2013年03月01日

静嘉堂文庫(岡本静嘉堂緑地内)世田谷区

霊廟を上りきると 広場があり丸い噴水があり瀟洒なスクラッチタイルの建物が見えてきます。
どこかで見たような 絵の中の家のようななつかしい感じのする建物です。
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静嘉堂文庫 都・選定歴史的建造物

竣工 1924年(大正13年)
所在地 東京都世田谷区岡本2-23-1
岡本静嘉堂緑地内
設計 桜井小太郎
施工 上遠喜三郎
構造 鉄筋コンクリート2階建て
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静嘉堂文庫は、三菱財閥の二代目・岩崎弥之助(いわさき・やのすけ 1851-1908)が収集した日本や中国の貴重な古典籍を保存し、 研究者に公開することを目的として、弥之助の嫡男で、 四代目の岩崎小弥太(いわさき・こやた 1879-1945)によって建てられました。

静嘉堂の名称は『詩経』の句から採った弥之助の堂号です。
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この洋館はイギリスで建築を学んだ桜井小太郎氏の設計で大正13年(1924)に建てられました。鉄筋コンクリート造2階建スクラッチ・タイル貼りの瀟洒な外観は、当時のイギリス郊外住宅のスタイルです。桜井の師は英国人建築家、ジョサイア・コンドル(1852〜1920)コンドルで、岩ア彌之助の深川邸洋館(現・清澄公園内、現存せず)や高輪邸(現・開東閣)、三菱一号館(2009年復元、現・三菱一号館美術館)など、岩ア家ゆかりの建物も数多く手がけています。
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内部は非公開だそうです。
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駐車スペースに無造作に置かれていた甕(かめです。
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立て札があります。静嘉堂文庫美術館蔵「貼花神仙文大甕
「金時代『十二世紀』ものと思われる。(木の梢等から見て素朴な手法からこの時代のものと判断できる)道教に関係ある甕で道教の寺の水甕として使用されたものと想像できる。(牛に乗っている仙人から推察)類品が余り無く珍らしいものである。縁の青色は翠青釉を使用したものと思われる。」
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所蔵庫とみられる建物が何棟かあります。
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この収蔵庫の下をくぐると庭園に出ます。
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テラス風の場所も設けられており庭園を見わたせます。収蔵庫 以外の機能もあったのではないかと思える建物です。
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南側斜面の梅園です。
武蔵野の面影を色濃く残した庭園では、四季折々のさまざまな樹木や花々を楽しむことができますが 急な斜面を降りて梅を観賞するにはかなりの体力が必要なのではないかと 上から眺めるだけにしました。
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次に隣接する「静嘉堂文庫美術館」に行きました。

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2013年02月28日

岩崎家玉川廟(岡本静嘉堂緑地内)世田谷区

カテゴリーは 歴史的建造物に変わりますが 前日までの世田谷区街歩きの続きになります。
民家園に隣り合わせて、静嘉堂緑地があります。旧小坂家住宅脇の馬坂の正面に門があります。
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岡本静嘉堂緑地、国分寺崖線の一画にあり、もとは岩崎家が所有する庭園であったものです。昭和20年頃までは庭園として維持管理がなされていましたが、その後、人の出入りもなく、ほぼ自然状態のままにあったため貴重な自然が残されています。
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岡本静嘉堂緑地には、 三菱財閥ゆかりの岩崎家玉川廟もあります。車でいくなだらかな坂道もあり静嘉堂文庫にいけますが、まずは 自然の残る山道のほうから入り岩崎家玉川廟に向かいます。
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急な木の階段を登ると霊廟の建立と同じ明治43年の銘が入った巨大な灯籠が一対あります。
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岩崎家廟堂案内(案内板)
「この奥にある青銅色のドームを戴く白亜の建物は、静嘉堂文庫を建設した岩崎彌之助の霊廟として建てられ、岩崎彌之助、小彌太をはじめ岩崎家代々の墓である。
明治四十三年三月、わが国西洋建築の始祖ともいうべきジョサイア・コンドルによって立てられた。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館なども設計している。
 青銅の扉に刻まれている中国二十四季のレリーフならびに全面の大香炉は岡崎 雪聲(おかざき せっせい)の作である。また、森の奥には、松方正義の文と書による男爵岩崎君墓碑がある。この霊廟は平成十一年四月東京都により歴史的建造物に選定された。平成二十四年九月 世田谷区教育委員会」
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岩崎家玉川廟 都・選定歴史的建造物

竣工 1910年(明治43年)
所在地 東京都世田谷区岡本2-23-1
岡本静嘉堂緑地内
設計 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)
構造 煉瓦造石積み平屋建て
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この霊廟は、 三菱財閥の二代目・岩崎弥之助(いわさき・やのすけ 1851-1908)が死去したとき、 岩崎家の納骨堂として弥之助の嫡男で、 四代目の岩崎小弥太(いわさき・こやた 1879-1945)によって建てられました。
ドームを中心にして、突起部が四方にある形。ギリシャ正教風十字プランといって、建物は上から見ると十字架になっている。
コンドルが実施設計を担当したニコライ堂が、これと同じ形式です。どこかでみたことがあると思ったらニコライ堂のミニチュアという感じです。
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青銅の扉に刻まれている中国二十四季のレリーフ装飾
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大香炉は岡崎 雪聲 作
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一対の狛犬が霊廟を守っている。
静嘉堂文庫が造られる前まではこの丘には岩崎家の玉川廟しかありませんでした。でも いくつかの灯篭や 庭石などもあって 一体これらはどういういわれのものでいつの時代のものなのか 知りたかったのですが何もわかりません。
平成天皇行幸の碑とお手植えの木だけはわかりました。
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岡本静嘉堂緑地には、 三菱財閥ゆかりの静嘉堂文庫もあります。
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ここを出ると 静嘉堂文庫です。そちらに向かいます。

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2013年02月27日

岡本公園民家園(世田谷区)

旧小坂家住宅を出て 馬坂を下ると静嘉堂緑地です。
隣り合わせて岡本民家園があります。隣り合わせてとは言っても高低差があってなかなか大変です。
まずは 民家園。
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静嘉堂緑地の崖線の途中に 岡本八幡神社があります。階段を見ただけで本殿に行く気力がなくなりましたので 鳥居だけ・・・
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昭和55年12月に開園した岡本公園民家園には、区の有形文化財第1号に指定された旧長崎家住宅主屋と土蔵1棟椀木(うでぎ)門を復元し、江戸時代後期の典型的な農家の屋敷環境を再現しています。
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旧横尾家住宅椀木門
大正13年に建てられた数寄屋風の門この門は民家や土蔵よりも時代が新しく、建築様式や趣旨が異なるため、裏門として配置されたようです。農家の門ではない。
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岡本公園民家園旧長崎家主屋
東京都世田谷区岡本2-19-1
「岡本民家園 萱葺きの家は、瀬田にあった旧長崎家住宅主屋・旧浦野家住宅土蔵を移築・復元したものである。古民家には、囲炉裏が切られ、ボランティアがの人たちが昔ながらの生活風景を再現し、また季節の行事等が行われてもいる。
世田谷区指定有形文化財第1号。延べ床面積約30坪の「喰(く)い違い四ツ間取り形式」と呼ばれる同建物は、「江戸時代中期18世紀末頃に建てられたと推定」され、「江戸時代の世田谷の農民や庶民の生活を体験できる施設」として復元されたもの。もともと同区瀬田2丁目にあった。「生きている古民家」をテーマに、囲炉裏には毎日火がたかれ、家の中や軒下には民具が置かれています。主屋内にも自由に入ることができ、民具などに触れることもできます。また、農村に伝わる行事等も行っており、昔ながらの生活や風習を体験することができます。世田谷区」
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農具が並んでいます。
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囲炉裏。
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旧浦野家住宅土蔵
土蔵は区指定有形民俗文化財に指定されていて、江戸時代末期に建てられたようです。
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ちょうど 大正時代と昭和初期のひな人形が展示されていた。
展示されるひな人形は大正時代(15体)と昭和初期(16体)のもの。
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それぞれ7段飾りに設置し、時代による男びなと女びなの並びや人形のサイズ、時代による男びなと女びなの並びや人形のサイズ、表情の違いが確認できる。25日からは、ひし餅、貝のお吸い物、ちらしずしなどのお供えをする。
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開園時間は9時30分〜16時30分。月曜定休(月曜が祝日の場合は翌日)。ひな飾りは3月3日まで。

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2013年02月26日

旧小坂家住宅(世田谷区)

旧小坂家住宅(別邸)は、木造和風平屋建(一部2階建)で、茅葺き風の古民家を思わせる外観を持っています。間取りは、南面して建つ主屋棟を中心に、西側に応接棟、東側に台所や浴室などの生活棟、南東側に渡り廊下を介して内倉、その奥に2階建の寝室棟を建てた雁行型の配置となっています。
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濡れ縁。庭園から登ってくるとこのあたりからも出入りできるようになっています。
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玄関右手が茶室がになり、昭和20年東京空襲を案じて日本画家の横山大観夫妻が池之端の本宅から、小坂家の茶室に移り住まわれていた時期があったそうです。
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茶室前の水屋です。茶の用意をするために設けられたもので 普段は扉が閉めてあるので普通の棚に見えます。本格的な造りです。
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7.5畳の書斎。床は寄木のフローリング。マントルピースが北側にありその上に大きな飾り棚があります。
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書斎天井は山小屋風の丸太が使われ壁もなた削りという荒々しい模様がみられます。
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寝室に向かう廊下には二階建ての内倉があります。防火金庫の役目で扉は鉄製の防火扉。
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寝室の手前に 奥様の着替え部屋がありますが これは今で言う ウォークインクローゼット。
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ちゃんとワードロープもあります。
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階段は二階の令息室への階段。
ハイカラ好きだったようで 当時には珍しいGEの冷蔵庫もありました。
洗面室は石の研ぎ出し流し。
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サンルームの椅子は 金華山織です、この部屋から正面に富士山が見えるそうです。
どの部屋からでも冨士山が見える設計で現在も晴れた日には見えるとのこと。
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書棚の扉も凝っています。
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寝室のシャンデリアと中心飾りや天井の漆喰。
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寝室は約9畳の洋室でマントルピースがある。
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昭和の家電製品、ビクターのステレオ も残されています。
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各部屋の壁には押しボタンの呼び鈴があり女中部屋と繋がっています。
述べ床面積:1階 331.5m2 2階 46.0m2
敷地面積:9466.25m2
敷地も含めて、現在の管理は世田谷トラスト(HPに間取り図あり)によって管理がなされいて見学ができます。
開園時間 9:30〜16:30
 休演日   毎週月曜日(月曜が祝日の時は翌日)
 入園料   無料 
事前に予約したわけでもないのに とても丁寧に案内していただきました。

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2013年02月25日

旧小坂家住宅・雛飾り(世田谷区)

武家屋敷門から 少し戻ると瀬田四丁目広場の旧小坂家住宅です。このあたりは丸子川からの傾斜地(国分寺崖線沿い)に位置しかっての財界人や華族の別邸が数多く建てられていましたがら現存するのは、瀬田四丁目広場の旧小坂家住宅のみとなってしまいました。 
国分寺崖線を上手く使った斜面をうまく利用しています。 3000坪の敷地に竹林・多くの樹木・湧水と自然が残り、この敷地の最上部の見晴らしの良いところに住宅が建っています。
平成11年11月に世田谷区の有形文化財に指定され、「瀬田四丁目広場」として公開しています。
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表門
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旧小坂家住宅世田谷区指定有形文化財(建造物)   
世田谷区瀬田四丁目四十一番
所 有 者  世田谷区
昭和12年7月起工、昭和12年10月上棟、昭和13年9月竣工
面積:9,466.25u
旧小坂家住宅は、信濃銀行取締役、信濃毎日新聞社長で、後に貴族院議員、枢密顧問官を務めた小坂順造(1881年〜1960年)が、昭和12年に別邸として建てた屋敷で、戦時中は 日本画家の横山大観も空襲を避けるため、樹林地の中にあった茶室に一時期移り住んでいました。

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中門(腕木門)
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中門を入ると、この道標があります。是より山道」
この道標は区内野沢の個人宅にあったものを世田谷区が譲り受けたもので、旧所有者が長野の石屋ぁら購入したもののようです。たしかに是より下が 崖線の斜面地です。
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玄関
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庭から見た主屋
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玄関の天井は古民家風。
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ちょうど居間には 雛飾りがありました。
床の間と書院がついている12畳半の和室です。
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茶の間境は桐の1枚板に「五三の桐」模様を刻んだ欄間。
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入側のつるし雛。使用されている縁桁は10.6mもある京都北山杉の磨き丸太。
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昭和12年10月2日上棟、清水組と書かれています。
お雛様をみたあとにボランティアの方と各部屋を廻ります。
国分寺崖線
「立川面と武蔵野面とは国分寺崖線(こくぶんじがいせん)によって分けられている。国分寺崖線は武蔵村山市緑が丘付近に始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅付近を通り、JR中央線を国立駅の東側で横切り、国分寺市・小金井市と国立市・府中市の市境に沿って東に進む。さらに野川の北に沿いながら調布市に入って深大寺付近を通り、つつじヶ丘などの舌状台地を作りながら世田谷区の砧地域、玉川地域南部を通り、大田区の田園調布を経て同区の嶺町付近に至る。世田谷区の等々力渓谷は国分寺崖線の一部である。高低差は20メートル近くになる。」

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2013年02月24日

武家屋敷門(世田谷区岡本)

馬坂とは 静嘉堂緑地の正門前から北西に上る坂道です。 (国分寺崖線の坂) 世田谷区瀬田4丁目と岡本1丁目の間 の坂それまでの坂道があまりにも勾配が急なため、人は上り下りできても馬はどうすることもできなかったことから 新たに勾配の弱い道をつく、馬も楽に往復出来るようにしたのでこの名がついたそうです。
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馬坂沿いの旧小坂家屋敷地は、坂の傾斜に合わせて大谷石を積んで築かれた外構に囲まれています。当時のままだそうです。
馬坂を上がると右側には「瀬田四丁目広場(旧小坂邸)」があります。
その少し先 多摩川テラスという集合住宅が3棟あります。多摩川テラスは鮎川義介氏の邸宅跡地となります。そこには、彼が移築し邸宅の門とした「武家屋敷門」が残されています。(角に石標があります。)
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武家屋敷門(岡本1丁目)
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伊木家武家屋敷門 世田谷区指定有形文化財
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門前に掲げられていた掲示には次のように書かれている。
世田谷区指定有形文化財(建造物)「武家屋敷門

所在地:世田谷区岡本1−3 多摩川テラス敷地内
指 定:昭和54年10月25日
建築形式:一重 切妻造 本瓦葺 背面一間下屋付
規 模:桁行69尺(20.9メートル):梁間22.4尺(6.79メートル)
 「この武家屋敷門は、元岡山藩池田家筆頭家老を代々勤めた、伊木家の下屋敷の表門であった。この下屋敷は、荒手屋敷とも呼ばれ、後楽園の下手の中州にあった。屋敷内には茶室も多く、十四代伊木忠澄は三猿斉と称し、茶人としても名高い。
 昭和12年、河川改修工事のため水没する屋敷地内の門及び茶室を、鮎川義介氏が譲り受け、千代田区紀尾井町の自宅内に移築した。その後、昭和38年屋敷を現在地に移し、その表門として使用されていたが、昭和53年多摩川テラス建設にあたり、場所を移動して復元保存された。
 門の形式は長屋門で、屋根を切妻造、本河原葺とし、外壁は腰が海鼠壁で、他は漆喰の塗壁造りとなっている。間取りは、向かって右手が番所、左手が納戸部屋となっており、番所は正面に出格子、門扉に向かっては与力窓がそれぞれ付き、格式の高さを示す。
 中央には両開きの扉が入り、また、向かって右手にには片開き戸(潜り戸)、左手は板壁となっている。両開扉の親柱の柱間寸法は10.05尺(3.05メートル)、材質はは杉材、親柱及び冠木・出桁はいずれも松材が使用されている。門扉には吊り元に八双金物饅頭金物、菱形の釘隠しも付けられている。

 建築年代は不詳であるが、部材の風触、各部の仕様、下屋敷の造営史等から、江戸時代中期(18世紀末期)頃と推定される。当門は、大藩の家老屋敷の表門としての格式を示す遺構とし貴重である。昭和59年3月・世田谷区教育委員会」
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長屋門。(住居になっている)
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現在岡山の伊木家本邸にも同等の武家屋敷門が現存するそうです。
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「武家屋敷門」の所有者は「テラス管理組合」と書いてあったので、居住者全員の共有財産なのでしょうか・・・
鮎川義介氏
1880年〈明治13年〉11月6日 〜1967年〈昭和42年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者。

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2013年02月23日

歴史と文化の散歩道(世田谷玉川)

砧線跡から離れても遊歩道は続きます。
高級住宅街らしい凝った大きな家並みが続きます。
このあたりの遊歩道は 歴史と文化の散歩道だそうです。
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谷川(やがわ)

「谷川は、かってここより北に流れる谷戸川下流部であったのが、丸子川(六郷用水)の開削により立て切られたものと言われています。大蔵田園と呼ばれた広い水田を潤してきた谷川の細い流れも、街の様子の変化とともにその使命を追え、やむなく姿を消しました。この遊歩道は埋め立てられた谷川の路地です。今も谷川は、地面の下で下水道に姿を変えて生きています。」
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億ションと言われる高級マンションがありその前にはめ込まれていた石材です。
ここは 「幽篁堂庭園」という有名な庭園の跡。当時の面影を残す樹木がマンションを囲み石垣があり 大きな庭石なども見られます。
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幽篁堂(ゆうこうどう)庭園は、昭和初期につくられた池泉廻遊式庭園で、文化的遺産としても高く評価された名園でした。
当時は、岩手石の塀に囲まれた中に、京風の庭園があり、竜神様が夜な夜な水を呑む音になぞられて池を作り、竜頭を形作る庭石を添えて鱗に小石を配するなど贅をつくした庭園だったそうです。
幽篁堂庭園は、骨董屋を営んでいた本山豐實氏が昭和初期に田圃地を借り上げ築造しました。その後数度にわたり所有者が変わりながら、企業の迎賓館建設や作庭が行われた。庭園内には、他から移築した和風建築物が配されていたそうです。添景として多数の石造物が所在したが、平成十三年に庭園が廃止された際、石造物の多くは他に引き取られた。しかし マンションの周りが遊歩道になりに木々や石類などがいくつか残されています。散策路として公開され自由に通行できます。
散策路で見つけた石標です。
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この石標、万葉仮名でゑのしま道と刻まれている様に見える。
左右の側面にはそれぞれ“一切衆生”、“二世安楽”と刻まれている。
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これと同じものが江ノ島にもある。藤沢市の解説板には、「江の島弁財天道標」とあり、江戸時代初期の管鍼術師・杉山検校が寄進したものとある。江戸時代、藤沢宿から江の島へ参詣する人々が歩いた江の島道。この道の岐路に道しるべとして立てられた道標で、藤沢宿から江ノ島までの約四キロの道に寄進により四十八基が建てられたという。十一基が現存し、いずれも藤沢市の指定重要文化財だそうですが なぜそれがこの地にあるのか・・・・。藤沢市が玉川のものを調査をし、大きさ形が藤沢市内で発見されたものとほぼ同じで、書面も刻まれていていたことから、江の島道標に間違いないとされた。いつ誰が この地に持ち込んだのかは謎だそうです。

そこからまもなく 下山橋の交差点になる。
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説明板や写真などがあります。
丸子川親水公園
「ここから、西約900mにある仙川の水神橋際にはじまる丸子川は、国分寺崖線に沿って大田区へと流れています。丸子川は、江戸時代初期に、小泉次太夫と多くの農民の手により、開削された六郷用水の一部で、世田谷では俗に「次太夫堀」とも呼ばれてきました。丸子親水公園は、水神橋から下山橋までの区間で、水辺の遊歩道に沿って岡本公園民家園や静嘉掌緑地が続きます。」
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橋を渡ると旧小坂邸の裏門があります。旧小坂邸の 敷地は国分寺崖線上の縁辺部にあり、敷地の約半分は斜面地となっています。国分寺崖線の姿をよく残し、湧水も見られ、自然と建物が一体となった緑地空間を形成しています。
裏門を入るとすぐ 庚申塔がありました。
案内板によると、二基ある庚申塔はもともと、ここから近い玉川四丁目の幽篁堂庭園というところにあったそうだ。庭園が平成十三年(2001)に廃止された際、世田谷区に寄贈されたので、ここに置かれたとのことです。
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笠のある一基には青面金剛と三匹の猿が彫られている。もう一基には一体の猿が大きく彫られている。
ここから 屋敷までは 竹林から崖線を上る道。とても登れそうも無くて諦めて 坂上から入ることにし 馬坂にまわりました。

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2013年02月22日

二子玉川〜玉川電鉄砧線跡(世田谷区)

二子玉川駅を出ると目の前は玉川高島屋。
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まずは昼食をというわけで 高島屋内のカフェに入る。
フランスの高級食料品店「フォション」のお店Cafe de FAUCHON のランチを注文。
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キッシュとクラブハウスサンド。サラダと珈琲か紅茶がついて 2100円。
薫り高いフレーバーティが選べて ポットの美味しい紅茶を楽しめます。
まったりと紅茶を楽しみ 美味しい昼食を終えていざ砧線跡へと向かいました。
二子玉川商店街を通ります。
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しばらくして右折し 砧線跡の遊歩道に入ります。
道路と平行に走っていますが 歩道の部分が、線路のあった場所です。
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歩道には 砧線のイラストがあります。
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「砧線軌道跡」彫像
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 路面電車用のレールを使って作ったガードレールとベンチ。
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歩道に、線路の模様が続きます。
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きしべの道、砧線跡遊歩道の標識。
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古い写真と地図と説明書きがあります。
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「砧線」は、東急電鉄の軌道線「玉川線」の支線として1924年(大正13年)3月に開通した、わずか2.2kmの単線路線。砂利の運搬を目的として誕生し、その後住民の足となって、玉川線が廃線となる1969年(昭和44年)5月まで、45年間にわたって活躍しました。
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東急玉川線の支線であった砧線は、1924年に開通。二子玉川園から砧本村まで単線で途中、中耕地・吉沢・大蔵の3駅があり終点砧本村まで2.2キロの行程でした。1969年に廃止。
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遊歩道途中にコンクリート工場などもありました。
砧線跡遊歩道は最後まで歩かず 途中で右に曲がり離れました。
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