみなたいなぁ・・・
ぼちぼちと人が集まりだします。ふと外を見ればいつの間にか「新東京丸」が桟橋に着いていました。
2012615tokyo25.JPG 
2012615tokyo26.JPG
当選者の確認と受付が終わり13時半出航です。
2012615tokyo31.JPG
 10分くらい前にいよいよ乗船です。
posted by うめのはな at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2012年06月16日

旧新橋停車場

JR新橋駅の東 300m。ゆりかもめ駅から汐留方面の出口から出るとすぐの汐留シティセンターと松下電工などの 間の広場。ここに新橋〜横浜間に日本の最初の鉄道が敷設された時に建てられた「旧新橋停車場」を復元した建物があり国の史跡に指定されている。
汐留の再開発工事がはじまった1995年(平成7年)旧新橋停車場跡などが発掘された。
発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻され、2003年(平成15年)にその上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられた。
2012615tokyo164.JPG
プラットホーム側より見た駅舎
yo151.JPG
「1872(明治5)年に開業した旧新橋停車場の駅舎を、当時と同じ場所に、開業当時の外観で再現したものです。駅舎等の本物は現存しませんが、外観については、当時の鮮明な写真、駅舎基礎など信頼性の高い資料が残っており、これを基に可能な限り正確に、本物が存在した「場所」の上に当時の「外観」を再現しました。
史跡となっている駅舎の基礎石から正確に寸法を計測し、当時の鮮明な写真等から平面・立面的な規模、窓の大きさ及び外壁材の寸法等を算出しました。」とのことです。
2012615tokyo163.JPG 
軌道は当時用いられたレール1本の長さ24フィート(7.3m)を再現。

yo161.JPG 2012615tokyo160.JPG
鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」。当時と全く同じ位置に再現 。
o161.JPG
復元された駅舎ですが とても瀟洒な建物で美しいです。
2012615tokyo157.JPG 
2012615tokyo154.JPG
ここに鉄道歴史展示室があり 出土品などが展示されています。
sinbasisousya9.jpg
当時の新橋停車場です。
posted by うめのはな at 10:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 港区

2012年05月29日

新橋駅 鉄道唱歌の碑・動輪

「ゆりかもめ」は混んでいました。終点 新橋で降ります。
ゆりかもめ駅の地上入口の正面、JR新橋駅の駅舎壁面に「C-58機関車の動輪」と「鉄道唱歌の碑」が柵に囲まれて並んでいます。
2012525kasai184.JPG
 昭和32年(1957)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌の作詞者、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。
鉄道唱歌は明治時代の文学者大和田建樹自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録だそうです。
「汽笛一聲新橋を はや我が汽車は離れたり 愛宕の山の入りのこる 月を旅路の友として」からはじまる東海道篇は 新橋〜神戸間の歌です。
2012525kasai183.JPG
新橋駅は日本の鉄道が初めて走った場所です。
sinabsi.jpg
1872年(明治5)の9月12日、 新橋〜横浜(桜木町)間に、日本で最初の鉄道が開業しました。 毎正時に発車して、1日に9往復でした。 C58425は1947年11月に汽車会社で製造された製造番号2561の機関車で、苗穂機関区に新製配置された。 その後、鷲別機関区に配置されたが最後は苗穂機関区で1974年7月に廃車となりました。
2012525kasai185.JPG
碑の説明文です。
JR新橋駅日比谷口前にあるSL広場にSLのC11 292号機が展示保存されていますが今回はそこには行きませんでした。以前写したものでライトアップされたものがありました。
IMG_2815.JPG
東京駅丸の内北口地下 動輪の広場にも直径1m75cmの動輪が3つ並んでいます。
IMG_1160.JPG
この動輪は、かつて東海道線を走っていたC62-15型蒸気機関車のものです。
posted by うめのはな at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区

2011年11月04日

赤坂離宮〜迎賓館〜その5

南庭をみたあと 前庭 正面玄関のほうに向かいます。
ここは 昨年の公開時じっくりと見ましたから今年は わりと軽くの見物です。
抽選とあって 昨年とは違い人が少なくてよかったです。
geihinkan96.JPG

geihinkan66.JPG

迎賓館赤坂離宮は、ネオバロック様式の壮麗な洋風建築で、緑青の屋根、花崗岩の外壁、調和の取れた装飾など明治期の傑作といわれています。
mae.JPG

建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡に東宮御所として1909年(明治42年)に建てられた。しかしネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住まいとしては不便なため皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)はほとんど使用されず 赤坂離宮として扱われたとのこと。
戦後 赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官(1948–60年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用された。
そのため 床の寄木は傷ついている部分も多いそうです。

その後 5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、1974年(昭和49年)3月に、迎賓館が完成した。
2006年(平成18年)2008年にかけては、大規模な改修工事が行われました。

geihinkan89.JPG

本館構造:鉄骨補強煉瓦石造、地上2階(地下1階)
延床面積:1万5000平方メートル

和風別館 游心亭(ゆうしんてい)がありますがここは 非公開でした。

正面左右に金色の霊鳥。両脇の屋根に甲冑。正面中央にはバルコニー。
20101015_044.JPG

niwa4.JPG

そして中央上部には菊の御紋章。
両翼を広げ 人々を抱きかかえるような形をしています。
geihinkan97.JPG

大きすぎて1枚の写真には撮れませんでした。

花崗岩の広場から正面の門に向かう場所は 広い前庭となっていますがここは門で閉められていました。昨年そこは見たのでよしとしましょう。
geihinkan95.JPG

この前庭はかなり広く 左右対称になっていて 噴水や兵舎などがあります。
144本の黒松が植えられ 樹齢250年ほどのスダジイが見事な枝を伸ばしています。
日本らしい風景です。
niwa.JPG

matu2.JPG

niwa2.JPG

綺麗に手入れされ た美しい門庭で 国宝の正面の門が映えていました。
geihinkan110.JPG
posted by うめのはな at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 港区